湖上の別離

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 かみさまの罪の話を聞いて数時間後。丑三つ時、寝間着姿で小さな懐中電灯で足元を照らし、手にした斧を半ば引きずるようにして、進む。  村にいくつもある祠のうち、歴代の神主以外誰も近寄らないものが、私の家の裏側に一つある。  何度も近づくなと言われた先に、何があるのかは、毎年元旦を迎えるとすぐに、父が祠の前で何やら唱えるのを見ていたのと、古い書物の情報と併せて察していた。  扉を開くと、彼女を縛る鎖が繋がる杭は、何らかの呪文らしきものが書かれた紙で、幾重にも巻かれていた。よく見れば、根本は錆びていて、紙もボロボロ。よく研いだ斧なら、何とかなるかもしれない。無謀なのは承知の上だ。  祠の中に楔があると確信してからかみさまの話を聞くまで、ここに来るために私を突き動かすものは、かみさまを開放できる高揚だろうと思っていた。でも、今、抱いているのはそれではない。ヒロイックな感情なんてない、煮詰められた激情が嫉妬でも自己満足なのかも区別できない。  彼女と恋に落ち、今もなお心を占める存在。  それから、かみさまを引き離したいのだ。  結局、私がは自分のことしか考えられない、かつての、そして今の村人と、まるきり同じではないか。みにくい。ゾッとする。  口を引き結び、携えた斧を、思い切り振り下ろす。石が刃を擦る不快な感触を無視して、何度も、何度も。  過去の残像を、叩き壊すように。  紙も杭も壊し終えた瞬間に爛れた両手と、駆けつけた凄まじい形相の父に殴られた頬がズキズキと、乱れる鼓動に沿って痛む。それでも足を止めるわけにはいかない。  怖いのではない。逃げているのではない。ただ、確かめなければならなかった。  いつもの小道へ入りかけたその時、草むらから伸びてきた手にぐいと引っ張られる。  悲鳴をあげかけて、馴染み深い芳香に気がつく。 「千代……」  私のかみさまは、青ざめた顔で、壊れ物を扱うように抱き寄せてくれた。  目線を下にやる。足首の縛めが、解けている。安堵のあまり、その場にへたり込んだ。  今にも泣き出しそうに顔を歪めた彼女に、ぎゅうっと、抱きしめられる。 「すまない、妾のせいだ」  かすかに震える言葉に、首を横に振る。 「……私が、勝手にしたことだから」  感情が奔流となって名付け難いものになって溢れ、彼女の柔らかな胸に縋り付き、子供のように、泣きじゃくった。  遠くに聞こえる、数多の人の怒声。見つかるのも時間の問題だ。  かみさまが恋で罰を受けたなら、私も受けよう。かみさまが自由になる代わりに私が囚われても、みにくい感情で、これまでの交流を怪我した私への報いだと、受け入れよう。  背にまわされた腕の力は強くなり、彼女から初めて聞く、強い声が鼓膜に響く。 「千代、しっかり私につかまれ」  とっさに手をかばって、彼女の首に腕を回す。何とも形容しがたい強い違和感に襲われた後、恐る恐る目を開く。 「え」  足を動かすたび、無限に波紋が広がる湖には、しん、と静寂が満ちている。  かみさまに抱きしめられたまま、湖面の上に立っているのだと、ようやく理解する。 「千代」  夜空に浮かぶ月に照らされた白い顔は、凄絶なまでに、麗しい。 「この前、昔の話をした時、わざと隠していたことがある」 「……」 「償いは大義名分。……この地にあえて縛られ続けていたのは、約束を果たすのを待っていたんだ」  かみさまは静かに囁く。 「初めて会った時から、気がついていた。輪廻は、意地が悪いからな。……そなたは、あの娘の生まれ変わり」  言葉が続くにつれ、彼女の肌には鱗が現れ、瞳孔は細まり、目は爛々と光を帯び、どんどん「ひと」の姿から、かけ離れていく。ざわざわと、空気が不穏に私たちを包む。 「……だから、私に優しくしてくれたの?」 「それも、ある」  ああ、正直であるということは、こんなに残酷なことでもあるのか。  やっと気づいた。だから大好きなんだ。彼女がその瞳に誰を映していても、私は、彼女が好き。どうしようもないんだ。  その時、足元から振動が蠢き出した。 「巡り合った時に覚えていたら、今度こそ共に生きよう。覚えていなかったら、妾がそなたを守る。それが交わした約束」 「――」  思わず開きかけた唇を閉じるように、指先を載せ、かみさまは横に首を振る。 「ずっと、そなたの幸福のために、どうすべきか考えていた。すまなかった。妾が、悠長に機をうかがっていないで、もっと早くにこうすべきだったんだ」  彼女の変貌に比例するように、得体のしれない揺れと、音が、ひどくなっていく。 「……かみさま?」 「だから……」  泣き笑いの表情を焼き付けた両の瞼に、ひんやりした手が触れ、ゆっくり閉じられる。 「今まで辛かったことと、身勝手な妾を、忘れろ」  意識が、途切れた。
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