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がっかりしたように言って、知久さんは会場全体に手を振ってからアンコール曲を弾く。
曲はバッハのシャコンヌだと気づいたのは少ししてからだった。
アレンジを入れ、速いスピードで弾く。
「……すごい」
「知久がすごいのは弾いている時だけだ」
「バッハに叱られるのは間違いないね」
二人は笑う。
陣川知久さんの演奏は堂々としていて、華やかで自信に満ち溢れていた。
きっと誰よりも弾きたいという欲が強い。
奏者にとって弾きたいと思うことは当たり前のことで呼吸をするのと同じくらい大事な欲求だった。
それがなくなってしまった私にとって知久さんの音はその欲をかきたてさせられる。
太陽のように自らの光を分け与えるタイプ。
アンコールが終わると拍手喝采。
知久さんは嬉しそうにほほ笑んでいた。
二人も拍手を送る。
「千愛。弾きたい?」
私の指が動いているのを見て、唯冬がぽんっと頭を叩いた。
「いいよ。それじゃあ、俺のマンションへ―――」
そう言いかけた時だった。
「唯冬さん、逢生さん。来てたのね」
女性の声が唯冬の言葉を遮った。
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