36話 ー掴みたいのは勝利ではないー

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◇ ◇  まだ空は暗い。時刻は4時になったばかり。  夏とは言え明るくなるには少し早く、濃い群青色が広がる中に、一筋のオレンジ色が帯びる頃。ひとりの男性が外を歩いていた。  手に2本の花だけを持ち、舗装された道を進んでいく。こんな時間帯に、こんな場所を訪れる人はまずいない。それでも男性は迷いなく、ある場所を目指して歩いた。  やがて足が止まる。止めた正面に建つのはひとつの墓石。  黒い軍服に白いコートを羽織る。明らかに墓参りの装いではない格好でやって来たのは、セイシュウだった。  目の前の墓石には櫟家之墓と掘られている。  セイシュウはふっと微笑むと、墓石の前に胡座をかいて座り、なぁと話し掛けた。 「こんな朝早くから悪いな。本当なら昼頃来る予定だったんだが、事情が変わっちまってよ」  そう言って、手に持っていた花をそっと置く。1輪でも華やかな白いトルコキキョウに、セイシュウは苦笑を浮かべた。 「本部に飾ってたものをもらって来たんだ。改めてまた来るからよ、今日はこれで許してくれ。でもこの花もなかなか綺麗だろ?」  ははっと笑い掛けて、話を続ける。 「ふたりがいなくなって随分経つっつーのに、俺にとっては昨日のことのようだよ。まだ、心のどこかで信じられねーのかもな。ふたりが本当にこの世からいなくなっちまったってことが」  ふたり――墓石に話し掛けるセイシュウは普段とは違って真剣で、でもどこか寂しげな表情をしている。 「お前達ふたりを失って、俺は我を忘れた。怒りに身を任せた結果、右腕を無くした。これは代償で、呪いだな。思い知ったよ。復讐は復讐しか生まねぇってことを」  どれだけ話し掛けても返ってくる言葉はない。まだ夜の空の下、セイシュウは想いを伝えていく。 「でもな。これで決着が付くかも知れねぇんだ。悲しみ、怒り、復讐の連鎖は終わる。もうふたりのような犠牲者も、残された俺のような悲しみを負う人間もいなくなる。長かったが、きっと最後だ」  ふっと微笑みを浮かべる。それは愛する人へ向けるものと、慈しみを湛えたもの。  それから妻と娘の名前を呟いた。 「阿希子(あきこ)望来(みらい)――」
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