或る男の話。

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「もう起きなさいよ。」 という母親の声で、目を覚ます。眠たい目をこすりながらもとりあえず体を起き上がらせる。頭の中で虫がたかるようにキーンと痛む。あぁいつもの片頭痛かともともと低いテンションが更に下がる気配がする。寝室から見える廊下には朝日の面影が顔を出しており、自分の気分の落ち込み度合いとそれ以外の環境にギャップを感じる。いつもの朝が、日常がやってきたのだと、機会になったかのように認識する。そうしてぼーっとしていると眠気がまたやってきたのでそろそろ起きなければという使命感に駆られて、覚束ない足で電気を消し、リビングルームへと向かう。廊下に出ると案の定、朝日が眩しくて目がくらみ立ち止まってしまう。それに反抗して足を動かして前進する。リビングに辿り着くと、テレビの前には父親が鎮座し会社に行く準備をし、キッチンには母親が立って、私のお弁当を作っていた。光に包まれたその空間はどこか他人行儀のようにそれぞれの作業を行う人々をイレギュラーな雰囲気にさせている。目が慣れるまで、と思い携帯電話を触り始める。オンラインゲームのログインだけ済ませると、目も慣れはじめたため、朝ごはんの支度をする。キッチンの電子レンジ横にある薄汚れた籠に雑に置かれているスナックパンの袋を手に取り、冷蔵庫にあるジュースをコップに注ぎ、キッチンの対面にあるダイニングルームにある木製の椅子に腰かける。何とも言えない小麦の味と人工的な果実の味が口の中で合わさり、よく分からないものを食べている感覚に陥る。まぁ味なんて全く興味ないのだが、といつも心の中で呟く。食事をするのに手持無沙汰になり、咄嗟に手に届く範囲にあった新聞紙に目を移す。そうしてテレビ欄から夜のテレビ番組や面白い番組はないかと探す。今日は全く面白いと思えるような番組はなかった。もう少し視聴者の興味をそそるような書き方を出来ないのかと軽く考えたものの、パンを求めていた左手に感覚がないことに気付く。時計の針を見て、この作業が3分程で終わらせたことを視認すると、コップと袋を母親に渡し、服を着替える作業に移る。リビとングルームと襖を隔てて面する畳の部屋に行き、箪笥に収納されている服を、手に取りやすいものから手当たり次第に奪うようにして取る。今日はグレーのスウェットに緑のズボンのコーディネーションだったため、いつもと比べると幾分かはましな服装だった。ひどい時には黒の服に黒のズボンなど明らかに不審者のような格好になってしまう時さえ存在する。パジャマを洗濯機の中に投げるようにして入れる。秋も本格的に色付きをはじめ、それと共に寒さをもたらす。いくら日が温かいからとはいえ、四季の前に日本人は無力で対抗する手段は基本的にはないと言っていいだろう。流石に上半身が裸でいるのも、肌寒さを感じ始めたので手元にある服を一目散に着る。肌がこすれる音がして、それと同時に身体が保温される心地がする。「寒さ」という感覚だけなのに、四季の訪れを感じられるだけでなく、時間の経つ早ささえも感じさせるのだから、人間の感覚というものはすごいのだなと改めて感心する。「時間」というものは中学生の頃から止まったものだと考えていたからこそより強く、強く考えたのかもしれないと今になっては推測される。次の作業は歯磨きの作業だ。何も考えずにただ歯ブラシを左右に動かすだけなので簡単な上に、他の作業と同時に出来るためとても効率が良い。少量だけ付けたはずの歯磨き粉のミントの香りが鼻から抜け、目が覚める。歯を磨くというよりは、歯ブラシを咥えて朝の準備を始める。自分の部屋(半分は母親の私物が置かれているため実質半植民地)に戻り、小学三年生の時に買ってもらった机の棚に並ぶ教科書の海から、時間割と照らし合わせて、教科書を抜き出す。全く頭がぼーっとしている時は、時間割に書かれているのとは違う教科書を持っていくこともあるため要注意だ。教科書をリュックサックの中に詰め込み、母親の作る冷たいご飯とおかずを押し込んだら準備は完了だ。そろそろ口がいっぱいになってきたので、急いで歯を磨き直し、洗面所に向かう。