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「――あなた、忘れ物はない?」
「あぁ。ないよ。多分」
玄関の上がり框に腰を下ろしながら、セイシュウは靴を履く。投げ掛けられた妻の質問に、へらっと笑って答えた。
そんな夫――セイシュウを見て、妻の阿希子ははぁとため息を吐く。
「忘れ物があっても届けられないんだから。しっかりして下さいよ」
「はは。気を付けるよ」
いつもすまんと言わんばかりに苦笑する。そんなセイシュウの傍らには、大きなスーツケースがあった。
セイシュウはCRH隊員の中では珍しい既婚者だった。早くに結婚をして、早くにひとり娘も生まれた。
大概は独り身で隊員寮で生活するが、セイシュウは自宅を拠点としていた。その為出社日には、数日分の宿泊の用意が必要だった。
何日かを本部で寝泊まりし、非番の日に家に帰る。
既婚者であるセイシュウだけのシフトであった。
「あれ、お父さん。もう行くの?」
ふわぁとあくびをしながら、眠そうな顔をした娘が起きてきた。
「おはよう、望来。今日はちょっと早くてな」
「ふーん」
そう言って望来はセイシュウに近付く。と、しゃがんで首元に手を伸ばした。
「襟」
立っていたシャツの襟が直される。
「ホント、お父さんてだらしないよね」
「この家の女性達は頼もしいねぇ」
感謝しつつ、すまんなと笑う。娘も妻同様ため息を吐いて、立ち上がった。
「しっかりしてよ。うっかり犯人にやられましたってならないでよ?」
「あぁ。それだけは肝に銘じてるよ」
セイシュウは穏やかに答えると、スーツケースを手に立ち上がった。
「それじゃあ行ってくるよ。しばらくよろしくね」
「はい。気を付けて」
「いってらっしゃい」
手を振ってくれる娘に手を振り返し、セイシュウは玄関の扉を閉めた。
――ありふれた日常。何処の家庭でもある、ごくごく普通の光景。
これがセイシュウにとって、かけがえのない幸せだった。
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