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 口が悪く、強引なところはあるが、三十五歳という若さで所長を任されているだけあって、小野はすこぶる有能だった。  最寄り駅まで徒歩五分、風呂とトイレは別の1LDK。しかも家賃三万八千円は、ちょっと考えられないほどの良物件だ。これをたったの二日で探し出してくれたのだから、見事としか言いようがない。おかげでなんとか引越し前に転居手続きをすませる事ができた。 (畑山さんも無事年内に引越しを終えられたみたいだし、小野所長さまさまだよな)  後に知った事だが、急過ぎる異動の裏には、昨年大病を患った畑山の体を案じて、娘夫婦が同居を強く望んだという背景があった。  早くに奥さんを亡くした畑山は、一人娘が東京へ嫁いでしまってから、甲府で一人暮らしをしていた。ある日自宅で胸苦しさに襲われ意識を失っていたところを、たまたま家を訪ねてきた客が発見し、九死に一生を得たのだという。そんな事があって、娘さんが畑山との同居を望み、会社もそれを受け入れた。 結果、芦屋は非常識な異動を申し渡される羽目になったのだが、異動先は本社で、これはまごう事なき栄転だ。その上格安で良物件を都合してもらい、来月からは住宅手当てまで支給される。 「これで失恋って痛手がなければ、心から喜べたのに……」  うっかり篠崎の事を思い出してしまい、荷解きをする手が止まる。  三が日を実家で過ごし、一昨日慌ただしくこの部屋に入居した。この二日ずっと荷物の山と格闘しているのだが、つい余計な事を考えてしまって、なかなか作業が捗らない。  そうしている間にも、スマートフォンが振動し、暇してるなら遊ばないかとか、飲みが盛り上がってるからこいよとか、軽薄な内容のメッセージがポンポンと届く。  押しに弱い芦屋は、割りきったつき合いを望む相手から受けがよく、失恋を機にブロックを解除した途端、この手の誘いがひっきりなしに届くようになった。  学生の頃は、自分のセクシャリティーに不安を覚え、やりきれない思いを紛らわすために、声をかけてきた男と寝たりもした。社会人になってからもその悪癖は抜けず、フラフラと夜の街に出向いては、一夜限りの相手と夜を過ごした。だが篠崎に出会い、例の願かけをしてからは、修行僧もびっくりの忍耐力で己の欲望を抑え込んできた。  気持ちの伴わない、体だけの関係など虚しいだけだ。今度こそ好きになった人と、本気の恋愛をしてみたい、そう思うようになった。 (相手が篠崎さんなら、思い描いてたような恋愛ができると思ったんだけどな……)  はあと一つ嘆息し、芦屋は再びのろのろと手を動かした。冬ものの衣服を取り出し、備えつけのクローゼットにしまおうと立ち上がる。すると目の前の壁が振動し、ドンドンと立て続けに壁を叩くような音が響いた。  最初の日こそ「すわ、事件か?」と飛び上がって驚いたが、今ではもう驚かない。物音の正体を知っているからだ。  念のため壁にそっと近づくと、案の定、女性の喘ぎ声と、ベッドが激しく軋む音が聞こえた。時々壁がドンドンいうのは、感極まった女性がたまらず手で壁を叩いているせいだ。  こっちは行き場をなくした欲望を持て余して悶々と過ごしているというのに、隣から激しく睦み合う声が漏れ聞こえてくるわ、不純なお誘いのメッセージは頻繁に送られてくるわ、嫌がらせかと思わずにはいられない。 「正月から盛ってんなよ、くそ……っ!」  腹立ちまぎれに愛用の枕をグーパンチしたら、まるで返事をするように、玄関の扉をコツコツと叩く音がした。あまりのタイミングのよさに、怒っていた事も忘れて戦慄する。  時刻は午前零時を回ったところだ。こんな時間に荷物が届くわけはないし、まだ家族以外の誰にもここの住所は教えていない。 「まさか、幽霊? それか隣の人とか……」  小声で悪態をついたつもりだったが、もしや聞こえていたのだろうか。芦屋が怯えている間も、控え目なノック音は続いていた。たまにノブがガチャガチャ回って、余計に怖い。  いっそ居留守を決め込もうかとも思ったが、まだカーテンを引いていない窓からは、煌々と明かりが漏れている。窓や電気メーターを確認されたら、即アウトだ。  芦屋は唾を飲み込むと、足音を忍ばせてドアに近づき、そっと覗き穴を覗いた。確かに人の気配はあるのに、ちょうど死角になる場所に立っているのか、姿は見えない。  こんな時間 にしつこくドアをノックされては、ご近所にも迷惑だ。転居早々、アパートの住人にマイナスの印象を持たれたくない。  潔く腹を括り、チェーンをしっかりかけてから、サムターン錠をゆっくりと回す。すると芦屋が手をかけるよりも先にドアノブがくるりと回り、勢いよくドアが押し開かれた。
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