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 芦屋秀はある願かけのために、かれこれ三年以上セックス断ちをしている。いや、していたと、過去形で言うべきかもしれない。なぜなら願かけはなんの成果もないまま、願いは今まさに潰えようとしているからだ。 「――山梨の本社に異動、ですか?」 「お前も畑山さんは知ってるだろ? なんでも昨年娘さんがこっちでお子さんを産んだそうでな。少しでも孫の側にいたいと、首都圏にある営業所への異動を希望しているらしい。お前にはその抜けた穴を埋めて欲しいんだと」  所長の小野から話があると呼び出され、一体何事かと思えば、まさかの異動の内示だった。突然過ぎる知らせに、芦屋は手にしていた缶コーヒーを取り落としそうになる。だいたいそんな大事な話なら、せめて人気のない場所でして欲しかった。こんな風に営業所裏の共同休憩室で、お手軽にすませていい話ではないはずだ。 「あの、どうして僕なんです? 畑山さんの代わりなら他に適任者がいると思いますけど」  山梨にある本社には、六年前に新入社員研修で赴いたきりだ。その時新入社員の指導に当たったのが、当時課長の畑山だった。その畑山の代わりが入社六年の自分では、役不足にもほどがある。 「会社にすれば若い方が扱いやすいのかもな。ともあれ本社へ異動と言えば栄転だ。もっと喜べよ。山梨はいいところだぞ。温泉に浸かりながら眺める逆さ富士がまた格別でなあ」  確かに山梨はいいところだ。棚ぼたとはいえ、栄転と聞いて正直少し浮かれた気分にもなった。だが今の芦屋には、本社勤務を素直に喜べない理由がある。 「お孫さんのために本社から営業所へ異動願いか。面倒見のいい畑山さんらしいですね」 「篠崎さん――」  外出していたはずの篠崎眞一が、財布片手に休憩室に姿を見せた。  午後からは役所を回ると言っていただけあって、篠崎は濃紺のスーツをきっちりと着込んでいる。あえて同系色のネクタイを合わせ、足元は濃いブラウンのウイングチップで少し外しているあたり、センスのよさが窺えた。疲れたように指でタイのノットを緩める仕草は、いかにも外でたっぷり働いてきた営業マンという感じで、非常にエロい。  目の前で大人の色気を垂れ流している先輩社員に、芦屋は内心で「ごちそうさまです」と手を合わせる。無表情を装うつもりが、うっかりニヤけてしまいそうになり、わざとらしい咳払いでごまかした。 「おめでとう、芦屋。仕事は大変になるだろうけど、その分やりがいもある。本社勤務なんて羨ましいよ」 「篠崎は優秀過ぎたのが仇になったな。どこの営業所もお前をよこせと言ってきやがるが、外へ出す気はないと俺が突っぱねてるんだ」  そう言って小野が豪快に笑う。それではあっさり放出された自分の立場は一体どうなるのか。そんな芦屋の胸の内を読んだかのように、篠崎がさりげなくフォローを入れた。 「それを言うなら芦屋だってうちの大事な戦力です。栄転じゃなければ手放したくはないですよ。親切でイケメンなお兄さんって、お客様からの評判もいいですしね」  きちんと整えられた髪。すっと通った鼻筋に、柔和な笑みを湛えた薄い唇。その完璧な横顔を食い入るように眺めながら、この顔を拝めるのもあと四カ月足らずなのだと思うと、胸がぎゅっと引き絞られた。  三年もの間セックス断ちの願かけをしていたのも、人智を超えた力を借りて篠崎とどうにかなりたかったからなのだが、結局はどうにもならないまま、そこそこ仲のいい先輩後輩という間柄で終わってしまいそうだ。  だがそれも仕方がない。今の関係を壊したくなくて、一歩を踏み出せなかったのだから、自業自得だ。それならせめて、この一瞬一瞬を大事にしなければと芦屋は思う。  これまでは側にいると緊張するという理由で、内々の飲み会に誘われても断っていたが、今後は積極的に参加しよう。思い立ったが吉日と言うし、なんなら今日にでも――。 「じゃあ、そういう事で。芦屋、今日はもう帰っていいぞ。荷造りやら転居の手続きやら、いろいろとやる事があるだろうしな」 「はっ? に、荷造りですか?」  