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この村に、心地良い風は吹かない。
どんなに晴れていても、あるいは気温が低くても、じっとりとぬめるような、水の気配を含んだ空気が、全域を侵食している。夏になると、その傾向は顕著に現れる。
過疎化の進む、田畑が青々と広がる村。その中心に位置する森の真ん中を真上から見たなら、燦めく青を見ることができる。
私の住むこの地には、かつて日照りに苦しんだ際、それを憐れんだ水を司る神と、“湖に己を住ませ、永く祀れ”という取り引きをした結果、雨が降り注ぎ、窮地を脱したという言い伝えがある。
それ以降、森の中の、湖面面接約50平方キロ、周囲約80キロメートルのそこを、神の住まいとして崇め、ほとりに社を建てた。神秘的な言い伝えと、景観の美しさもあり、観光地としてまあまあ知られていて、村の入口にあるちんまりした道の駅――元は単なる古い米蔵を改装したもの――で、湖の写真やら水やらなぜかお菓子やらも売って、それなりに儲かっているそうだ。
緑広がる光景が、夕日に染められる逢魔が時。
今日もいつものように、湖には目もくれずに走る私の目的地は、その森の奥の、私くらいしか通らない小道の先。落ちた小枝を踏みしめ急ぐ。
木々の合間にちんまり建っている、あばら家の上り框に、いつも彼女は腰掛けている。
「よく来た」
紺の地にヤマユリをあしらった着物、長く垂らした艷やかな黒髪、紅い唇に嫋やかな笑みを浮かべた、美女。
「こんばんは、かみさま」
「髪の毛に、葉がついておるぞ」
「え、ほんと?」
「どれ、とってやるから、座れ」
耳に心地良い声に促されるまま、腰をかける。白魚のような指が、ゆっくり髪に触れたごく僅かな感触。切ないような疼痛が胸を刺す。
「どうした、熱でもあるのか」
「いや、大丈夫」
触れられた刹那の、電流のような慄きが、全身に回って支配する。
誤魔化すように、目線を泳がし、下を見れば、今度は静かな怒りが脳を支配する。
いつ見ても異質な、かみさまの真っ白な左足首に繋がれた、だらりと長い黒い縛めが、耳障りな金属製の音をたてる。
これがある限り、彼女はどこにも行けない。
迷信深い中年や老人しかいない村で、暗黙の了解として根づいているのは、本当の社はここで、彼女がかつて村を救った「神様」ということ。
そして、村長兼社を守る宮司である父をはじめとした、私の親族たちが彼女を森に閉じ込め続けているということ。
「千代」
足首を見られていることに気がついたかみさまは、困ったように笑った。私が彼女の処遇に憤るといつも、こういう顔をする。
夜になりかけた空気が、重さを増した。
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