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子供は意外と気づいてる
「ママ!ママ!」
息子の颯太が、窓際で私を呼んだ。
「雨降ってないのに、お外に水がある!」
見ると、ベランダの窓つたいに、小さな水たまりができていた。外は晴れで、35度近い猛暑だった。
「それはね、エアコンのせいなの。おうちの中は涼しいでしょう?だから、外の空気が窓で冷えて、水蒸気が水になって落ちるの」
水蒸気という言葉がわからなかったのか、颯太はなんとなく不満げな目で私を見た。大人のいうことがよくわからないとき、いつもこんな顔をする。
「まだ幼稚園だから、わからないかなあ」
私が子供の時、親に同じようなことを尋ねたことがあった。母はイライラした様子で、
「そんなの、外が暑くて、中がクーラーで寒いからに決まってるでしょ!?そんなこともわかんないの?」
と、半ば怒鳴りながら、クーラーにたまった水滴を乱暴な手付きで拭いていたものだ。
「ママも小さい頃、同じ質問をしたなあ」
なんとなく発してしまった言葉に、颯太が食いついた。
「ママ、小さい頃があるの?」
丸い目で驚いていた。私は笑ってしまった。今の出産太りした体からは、昔は少女だったなんて想像できないだろう。子供だけでなく、大人でさえ。
「誰だって、小さな頃はあるよ」
「どうして大きくなったの?」
育児ストレスでアップルパイを食べすぎたからよ、とうっかり言いそうになった。
「時間が経って、その間に勉強したから」
「ママも、かなたくんと遊んだ?」
かなたくんは、幼稚園でいつも一緒にいる友達だ。
「かなたくんじゃなくて、女の子のお友達がいたなあ。名前は……カナコちゃん!」
久しぶりにこの名前を思い出した。
カナコちゃんは小学三年生まで同じクラスで、家同士が近所だったので、存在は幼稚園のときから知っていた。
当時の私は人見知りが激しくて、遊びに誘われても『行かない』と断ることで近所では有名だった。なのに、カナコちゃんと仲が良かったのはなぜか?最初に会ったのはいつ頃だったか?はっきりとは覚えていない。いつのまにか、私は放課後をカナコちゃんと二人で過ごすようになり、一緒に市場や公園や、アイスクリーム屋さんに行くようになっていた。
ある日、カナコちゃんが、
「三条クラブに行こう!」
と言い出した。私はそれがどんな場所か知らなかった。なんとなく行ってはいけないような気がしたのだけれど、
「あたし、おじいちゃんに連れてってもらったことあるんだけど、中に立派なソファーがあってね、古いデザインの自動販売機があって、瓶入りのセブンアップが売ってるの!」
カナコちゃんは炭酸飲料が好きだった。
「瓶入りって見たことある?」
「ない。缶はある」
「瓶のほうが見た目かっこいいんだって!お金はあたしが出すからさ、行こ!」
行きたくて仕方がない、ほっといたら一人で行きそう、カナコちゃんの様子はそんな感じだった。私は反対する気もなくなり、一緒に雑木林みたいになってる道を歩いた。日陰を小さな虫や毛虫が這っていて、たまに歩く人が悲鳴を上げる道だ。そこにはお金持ちが住んでいるマンションがあって、住人がやたらに桜を植えてこうなったと、だいぶ後で聞いた。
三条クラブは、そんな金持ちの家の近くにあって、赤茶色いレンガでできた大きな建物だった。入口はガラスで、横に『なんとかご一行様』と書かれた札が、金属の枠にはまっていた。
カナコちゃんは、全くためらわずにガラス戸を開けた。当時はまだ自動ドアになっていなかった。そして、カウンターを無視して奥にずんずん入っていき、迷わずに自動販売機の真ん前に立った。きっと、おじいちゃんと一緒に来た時のことを覚えていたのだと思う。自販機の近くにはガラスばりのテーブルと、革張りのソファー、天井にはシャンデリアがあった。私は本物のシャンデリアをその日初めて見た。
カナコちゃんはにっこり笑いながら、自販機の中のセブンアップの瓶を指さし、お金を入れてボタンを押した。ゴトン、という、缶飲料とは違う重い音、あの音はなぜか鮮明に覚えている。カナコちゃんはセブンアップを2本買って、一本を私に渡すと、革張りのソファーに座って飲み始めた。私は瓶の開け方がわからず、さんざん苦心したあと、カナコちゃんが見かねて、どこからか持ってきた変な道具で開封してくれた。
私がやっと瓶の中身にありついたとき、