上司からいきなり頓珍漢な話を切り出され、すぐ側に憧れの篠崎がいる事も忘れて間抜け面を晒してしまう。 「そりゃ引越しの準備は何かと面倒ですけど、まだ先の話じゃないですか」 「おいおい、今の話を聞いてなかったのか? お前は一月一日付で本社へ異動になる。つまり店での仕事はあと五日でしまいだ」  芦屋は自分の耳を疑った。だが芦屋の耳は正常だ。おかしいのは小野の言葉の方なのだ。 「はっ? い、五日? 五日っていくらなんでも非常識過ぎやしませんか? 仕事の引継ぎだってありますし!」  間抜け面の上に声まで裏返ってしまったが、今の芦屋にそれを気にする余裕はない。そもそも本社勤務と営業所勤務では、仕事内容がまるで違う。引継ぎには十分な時間が必要だ。 「お前に今の仕事を教えたのは誰だと思ってるんだ。デスクワークも研修でみっちり仕込まれたんだろう? お前なら向こうでもやっていけるだろうと、畑山さんから太鼓判をもらってる。なんの問題もないじゃないか」 「いやいや、大ありですよ! 家っ、家はどうするんです? この時期じゃ向こうの社宅に空きはないだろうし、部屋を探す事を考えたら準備期間に最低でも一ヵ月は必要です!」  今の住まいは入社以来住み続けている社宅だ。当然山梨にも社宅はあるが、常に満杯で住人の入れ替わりがあるのは春先だけと聞いている。つまり、通勤圏内に新しく住む場所を探さなくてはいけないという事だ。 「お前なあ、こんな時こそ会社の力を使わなくていつ使うんだ。向こうの人事に言ってお前に即日入居可能な優良物件を格安で回してもらえるよう頼んでやるよ。山でも湖でも葡萄畑でも、どこでも好きな場所を言ってみろ」 「で、でもっ、住民票も移さなきゃいけないし、他にも諸々の準備が……」 「だから、そのための半休だろうが。部屋はすぐにでも見つけてやるから、とりあえず引越し準備だけでも進めとけ。土曜は送別会だから、篠崎もそのつもりでな」  小野はそう言うと、話は終わったとばかりに煙草を揉み消し、さっさと持ち場へ戻っていった。  温くなった缶コーヒーがとうとう手から滑り落ち、床の上をころころと転がる。 「あと五日……?」  今日が金曜日、明後日の日曜日が今年最後の営業日なので、実質残された日数はあと三日だ。今日は帰って引っ越しの準備をしないといけないし、明日は送別会。仕事納めの後に飲みに行こうと誘えるほど、芦屋と篠崎はくだけた関係ではなかった。つまり――、 (終わりだ)  呆気ない片思いの終焉。たった三年の貞節で、ゲイの自分がストレートの篠崎と恋仲になろうなんて、どだい無理な話だったのだ。 (だめだ、泣きそう……)  いい歳をした大人が異動くらいで涙を流すなんて、しかもそれを片思いしていた相手に見られるなんて最悪だ。情けない顔を隠したくて、芦屋は慌てて俯いた。 「相変わらず忙しないな、小野さんは」  苦笑しながら、篠崎が自販機に小銭を入れ、ボタンを押す。取り出し口から熱々の缶コーヒーを取り出すと、芦屋の手にそっと載せた。 「え? あの……?」 「俺猫舌だから、そっちは芦屋が飲んで」  そう言って床の上の缶コーヒーを拾い、派手にへこんだ缶のプルトップを上げる。  篠崎が好んで飲むのは、無糖のブラックコーヒーだ。なのに芦屋が選んだミルク入りの甘いコーヒーを、表情も変えずに飲んでいる。 「降ってきたな。道、混まなきゃいいけど」  目顔で促され、篠崎の視線の先を見やる。結露で曇った窓の向こうは、ちらちらと白いものが舞っていた。  営業所裏の休憩室で、ほかほかの缶コーヒーを手に、肩を並べて窓の外を眺める。最後の思い出としては上出来の光景かもしれない。 「……篠崎さん、俺、向こうでも頑張ります」 「うん。芦屋ならきっと大丈夫だよ」  穏やかな声に、目の奥がじわりと熱くなる。  この日、時期外れの異動をきっかけに、芦屋は三年に渡る願かけと、不毛な片思いに、終止符を打ったのだった。
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