洗面所の前では父親がムースを髪の毛に馴染ませていた。大人になるということは容姿すらも完璧に整えなければならないのだろうかといつも想像するが、その恐怖からは毎度逃れられない。そして、その姿を横目に口をゆすごうとするが、父親が邪魔をして口をゆすげない。全く私の父親と母親は気を使うことが出来ないのだろうか、人の行動を予測して行動することが出来ないのだろうかと期待した分の不安と、「大人」という不安の板挟みになってただ両側から迫る板を傍観しているだけの存在なのである。さて、口もすっきりし、リビングルームのテレビのそばにあるソファに座り、携帯電話で時間を確認すると家を出発する時間の5分前であった。厳密な作業をするにおいて時間というものはとても貴重で、定刻に、決めた時刻に行動を起こし、普遍化されている作業を日常という単語から抽出するだけなのである。私にとって生きるということはそれだけのちっぽけな存在だ。私には好きな言葉がある。「人生は、苦労して捨てるほどの価値もない」ジャック リゴーの言葉である。この言葉に出会った時、私はこれまで歩んできた人生を振り返った。期待という名の束縛から逃げられなかった運命、それに不安と、苦しみと嬉しさを感じていたこと、高校受験に失敗した時の絶望、自分の能力のなさ、自己肯定感の低さ。あらゆるものが頭の中を反芻して、頭痛のような暗闇がどっと押し寄せてくる。私は一抹の不安を感じて、どこかに逃げ出してしまいたくなる。そんな幻想の中に捕らわれた自分を母親の声が無理やりに私の意識を戻す。テレビで時間を見てみると、電車の来る8分前だった。咄嗟に、私はリュックサックを背負い、重たい足取りで、玄関に向かう。靴を履いてドアを開ける。 「行ってらっしゃい。」 母親の声が小さく聞こえたような気がした。小学生の頃はいつも玄関までお見送りに来てくれていたのに、と過去の自分に嫉妬のような、悲しみのような感情を抱く。東に見える朝日が眩しくて、思わず顔をしかめてしまう。お前のような光があれば私も母親に見てもらえるようになるのだろうか、と心の中で太陽に問いかける。勿論太陽からの返事はない。そのことを見越して、太陽の思う通りにはいかないと、エレベーター前の日光が当たらない場所に避難する。太陽にも私を操作することはできないのだ。鎖から解放された番犬が人を襲うような優越感を心に恐らく十分に満たされていることは私自身にも感じられた。エレベーターの2階のボタンを押して、下る。私たちが住むマンションはとても駅から近く、大きな歩道橋を通じて2階から直通で駅に辿り着くような設計になっている。私はタイムトライアルが大好きな人間で、小学6年生の頃に一度、どれだけの時間でマンションから駅まで着くのだろうかという検証をしてみたことがある。その時は1分13秒という予想していたよりも早いタイムになった。だからといって通学する際にこの時間は全く持って役に立たない存在なのだが。とツッコミを入れてみる。気がつくと、駅の改札前まで辿り着いていた。通勤と通学の時間と重なり、いつも通り人が多い。何歳になっても人の多いのに離れずにぎょっとして不安な気持になる。すくんだ足で改札を抜け、ホームで電車を待つ。秋も本格的に姿を現し始め、それに伴い自然のあらゆるものが人間としての凶器に成り果てる。西高東低と言われていただろうか、われわれにとってそんな簡単な言葉でこの四季というものを表現できるらしい。全く、学問というものは分からないものだ。木枯らしに身をすくませ、より恐怖を煽られるように電車が来るのが怖くなる。それから幾分かして、アナウンスと共に轟音をたぎらせた電車が突っ込んでくる。私の好きな場所は車両と車両のつなぎめにあるドアにもたれかかることのできる所だ。「場所」といってもこの乗り物が好きなわけではない。ただ、無になって脳のデータ負担を減らすことが出来るだけだからである。揺れる車内に左右されることもなく、他人の足を踏んで蔑んだ目で見られることもない、干渉しないということが唯一の魅力であった。さて、いつの間にか乗り換えをするための駅に停車しようと鉄の塊が急停止をする瞬間であった。乗っていたサラリーマン、学生、どこかのデパートに行くのであろうおばあさん、皆が姿勢を崩し、一定の方向に倒れる。