「君たち」
怖そうな男性が近づいてきた。黒いスーツをビシッと決めて、歳は当時の父と同じくらいに見えた。
「ここは子供が遊ぶ場所じゃないんだよ」
厳しい声で言われたので怖くてドキドキした。
「えー!?」
カナコちゃんは全く怖がらずに抗議し始めた。
「だって、あたしここにおじいちゃんと一緒に何度も来たことあるもん」
「おじいちゃんが一緒ならいいけど、子供だけで入ってきちゃだめだよ」
「何で?」
「ここは大人が仕事をする所だから。子供が遊ぶ所じゃないんだ。さあ、出てって!」
私たちは、ガラス戸の外に追い出されてしまった。男は私たちが戻って来ないように、しばらく外を見張っていた。
「おじいちゃんにはペコペコしてたくせに!」
カナコちゃんは怒っていた。カナコちゃんのおじいちゃんはある会社の社長で、私たちが小学校に入った頃に亡くなっていた。
「嫌だねえ〜大人って。強そうな人には愛想よくすんのに、子供はバカにして追い出すんだ〜!」
カナコちゃんの機嫌は、しばらく直らなかった。死んだおじいちゃんの思い出を台無しにされたのと、大人が自分をバカにすると知ってしまったのが原因だと思う。私も悲しかった。私の父もおじいちゃんも普通の人だ。きっとあそこに出入りする機会はないだろう。
その日から、カナコちゃんは大人の『子供をなめくさった態度』にものすごく敏感になった。警察官になりたいと言ったとき、『女の子には無理』と言った先生(その先生も女性だったのはいかにもあの時代らしい)に怒って怒鳴り散らしたり、何か難しい質問をして「小学生にはまだ早い」と言われたとたん「は?何が早いの?あたしあんたより頭いいんですけど」という態度になったり。
あとで親に聞いた話では、三条クラブは歴史ある企業向けの『高級なビジネスホテル』なのだそうだ。だから、仕事をする大人が利用する場所、というあの職員の指摘は正しい。だとしても、もうちょっと優しく接してくれても良かったんじゃない?と、大人になった今でも思う。相手は小学二年生の女の子だし。
それとも、ああやって毅然と子供に厳しいことを言ったほうが、後々私たちのためになると思ったのだろうか。実際、私たちが三条クラブに行くことは二度となかったし。
私は改めて目の前の颯太を見た。まだ、窓の外の水たまりをじっと見ている。この子もいずれ、大人になめられて悔しいとか思う日が来るのだろうなと思ったとき、さっきの質問の答え方はまずかったかなと思った。
「颯太、水蒸気って知ってる?」
「雨になるまえのやつ」
颯太は外を見ながら答えた。
「絵本で見た」
あらら、いつのまにかそんなことを学んでいたのだ。でも絵本?水蒸気が出てくる絵本って?
『絵本じゃなくて、NHKの子供番組だよ。気象異常についてお父さんが解説するやつ』
夫にLINEで聞いたら、そんな返事が来た。
『地面から水蒸気が空に上がって、雲になって、雨が落ちる図があったよ』
いつの間にそんなの見てたんだろう?私は全く記憶になかった。夫よりはるかに長く颯太と一緒にいるのに。
そうだ。子供は意外といろんなものを見聞きして覚えているのだ。カナコちゃんが、おじいちゃんと一緒に行った時の、三条クラブの職員の媚びた態度を観察していたように。自分に対しては「なめくさってる」「バカにしてる」と気づいたように。
これからこの子は、いろんなことを学んでいく。大人にバカにされているなんて思わないように接してあげなくては。外の人たちには無理でも、私たちは。
私は夫にLINEした。
『今日は仕事が終わったらすぐに帰ってきてね。颯太が新しいことに気づいた日かもしれないから。
あの子にバカにしてると思われないように』
『何でバカにしてると思うの?』
『帰ってから説明します』
戸惑っている夫の顔が目に浮かぶ。何が起きたかと考えるに違いない。私は夫をなめくさった笑いを一瞬浮かべた。それから真顔に戻って、颯太に、窓の近くは暑いからこっちに来なさいと言って、冷蔵庫からレモンサイダーを取り出した。瓶や缶の時代は過ぎ、ペットボトルの時代になっていた。
カナコちゃんはその後、自分で起こした会社の社長になり、たくさんの店を所有しているとあとで同級生から聞いた。そのうちあの三条クラブに、取引先の社員を送り込むかもしれない。
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