絵里のために

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絵里のために

「あの、勘違いだったらすみません。もしかして……」  遠慮がちに声を掛けてきた女性をひと目見た瞬間、記憶の奥底にしまいこまれていた名前が不意に蘇った。 「もしかして……絵里ちゃん?」 「嬉しい! 覚えていてくれたんですね。そうです、私です。絵里です!」  目の前の女性はすっかり成熟してしまっていて、当時の面影などどこにも残ってはいなかったが、僕の本能は直感的に彼女がその昔近所に住んでいた小林絵里であると悟った。  最後に彼女と別れたのは、僕が小学校三年生とか四年生ぐらいの時で――あれから二十年以上の月日が流れた事になる。駅でたまたますれ違っただけで、よくぞ僕だと気づいてくれたものだ。 「それで……あの、ごめんなさい。すごく懐かしくてつい声を掛けちゃったんですけど、その……」  彼女は言い難そうにもじもじしながら、上目遣いに言った。 「……名前、なんでしたっけ?」  僕は思わず吹き出さずにはいられなかった。  そそっかしいにもほどがある。でもそれがむしろ彼女らしく思えて、当時の記憶がまざまざと蘇った。 「淳史。あっちゃんだよ。ひどいなぁ、名前を忘れるなんて」 「ごめんなさい。もうずっと会ってなかったから、どうしても思い出せなくて」  僕達は顔を見合わせて笑った。まるで自分が小学生のあっちゃんにタイムスリップしたような気がした。 「時間ある? こうして会えたのも何かの縁だし、良かったらお茶でもしながらゆっくり話さない? もし大丈夫なら、お酒でも」 「あ、でも私、今ちょうど持ち合わせがなくて……」 「何言ってるんだ。もちろん僕がおごるよ」 「じゃあ、お言葉に甘えて……」  まんざらでもなさそうな彼女を連れて、僕は近くの居酒屋の暖簾をくぐった。
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