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4.予報外れの、その雨のように
その日、就職サポート課を訪れると、叶ちゃんが「なにぃっ?!」と盛大に叫びながら勢いよく立ち上がる場面に遭遇した。やがて、浴びた注目に顔を赤らめながら、へこへこと頭を下げて遥か後ろまで行ってしまったキャスター付きの椅子を引き連れて自分の席に座った。
(………なにやってんの、)
十中八九、秋夜の事だろうなと思いつつ。少し遠巻きに眺めていた。叶ちゃんはやっぱりそわそわと落ち着かず、何度も何度もスマホ画面を見ていた。
「………叶チャーン」
仕方無しに近付いてカウンター越しに声をかけると、待ってました!とばかりに叶ちゃんがこちらを振り返る。
「よ、よしきっ…!」
え、何?秋夜、まさかこの前のいけ好かない爽やかくんと駆け落ちでもした?……そんな只事では様子で、叶ちゃんはスマホ画面を見せてきた。
『酔っぱらいに尻を触られたので、今晩、おれのアパートに来て下さい』
「……………」
勿論、秋夜からのメッセージだ。
待って。取り敢えず、あれだ。そう、ピーチティー。立ち上がり、ドリンクバーコーナでいつものようにピーチティーをいれて、喉を潤しながら「バカじゃん」と言い放ち、元座っていた席に腰を下ろした。
「叶ちゃん。それ、『会いたいから会いに来い』って言ってるんじゃん」
びしっと指を指す。
……それにしても、秋夜も相変わらず不器用だな、と内心苦笑した。それに気が付けない叶ちゃんなんだから、ほんと、この二人、世話の焼ける。
「バカって言うな。あと、人を指差すな」
「はいはい」
言ったっきり、会話が続かない。叶ちゃんはぼーっとしていた。その目は俺の方を向いていたが、心は全然違うところへ向いているようだった。
「叶ちゃん」
「えっ、あ、はい!なに?」
「全然心此処にあらずじゃん。仕事にならないでしょ」
苦笑した。
「何?また秋夜のこと?」
「うんん。芳樹のこと」
思いもよらぬ回答に、俺は面食らって目を丸めた。……叶ちゃんが?俺の事を?どんなこと?なんで?
その答えは、直ぐに叶ちゃんの口から明かされる。
「君の幸せについて考えてた。本当に、それでいいのかなぁって……」
「はぁ?何それ?いいも何も、俺の幸せを勝手に叶ちゃんのモノサシで推し量らないでくれる?」
『芳樹さんさ、どっちが好きなの?』
(…………やっぱ、聞こえてた、よね…?)
俺までも回想に浸りそうになってしまったが、目の前の叶ちゃんがまた肉体だけ置いて何処かへ行ってしまっていたので、苦笑した。
「叶ちゃーん。叶ちゃーん。おおーい」
「あっ!はっ!ごめん…!なんだっけ?」
じとっと半眼で見れば、叶ちゃんは「あはは」と誤魔化すように笑った。やっと焦点があって、改めて溜息を溢す。
「………今日、行くんでしょ?秋夜のとこ」
「えっ…、ああ、……うん、行くよ。でも、」
この期に及んで、まだ不安なことなんてある?
未だに煮え切らないように語尾を濁した叶ちゃんに、また溜息を吐く。
「叶ちゃんってさ、自分に関する事だと、ほんと、にぶいよね」
秋夜も大変だ。こりゃ、「別れた」なんて言って怒ってたのもよくわかる。
(………俺の気持ちにも、ずっと気付いてないしな、)
流石にこの間ので察したか。どうか。
叶ちゃんはその話題に触れて来なかった。だから、言わない。困らせたいわけでも無いし、今更もう、望むことなんてすっかり、叶ちゃんと秋夜の幸せな未来だった。
(………性格だね、俺の)
ほら、やっぱり俺は物語の主人公になれるような人間じゃないし、誰かの『誰か』にもまだ、なれないようだった。
(まぁ、でも、それはきっと、まだ出会ってないだけで)
叶ちゃんが打ち明けてくれた、彼の過去の恋愛のように。その話に、俺が出した結論のように。
きっと、俺には叶ちゃんでも秋夜でも無かったのだ。
ピーチティーの入っていた紙コップがいつの間にか空になっていて、「ご馳走さん」と立ち上がる。
「じゃ」
これにて、と立ち上がり、踵を返しても、止める声がしない。それをゴミ箱に捨てて就活サポート課を立ち去るまで、背後に視線を感じていた。多分、叶ちゃんが見ているのだろう。
でも、この前みたいに後ろから着いてくる足音がしない。
(そりゃ、そうだ)
正門を出て見上げた空は、何処までも澄んでいる青。
未来は不透明で、でも、明日の予想くらいはつきそうで。そんな風に、きっとこれからも生きていくのだと思う。
一歩、また一歩と、家までの道のりを歩いた。
その隣に誰も居なくとも、今はまだ、燻る気持ちがあろうとも、大丈夫だ、と自分自身を鼓舞する。
(お幸せに……)
今度こそ、聞き届けてよね、神様。
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