足はよろめき、バランスはとれない。その姿はとても美しかった。自然の前には無力、この世の心理は人間とかいう愚かで不明瞭な存在にはわかりえないものなのだなと心底理解した。人間界という言葉が生まれる通り、世界と人間とは隔離されているのだ。私が、世界に住む住人になるのならば、世間の人々は何というだろうか、バッシングするだろうか、私を擁護するだろうか、メディアで報道されるだろうか、SNSのトレンドランキングに入れるだろうか。人間という愚かで妬ましい存在には泰然自若の前では遠く及ばない。そんな妄想を押し破り、ドアが開き、人が流れる。どこか気持ち悪さを覚えた。「社会」という中でしか生きることの出来ない脆く、弱い存在。今の私にとってそれほどのちっぽけな存在にしか見えなかった。その人混みに入るために歩みを進めていることに私は気付かない。心象の、強く、意見を正しく言える空想の私だけが、流れる人を傍観していた。さて、本来の私は、モダンな階段を降り(車両が止まる位置を記憶し、そこにいつも乗っている)、上ると反対側のホームに着く。定位置(次は、学校からの最寄りの駅の階段の位置を記憶した場所)に、配置する。すると、定刻通りの電車が来ない。おもわずパニックになる。プログラムされたように動くことは周囲の環境に合わせて組まれたものである。よって、私の頭にバグが発生したのである。どうやら人身事故が発生したようだ。アナウンスが入る。周囲の人間もアナウンスに耳を傾けて情報収集を始めた様子である。咄嗟に私自身もアナウンスだけではなく、SNSを使用して、電車がどんな状況なのかを知る。すると、木枯らしと共に冷えた刃のような言葉が私の心を突き刺した。その刃は私の右後ろの50代ほどのサラリーマンから飛び出したものであったと思われる。その男性は舌打ちをして、 「線路で死ぬなよ。もっと他人の事を考えろ。」 非常に不機嫌そうであった。私はその刃を避ける術がなく、正面からその痛みを受ける。心に刃が刺さると、そこから何かが広がっていく。出血は止まらない。受けた傷口が、完全に治った時には数分が経ち、電車が復旧したというアナウンスが入った頃であった。治癒したとはいっても、その傷は回復するのを遅らせる作用を持ち、心に空いた穴は完全には塞がっていなかった。むしろ、表面上で回復すると同時に、内側の心が軋んだ音を立て、崩壊の一途を辿っていたのかもしれない。傷に注目しているうちに、待ちくたびれた機械が現れた。人々は、安堵の表情で迎える。人間の表情を見た機械は、嬉しそうに汽笛を鳴らす。人混みの中にまた入らなければならないらしい。飽和状態の水のごとく、人々は日常に縛られ続け脳内には固定されている。「人間は考える葦である」という名言も違った意味で捉えられるなと感じるのである。機械に乗り込むための扉が開く。と共に日常へと誘われるのであった―― 瞼を開けると、眼前には一面の田が現れた。そうか、降りるべき駅の手前の辺りだなと記憶を頼りに思い出す。念のため、電光掲示板でも確認する。どうやら心配なさそうだ。私自身も日常から脱却することは恐れていることなのだろうと私の中にある潜在意識に失望する。そんなことを思っているとアナウンスで私が降りる駅の名前が呼ばれる。リュックサックを背負い、定期券を出し、準備万端だ。その駅は最近に出来たもので、ホームや改札周辺もレンガを基調とした建築で整っている。改札を通り抜けると、ますます冬がやってきたことを知らされる。同じ高校の学生らしき人も、どこか身を縮めている様子だ。高校に向かって歩みを進める。太陽が変わらずに眩しい。冷えた体を大きく動かして急いで向かう。友達を見かけることもあったが、基本登校時には話しかけないのが好きだ。カミュの『異邦人』のように太陽がそうさせたという理由で殺人が出来たのならばどれほど素晴らしい事だろうとつくづく思う。誰かに左右されずに自分の意志で人をも殺すことが出来るのであろうか。全く人間というものは不思議でならない。しかし、学校に辿り着くとその考えは全くの蜃気楼となっていたことが分かる。友達と先生と先輩という線引きに区切られた猿達。こうした集団、社会に支配された組織に私は単独の身で突進するのだ。