噛む男

3/3
前へ
/3ページ
次へ
「むほほほほほほほほ!」 男は生暖かい西風に乗って走りまわり、往復六車線の国道を真一文字に横切った。驚いたクルマたちが次々と急停止した。クラクションと、そして罵声が飛び交った。 「馬鹿野郎!」 「死にたいのか!」 「むほほほほほほほほ!」 男はクルマとクルマの間を疾風のように走り抜けた。クルマたちが続々と斜めになって止まる。 「馬鹿野郎!」 「歩道橋を渡れ、非常識野郎!」 「むほほほほほほほほ。ほーっ!」 男は飛んだ。 黒塗りのレクサスが男をはね飛ばしたのだ。ノーブレーキだった。男は飛んだ。男は笑いながら空高く舞い上がった。男は回転しながら落下した。男は焼けたアスファルトに蛙のように叩きつけられ、ついには狂乱の生涯を終えた。 黒塗りのレクサスがハザードを点滅しながら左に寄ってゆっくりと停車した。左右のドアが開き、黒っぽい背広姿の男ふたりが悠然と降り立った。ふたりとも身なりは完璧だが、その陰惨な顔つきは暴力団高級幹部としての素性を隠せない。 「轢いてしまったようだな。しかもノーブレーキで」 助手席から降り立った男が言った。無表情。眉ひとつ動かさない。 「ちっ」 運転席から降り立った男が忌々しげに舌を打ち鳴らし、ゆっくりと言葉を吐き出した。「急に飛び出して来やがった」 「どうする?」 「身代わりを立てる」 「それが無難だな」 「なにしろ俺たちはヤクザだからな」 ふたりのヤクザは路上に這いつくばった男になど見向きもしない。息を殺し、ただ静かにレクサスを見下ろした。ふたりは傷ついたボンネットを暫し眺め、そして顔を見合わせた。 「ちくしょうめ。ボンネットに歯形がついてやがる」 「死ぬ間際にクルマを噛みやがった。まったく、なんて野郎だ」 了
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加