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 ひとしきり観察してから、芦屋も男の前に座った。何かあったらすぐに逃げ出せるよう、胡坐ではなく正座にする。 「それで、あんた誰ですか? 夜中に押しかけてきた正当な理由があるんでしょうね?」 「俺は本庄だ。偽名じゃないぞ。ほら免許証」  見せられた運転免許証はゴールドだった。荒れた運転をして公共物を破壊しまくっていそうなのに、意外だ。フルネームは本庄栄。年齢は芦屋より五つ上の三十三歳らしい。 「……芦屋です。芦屋秀。転勤で二日前に東京から越してきたところです」 「二日前? お前、ここに住んでんのか?」 「そうですけど、それが何か?」 「マジかよ? くそ、まいったな……」  大きな手で額を覆い、弱りきった様子で呟く。この手で殴られたら痛そうだなと思いながらまじまじと眺めていたら、不意に本庄が伏せていた視線を上げた。  まっ黒な目に凝視され、不本意ながらドキリとする。何もしていなくても十分男っぽいのに、真顔になるとその雄臭さがいっそう際立った。 「――なあ、お前に頼みがあるんだけど」 「たっ、頼み? 頼みってなんですか?」  得体の知れない男にうっかり見入ってしまっていた事に狼狽え、芦屋は視線を泳がせる。 「しばらくここに置いてくれないか?」 「置くって何を?」 「俺」 「はあ!?いきなり何言ってんの、あんた?」  あわあわと言葉にならない声を上げると、まあ落ち着けよと肩を叩かれた。図々しいその手を払い除け、芦屋は鼻息を荒くする。誰のせいで慌てていると思っているのだ。 「なんで俺が見ず知らずの、しかもこんな怪しげな男を部屋に置いてやらなきゃならないんですか! 無理に決まってるでしょう!」 「どうしても無理か?」 「どうしても、絶っ対に、ムリ!」  言葉を区切りながら言ってやると、男ががっくりと項垂れた。俯いてうんうん唸り、やがてのろのろと顔を上げる。 「な、なんです……? 脅しも泣き落としも通用しませんよ?」 「――実は俺、前にこの部屋に住んでたやつとつき合ってたんだよ。年が明けたらここで一緒に暮らす約束もしてた。けど年末にデカいケンカした後から会ってなくて、頭下げにきてみたらお前がここにいたってわけだ」 「えっ? じゃああんた、振られたって事?」  自分が失恋したてのせいか、思いがけず仲間を見つけて、つい声が弾んでしまう。 「……なんでそんな嬉しそうなんだよ。やっぱ鬼だな、お前」 「えーと、連絡先は知ってるんだろ? 電話してみたら? 案外向こうも待ってるかも」 「繋がるわけねえだろ、そんなもん。着拒だよ、着拒。俺とあいつを繋ぐのはこの部屋だけなの。だからしばらくここにいさせろ」  神妙な顔つきで頼みがあるなんて言っておいて、気づけばいつの間にか命令口調になっている。途中で説明が面倒になったのがバレバレだ。 「なんて言われても無理なもんは無理。ホテルでもマンガ喫茶でも、泊まるところならどこだってあるだろ? そこでお相手の怒りが治まるのを気長に待つしかないですね」 「俺は泊まる場所が欲しいわけじゃない。……ここじゃなきゃ、意味がねえんだよ」  男が途方に暮れたように呟き、頭を抱えて蹲る。  この部屋で恋人と過ごすはずだった未来を思っているのだろうか。無防備なつむじを見ていたら、少しかわいそうに思えてきた。 「後悔するくらいなら、最初からケンカなんかしなきゃいいのに」 「別にしたくてしたわけじゃない。それに離れてみて初めて気づく事だってあるだろうが」 (ああ……、それはちょっとわかる)  あの日、篠崎が交換してくれた缶コーヒーは、結局飲めずに冷蔵庫の中にしまってある。  こんな風に引きずるなら、きちんと思いを伝えて、潔く振られておけばよかった。時間は動いているのに、やり場を失った気持ちだけが、まだぐるぐると胸の中に渦巻いている。きっと今この男も、芦屋と似たような気持ちでいるのだろう。  迷惑な男である事には違いないが、このまま捨て置くのもなんとなく寝覚めが悪い。
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