これは間違いなく幻想であった。脳の中でしか組み立てることのできないものであった。それは私自身には分かっていなかった。 一時間目は体育であった。行う種目はバスケットボール。私と違い、スポーツ推薦で入ってきた者が数多くいたので運動が苦手な私にとっては嫌いな科目だ。中学の頃は友達が多かった上に、一定水準の運動能力さえあれば普通にやっていけるほどであった。また、友達と呼ばれる存在も他人のプレーを必要以上に咎めることはなかった。そのため、運動は別に苦手であっても良いという風潮さえ漂っていた。今の場所は記憶の中学校ではない。限りなく違和感のある集団の一つだ。試合をしてみたが全く活躍できない。教室に戻ると、同じチームの奴らが陰口をしていた。チームメンバーの名前を挙げては評論している。どうでもいい。君たちとは違う世界で生きるべき存在なのだ。 二時間目は数学。皆、体育で体力を消費しすぎたせいか顔を伏せているものが数えられないほど存在する。数学の先生は名門大卒の人で、そいつらを思いっきり咎めている。なんて心地の良いことだ。しかし、その優越も私の心を切り崩していることに気がつかない。悪というものは自分の身さえも滅ぼすのだ。なんと恐ろしい。その甘美な果実が持つ毒性に侵されてしまいそうだ。奴らを罵る快感。それとともに現れる心を抉るナイフ。ナイフは私の記憶から派生したものだと分かった時には遅かった。私は高校受験を失敗した。小学校5年生から入り始めた塾で切磋琢磨しながら勉強していた。最初の頃は偏差値50程しかなかったものの最終的には中3の模試で偏差値70を獲得した。でも、親からは褒められなかった。ひたすら上に上にと、上だけを見ていた。下の者たちに興味はなかった。しかし今は私が下である。これまで私が目を向けなかった世界。その世界に自身が孤立していると考えると恐怖で支配されそうだ。記憶の中にいる私という存在が瓦解し、脆く、儚く散り、鏡を見ているかのような気持になる。私はそれを見ることが出来ない。私の非を見つめることが出来ない。自分の弱さに、自分の愚かさに気付くのであった。そしてこいつらと同じ場で同じ時を過ごしているという吐き気のする状況に。私はパニックに陥っていた。何とか数学の授業を乗り越えると、スマホを手に取り、教室に流れている負の旋律から逃れようとひたすらに走る。私の住処を、居場所を求めて鼓動を高める。私は上流に流れる水であった。集団という場所から漏れ出し、靴紐の解けた靴を履き、陰鬱に鎮座する学校から背を向ける。 走る。 走る。 走る。 転ぶ。 走る。 顔をあげると、最寄りの駅だった。思わず、スマホから定期券を出し改札を通過する。もう学校には戻れないような気がして背徳感がより大きなものになった。階段を上り、ホームに上がる。ちょうどアナウンスが入る。電車が通過する、と。突然、私には一縷の望みが現れたように見えた。蜘蛛の糸のカンダタが地獄から抜け出したように、日常から抜け出せる唯一のチャンス。学校を抜け出した際からもう「普通」という縛りからは解放されているのだが、その分社会からは逃れられなくなる。それぐらいは分かっている。だからこそ、私は抜け出したいのだ。無理やりにでも、私という存在を引き裂いたとしても。鼓動が早まる。どうにかして、どうにかしてという言葉が頭の中を駆け巡り、鼓動と一致する。そうだ。と閃く。徐にホームの端に歩みを進める。その様はかの梶井基次郎が『檸檬』で闊歩した様子を想像させた。視線の先にはあの機械がある。電車が駅を通過する刹那、空に身を投げ出す。そして、身体がちぎれる音がする。私の中から旋律が生まれる。限りなく正いや、生に近い音だ。周囲からは悲鳴が聞こえる。その中で私だけが微笑を浮かべていた。 さて、私はここでこの話を終える。私はこの主人公にはなれない。現代社会という中を苦しみながら生きることになるということだ。可能ならばこの主人公に憑依してしまいたい。そうこの話を書きながら思っていた。いつか、どこかでこの主人公に出会えると信じ、今日も地獄を歩み続けよう。
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