絵里のために

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              ※ 「淳史、そういえば昔近くに住んでた小林さんって覚えてる? 娘さん、あんたと同い年だかそのぐらいで、仲良かったでしょ」  その年の暮れに帰省した実家で、不意に母の口から彼女の話題が飛び出した。 「お、覚えてるけど……なんで?」  僕は口から心臓が飛び出そうになりながらも、平静を装って聞き返した。  結局あの後、携帯電話もつながらず、絵里の消息は分からずじまいだった。  もしかしたら入院しているというお母さんに不幸があって、身動きが取れないだけかもしれない。しばらくすれば連絡をくれるだろうと自分に言い聞かせながら待ち続けたものの、音信不通の状態がひと月以上続くに至り、僕はどうやら違うようだと考えを改めた。  代わりにこみ上げたのは、彼女の安否に対する不安だ。  何らかの事情で連絡が取れないだけならば良いが、彼女の身に何かあったとしたら――。  他に頼れる先もない絵里が、自らの意志で僕の前から消息を絶つとは考え難い。とすると、第三者の手によってそうせざるを得ない状況に追いやられていると考えるのが普通だろう。  可能性があるとすれば、第一に借金取りの仕業だ。弁護士を介入させた事に腹を立て、彼女を連れ去ったのではないかというのが、僕の見立てだ。夜の店や風俗店で秘密裏に働かせられているぐらいならまだいいが、人身売買や犯罪に利用されていたらと考えただけでぞっとする。  もしくは彼女が勤めていたという会社も疑いの余地はある。彼女がこれまで被って来た不幸を鑑みれば、まっとうな会社だったとは考えにくい。クビにする代わりに、連絡手段もないような場所で辛い仕事を強いられているかもしれない。  けれど唯一携帯電話でのみ繋がっていた彼女の消息を負うのは生半可な事ではなく――遅々として進展を見ぬまま、僕は暗澹たる気持ちで帰省の途についたのだった。  その帰省先で、彼女の話題を聞く事になろうとは。 「見つかったって、聞いた?」 「絵里ちゃんが見つかった?」  僕は思わず目を見開いた。しかし母の口から飛び出したのは予想外の言葉だった。 「えぇ、新聞にも載ってたはずだけど、こっちの地方紙だけだったのかしら? 浚渫のために五十年ぶりにダムの水を抜いたら、中から家族らしき男女と女の子三人の遺体が乗った車が見つかったって。あれ、小林さんのご家族だったみたいよ。みんな夜逃げしたって噂してたけど、時期的にちょうどあのすぐ後だったみたい。借金を苦にした無理心中だって、遺書も見つかったそうよ。まだ小さかったのに、可哀想にねぇ」  僕には母の言うの意味が、理解できなかった。  絵里が無理心中? 夜逃げのすぐ後?  そんなはずはない。  じゃあ、僕が会った絵里は、一体誰なんだ?  万が一、彼女が絵里ではなく赤の他人だったりしたら――その想像に思い至った瞬間、目の前が真っ白になった。 「あ、あったあった。これよこれ。ほら、ちゃんと名前だって出てるんだから。小林絵里って、あの時の子の事でしょう?」  呆然とする僕に気付きもせず、嬉々として母は新聞を引っ張り出してくる。  そのダムに行けば、彼女の後を追えるのだろうか。  僕はそんな事を考えながら、母の指差す記事に目を落とした。  暗いダムの水の底から、あの頃の姿のままの絵里が、僕に向かっておいでおいでをしているように思えた。 〈了〉
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