第9話 足りないもの

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グランドピアノが二台―――いっしょに弾くことを考えて置いてあるのだと気づいた。 どうして、ここまで私にできるの? それが不思議でならない。 「私を連れ戻してどうするの?私になにを望むの?」 唯冬はふっと目を細めた。 まるで愚問だと言わんばかりの態度で。 「君の音を俺に聴かせてくれたら、それでいい」 「雨の庭を聴いたでしょ。もう無理なの」 重たい指、水の中に沈んだまま、浮かべない音。 止めてくれなかったから、溺死していたかもしれない。 二度と弾きたいなんて思わなかっただろう。 でも今は――― 「今は指が動かないだけだ。弾きたいからってすぐに弾けるわけないだろ?何年もブランクがあるんだから」 「指だけじゃない……」 気持ちにもブランクがある。 同じ曲を弾いてもあの頃の私とは同じ曲にはならないだろう。 「そんな千愛にこれをプレゼントしよう」 ぽんっと頭の上に紙袋をのせた。 「なに?」 「弾いていいよ。ただし、無茶苦茶に弾くのはナシで」 「……ハノン」 紙袋から出てきたのは練習教本ハノンだった。
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