62人が本棚に入れています
本棚に追加
/87ページ
秋夜はそれでも、変わったと思う。良い方に。
大学の近くの居酒屋でバイトを始めたし、アパートに招いてくれるようになった。
秋夜のアパートは翔や大成よりも大学に近いが、「散らかってるから」と今まで一度も招かれた事がなかった。生活力皆無の秋夜なので、その時のそれは事実だったと思うし、加えて、彼なりにパーソナルスペースを守っていたようにも感じた。けど、今は違う。
誰もシフトを入れていない夕方は、講義が終わったらそのまま四人で食堂で晩飯を食べて、「今日はうち来る?」と秋夜が声をかける。秋夜の部屋には生活に必要な最低限のものと、恐らく売場で一番小さかったであろうサイズの液晶テレビ、漫画が床に少しだけーーしか無かったが、翔や大成が遊べるものを持ってきたり、大学近くのネカフェとか行った後に寝るだけにお邪魔したりした。
六月…あの、秋夜が空腹で倒れてから、こんな風に四人で放課後を過ごすことがなかったので、日々に彩りが帰ってきたような毎日だった。
その一方で、相変わらず訪ねていた就活サポート課での叶ちゃんはすっかりエネルギーを失っているように見えた。
(…………フラれた?)
未だに核心には触れていなかった。叶ちゃんから打ち明けられる事もない。その顔はいつものように笑っていたけれど、前みたいに、笑顔が煩く無かった。以前の叶ちゃんの笑顔に効果音をつけるなら、『ニコニコ』『ニヤニヤ』『パアァァ!』だったけど、今の笑顔は、何だか静かだ。効果音なんてつかない。
「…………秋夜、あのさ、前に言ってた『彼女』なんだけどさ…」
ガヤガヤと賑やかになった居酒屋で、お冷やのおかわりを注ぎに来てくれた秋夜に声をかけた。
秋夜は美人だし、不意に滅茶苦茶可愛い。それに、ちょっと抜けているところがあるから。居酒屋でバイトをすると聞いた時は気が気では無かった。自分のシフトを調節してまで、彼がシフトの日は必ずこの居酒屋に入り浸った。保護者のような想いと(過保護と言う自覚有り)、叶ちゃんの顔が浮かんで、まるでそれが自分の使命であるかのように感じていた。
「……彼女?」
訝しんでひそめられた眉毛に、おいおい、と心の中でツッコんだ。お前が言ったんだよ、「彼女出来た」って。苦笑した。
「そ。彼女。電車で通う距離に住んでるヒト」
「…ああ。もう、別れたよ」
急に仏頂面になって、でもその裏に静かな怒りを感じ取って、「おや?」と思う。違うな、これ、叶ちゃん、フラれてないやつじゃん。
「……ふーん?」
おーい、とテーブル席から声がかかって秋夜が「はい、只今」とそちらへ向かう。そんな彼の背中を眺めて見送った。…あ、酔っ払いの席じゃん。
「え、店員さん、めっちゃ美人じゃん。ねぇ、いつもここで働いてるの?」
「………」
アルコールで赤くなった顔をだらしなく垂らして、いやらしい目で秋夜を見つめる。その、ねっとりとした声に俺の方が鳥肌が立った。
秋夜は、冷たく見える眼差しで静かにその客を見下ろしていた。…冷たく見えるのは、伏せ目がちな長い睫毛のせいで、実際に彼はこんな場面でも危機感なんてものを感じていないと思う。察するに、「そんなことより、注文は?」と考えている。
いや、声出せよ。なんか言えよ!
その意外とハスキーな声を聞かせてやれば、男だったのかと気が付くだろう。あ、ほら、酔っ払いが秋夜に向かって手を伸ばした。
「チッ」
触れる寸前で、酔っ払いの腕を掴む。
「……おっさん。ここ、そういう店じゃないからさぁ」
低い声で睨んでやれば、「ひっ」と短い悲鳴と共に、高揚していたそいつの顔から血の気が引いたのが分かった。ピアスじゃらじゃらしてるし、頭の色も奇抜だし。俺は、人によっては自分のこの外見が少し怖く映る自覚があった。
「………えーっと、ご注文は…?」
しん、と静まった居酒屋で、秋夜のハスキーな声が空気などまるで気にもせずにお気楽に疑問符を浮かべる。俺はつい、ガクリと気が抜けそうになった。
「え、あ、なんだ、きみ、男なのか…」
「? はい」
俺の腕を振り払って、酔っ払いは佇まいを直した。「なんだ、あはは」と取り繕って笑うこの小者が、これ以上変なちょっかいを出さないだろうと判断して、俺も席に戻った。ドカッとわざと大きな音を立てて座り、肩肘をついて、秋夜とおっさんのやりとりを睨むようにして見守る。こちらの視線に気が付いているのだろう、おっさんは決してこちらを見ない。
チッ、とまた舌打ちが漏れた。
(………男だから、なんだって言うんだ)
腹に抱えたのは先程とは別の怒り。『なんだ、君、男なのか』と言う言葉。目に見えた、態度の変化。全部、気に食わない。
(男だから、何?)
うちの美人で可愛い秋夜が、男だったら魅力的じゃないとでも言うわけ? 何か不足があるわけか? くっそ小者が。
トントントンと空いた手の方の指先で机を叩いていたら、注文を取り終えた秋夜がやって来た。
「芳樹、なんかガラ悪いよ」
苦笑すら、美しい。
「………『他のお客様のご迷惑になりますので』って、言う?」
「なにそれ? さっきはありがとね、って言いに来た」
「……………、おう」
くっそ可愛かッ! て、思わず叫んでしまうところだった。
(………ああ、もう、何してんだよ、叶ちゃん…)
うかうかしてんなよ、と厨房に引っ込んでいく秋夜の背中を見ながら思う。
誰かに取られちゃうよ。俺とか。惚れちゃうかもよ? 秋夜がね。……あとさ、こうやって見守るの、叶ちゃんの役目じゃん、本当は。
(…………あとさ、そろそろ、金がねーんだわ、俺)
早く仲直りしなさいね、と心の中の叶ちゃんに言いながら、お冷やを再び飲み干した。
最初のコメントを投稿しよう!