白雨の唄

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 柚木唄(ゆずき うた)は少年の手を引き、斎場から抜け出した。  連日のうだるような暑さが続いた八月に不釣り合いの悪天候。午後から激しい雨が降りそそぎ、雷雲も漂っている。火葬の合間に飽きたと訴える奏を見たとき、唄の記憶は大学時代まで後退した。  十年前、唄は人生ではじめて男を知った。男の名は弓削響紀(ゆげ ひびき)。唄と同じ二年生であり、今日の葬儀の主役であった。  響紀が交通事故で帰らぬ人となったことを、唄は彼の妻である音羽(おとは)から聞かされた。音羽は唄と響紀がかつて恋人同士だった事実を知らない。しかし唄は、響紀が当時音羽とも付き合っていたことを知っている。音羽が本命で自分が浮気相手であったとしても、唄は響紀との濃密な時間を楽しんだ。  やがて響紀と音羽が在学中に結婚し、子をもうけたと人づてに聞いたが、唄の心は満たされていた。響紀は唄にはもったいないほど洗練された男で、音羽は大学のミスコンにも選ばれた、正真正銘の美男美女のカップルである。響紀にとっては遊びだったかもしれないが、唄は火花のような危うい関係性に愉悦を抱いていた。  卒業後、唄は声楽家として活動を始めたが、三十になってようやくひとりで食べていくので精一杯だ。  響紀と音羽は地元のオーケストラに入団し、響紀はチェリストとして、音羽はフルート奏者として名を馳せていった。  唄はときおり彼らのコンサートに足を運び、大学時代から変わらぬ響紀の演奏に酔いしれた。何度目かの公演の初めにステージ上に音羽が立ち、夫である響紀が不慮の事故で死去したと涙ながらに語った。  その日の夜、どのようにしてコンサートホールを出たのか、唄は覚えていない。自宅に着いてスマートフォンを眺めていると、一件の通知があり、音羽から響紀の通夜と葬儀の日程がメールで送られた。  唄はメールをゴミ箱に捨てた。  弓削響紀という男を忘れなければならない。葬儀に出てしまったら未練を断ち切れない。この十年間、唄は響紀を忘れようと意識して仕事に打ちこんだが、ひとかけらも彼を忘れることはできなかった。  もしも学生時代に響紀が音羽じゃなくて唄を選んだら。コンサートホールで響紀の死を伝えたのは音羽ではなく唄だったのかもしれない。  十年前にくすぶった火花がおどろおどろしい蝋燭の火のように唄の心を苛む。  唄はゴミ箱からメールを受信ボックスに戻し、葬儀の日程をスケジュール帳に書き留めた。
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