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たった一人になりきって夕空
と昔の俳人は詠んだそうだ。“なりきって”と言うからには、さぞかしその人のそばには色んな人がいて、“たった一人ではなかった”のだろう。
そんなことをふと考えてしまうくらいに、この丘の上から眺めた夕空は透き通った橙をしている。さぁ、早く帰らなきゃと目線を落とす。この藍が少し混ざりそうな空色がとても好きだけれど、もうすぐ訪れる夜を前に私はそそくさと歩き始める。
◇
見たことない‘星’を描きたかった。人が夜を過ごせなくなってどれくらいになるだろうか。私の祖父母が子どものときは、当たり前のように目にしていたらしい。真っ黒で深い海のような空に、雲と星の光が浮かんでいる様子を、当然そこにあるものとして見ていたらしい。
『おはよーございます!今日もお勤めよろしくお願いいたします!』
ビービーと不快で無機質なラジオの声によって目を覚ます。
ベッドからゆっくりとからだを起こす。凛とした冷たさと匂いに部屋が包まれている。二度寝が許されないこの世界だから、バスルームで顔を洗い、目立つニキビがないかを確認する。確認したところで、特効薬などはない。なにも変わりはしないけれど。
やかんを火にかけ、残り物の炊き込みご飯を冷蔵庫から取り出して、電子レンジであたためる。あたため完了の合図とお湯が沸くタイミングが、不思議と一致していた。なんだか朝からちょっと嬉しい。簡単な朝食をすませ、簡単な化粧をすませて、簡単な服に着替えて家を出る。ラジオを持つことを忘れずに。
◇
「おはようございます」
箱に負けない無機質な声で、職場のメンバーに挨拶をする。私の職場は家の近くにあるお米をつめる工場だ。農家さんが送ってきてくれたお米をつめて一般の家庭に届けやすいサイズにする。配送の段取りをする仕事だ。毎日、大きな変化はない。多分、私が1週間風邪で寝込んでも、お米の供給が途絶えたりはしない、だろう。代わりがいくらでもきく。だまってつめる。お昼休みは職場の人としゃべりながら、過ごす。これまた昨日とさしたる変わりもない。15時過ぎには終業。
私達だけではない。みーんな、終業。人は夜を過ごせないから。そう、学校でも、この手元の「ラジオ」という箱からも、しきりにそう教わるから。
◇
とある星の光が、からだによくないと分かってから人は夜に外を出歩けなくなった。はるか昔、世界に国という区分けがあった頃の話。たくさん、人がいたころ。どういう服を着れば、その光に問題がないのか。家にいればいいのか。いつまでその光は降り注ぎ続けるのか。人間だけがダメなのか。そもそも、どう身体によくないのか。今なお、よくわからない。私たちの世代になると、直接見たことはないけれど、グッと光にあてられた皮膚が焼けてしまうらしい。
分かったことはただ一つ。太陽が出ている時間は、活動しても問題ないだろうということだった。もしかすると、目に見えないだけで、その時間も少しずつ体をむしばむ病魔のように、ひたひたとよくないものがズズズっと肌を走り回っているのかもしれない。
夜中に勝手に出歩いてその光にあてられてしまった人の面倒まで見ていられないということで、全ての人はこの手元のラジオに監視されることになった。いや、監視されることを望んだのだ。そう、教わった。伝承。あくまで伝承。考えなくてすむから。
かつて人間というものは自由を求めて闘ったそうだ。物心ついたときに配られるこの箱自身から。この箱の向こうにいるのは、そもそも人なのだろうか。人の集合意識? 偉い人? いや、ラジオの声しかないのだろう。
いつからか起きる時間から寝る時間まで、生活のすべてをその箱に支配されるようになってしまった。ちょっとでもルールに外れそうなことをすると、ヴーヴー震える。
誰が、定めたんだよ、そのルール。天井の低い家で縮こまりながら夜を過ごす。本を読みながら物音を立てずに、胸で毒づく。
『おやすみなさい! 明日もお勤めよろしくお願いいたします!』
はいはい。私はいつ一人になりきれるのかね。
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