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「おっと、そろそろ戻らないと。シャワーは……、向こうで適当に浴びるか」
独り言みたいに言って、本庄がよいしょと腰を上げる。勝手知ったる様子でティッシュケースを掴み、芦屋の腹と自分の体を拭った。
「戻るって、どこに?」
「すぐに仕事に戻らなきゃならない。無理やり長めの休憩もぎ取ってきただけなんだ」
「うそっ、まだ仕事中だったの!?」
驚きのあまり深夜だという事も忘れて、大きな声を出してしまう。本庄は指を立てて唇に当て、子供を叱るように軽く頭を叩いた。
「別に驚くような事じゃない。週末にしっかり休める事の方が稀なんだ」
芦屋と話をしながらも、本庄は手際よく服を身に着けていく。その様子を横目で眺め、芦屋は鞄から財布を取り出して中を探った。
「これ、うっかり返しそびれてて、ごめん」
預かりっぱなしだった免許証を差し出すと、本庄は無言でそれを受け取り、ジャケットの内ポケットにしまった。銀色に光る手錠が垣間見え、今更ながらに動揺する。プレイで使うものなら何度か目にした事があるが、本庄が持っているものは正真正銘、犯罪者を捕縛するためのものだ。
「……ねえ、家にあったアタッシュケースの中身って何? もしかしてドラッグとか?」
「アホか。ノートPCだよ。あとは小型カメラと盗聴器」
「盗聴器って、隣の部屋を盗聴してたのかよ? エ、エッチしてる最中も!?」
「山内は女とやる時、必ず草を吸って気が大きくなってた。おかげでいいネタが拾えたよ。一度お前に見られた時は焦ったけどな」
「もしかして、ベランダで煙草吸った時?」
訊ねると、本庄は唇だけで皮肉っぽく笑った。あの時本庄は芦屋の前で、時間をかけて煙草を吸った。あれは隣から漏れてくる大麻草の匂いをごまかすためだったのだ。
点と点が線になり、本庄という男の本当の姿が浮き上がってくる。唐突に目が覚めたように、芦屋はパチパチと瞬きを繰り返した。
彼はこんなにも魅力的な男だっただろうか。深夜にドアの隙間に足をねじ込んできた男と、今の本庄の姿が、重なるようで重ならない。
(ヤバい、なんか急にドキドキしてきた……)
「もう行く。俺が出たらドアに施錠して、風呂に入って、温かくして寝ろ」
本庄がくるりと背を向ける。広い背中を目にしたら、咄嗟に服の裾を掴んでしまった。
「あ、あのさ、本庄さん、またここにくる?」
行ってしまうという焦りからか、怖くて聞けなかった事がつるりと口から滑り出す。本庄は僅かに目を瞠り、芦屋に向き直った。
「山内の件が落ち着いたら、ここに帰ってくる。俺の歯ブラシも部屋着も捨てるなよ」
大きな手で頭を引き寄せられ、額に口づけられる。子供だましのキスに狼狽え、思わず体を仰け反らせたら、フンと鼻で笑われた。
「帰ったら卵焼き作ってやるよ。それまでいい子で待ってろ」
「き、気をつけて」
パタンとドアが閉まると、キスの余韻の残る額に触れ、芦屋は一人悶絶する。憎たらしい含み笑いが眩しく見えるなんて、自分の目はどうにかなってしまったらしい。
何もかもまるで自分の思い通りにならない。憧れとも、理想とも違う。なのに足元がふわふわして、今にも浮き上がってしまいそうだ。多分、この不可解さこそが恋なのだろう。
鍵についたキーホルダーが目に入り、頬がじわりと熱を持つ。胸に生まれた初めての感情を持て余しながら、芦屋は卵を買いに行かなきゃなんて、乙女な事を考えていた。
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