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第2章 白鷹
白い鷹。青い空に舞う。そして、その先に……。
これは、夢。それとも――
「おい!大丈夫かよ!?」
ぱしぱしと頬を叩かれる感触で、有為は目を覚ました。体中が、じっとりと汗に濡れているのに気がついた。
「……何か?」
今さっきまで見ていた夢がまだ抜けきらぬまま、ぼんやりとした頭で有為は尋ねた。
「何かって、もの凄い魘され方だったぞ」
「あ……ああ、そうですか……」
有為は頭を抱えながら、首を数回振った。
「夢、です。多分。夢、でしょう」
夢にしては、妙に生々しいものであったが、夢以外、説明が付かない。
「なら、いいけどさ。どっか調子悪いんだったら、隠さず言えよ。しばらくはまだ、沙漠越えが続くんだ。体がしんどいようだったら、休み休み行くから」
そう言いながら、駿は昨夜の焚き火を引っかき回して、風を入れた。火が蘇り、再び赤々と燃え上がった。
春とはいえ、沙漠の朝はかなり冷え込む。有為は、毛氈にくるまったまま、もっと暖まろうと、火の方に体を動かした。
(やっぱり、しんどいのかなあ……)
有為の様子を見ながら、駿は思った。
国境を越え、一面に、ごろごろとした石の転がる礫沙漠に足を踏み入れてから数日が経つ。人の往来も稀で、会うとしたら間違いなく敵――匈奴だ。
有為にとって、今までに経験したことのない緊張感が続いているに違いない。焦りもあるが、やはり、もう少しゆっくり行った方がいいのかもしれない。
「休み休みはいやです。早く、ここから抜け出したい」
炎を見ながら有為は呟いた。
「俺だってそうだ。だが、体が言うことを聞かないんなら仕方がない。この旅の目的は、張の兄貴を捜すことだ。何時までに、ここに、っていう期日が定められたわけでもない。焦って、無理をして、体が動かなくなっちまう方が困る」
鍋に、水と、適当なものをぶち込んで煮込みながら、駿は彼に諭した。
「でも、独生どのは、夏までには何とかしたいと、言ってたじゃないですか?」
「まあな」
鍋をかき混ぜながら、駿は答えた。
「春から夏にかけて、牧民はてめえの仕事が忙しくて、よそ者にもこだわらない。戦は大抵、秋から冬。この時期、ヘタに草原をうろうろしてると、捕まって何されるか解らねえ」
春は、家畜の出産の時期。牧民である匈奴たちは、家畜の世話に追われ、一年のうち一番忙しい季節だ。
夏は、彼らにとっての収穫――毛狩りと搾乳の時期。刈った毛や、搾った乳から、女たちは様々なものを作り出す季節。
男たちは、家畜の番以外は大した仕事はないが、この時期に英気を養い、訓練を積み、秋からの戦に備える。
「……独生どのは、匈奴のこと、よくご存じなのですか?」
「そんな知らねえよ。昔、親分と一緒に、胡人(匈奴)のおっちゃんから、少し話を聞いただけだ」
「胡人?」
「何でも、内紛で、親兄弟みんな殺されたってんで、漢に逃れてきたんだってさ。結構いるぜ、そうやって漢に降った連中。そのおっちゃん、道案内で張の兄貴たちと一緒に出発したけど、今頃どうしてるんだか。生きてりゃ、いいけど」
この十年の間に様々なことがあった。
衛青の兄、長君は、妹が寵妃になって間もなく、病を得て亡くなり、青が正式に衛家の家長の立場に就いた。
韓嫣は皇弟・江都王非と諍いを起こし、そのため彼を恨んだ王皇太后によって罪を与えられ、死んだ。
皇帝に並ぶほどの権勢を誇った彼の、呆気ない最後だった。
最愛の人を失った武帝を慰めたのは、他でもない衛子夫だった。結果、彼女は、武帝の寵愛を一身に受けるようになった。
男妾がいなくなっても、寵愛を受けることのなかった陳皇后は嫉妬に狂った。そこへ平陽公主がさらに彼女を精神的に追いつめた――母が、昔したのと同じように。
切羽詰まった皇后は、とうとう禁忌の呪術――媚道に手を出してしまった。そして一昨年、彼女はその罪で皇后を廃され、長門宮に蟄居を命じられた。
それ以来、皇后位は空位だった。
武帝は寵妃衛夫人を皇后にしたかったのだが、何分、卑賤の出。そう簡単に事は運ばなかった。
彼女は三人続けて女児を産んだ後、今年の初め、やっと待望の男児を産んだ。その功によって、ついにこの春、彼女は、皇后位に就くことになった。
竇大皇太后も既に亡く、今、武帝を煩わす存在といえば、ただ一つ、国境を騒がす騎馬民族国家・匈奴のみとなった。
昨年の一戦は、武帝にとって正しく満を持したものであった。が、勝てなかった。有能な将が少ないからだ。
衛青一人では匈奴には勝てない。
共に従軍した駿にも、それが痛いくらいに解った。だからこそ、戦が起こるであろう秋までには、張騫を見つけ出したかったのだ。今度こそ、勝つために。
有為を置いていけば、もっと早く草原に着く。ふと、駿の頭にそう言う考えが過ぎった。
しかし、すぐに心の中で首を振った。
そんなこと、青だったら絶対にしない。青は、弱い者は絶対に見捨てたりはしない。そして、強い者には少しも怯まずに立ち向かう人だ。
青がしないことは、絶対にしない。青がすることは、自分もする。
それは、初めて彼の元から離れ、長い旅に出るときに決めたことだった。判断に迷ったとき、彼ならどうするか、そう考えれば自ずと道が見えると、駿は信じていた。
「ほれ、喰え」
駿は、適当に作った粥を鍋から椀に入れると、有為に手渡した。有為はやっと毛氈から出ると、それを両手で受け取った。
「……独生どの、味がしません」
一口啜って有為が呟いた。
「塩、入れろ!塩!それくらい、自分でやれ」
味を付け忘れた自分が悪いのだが、何もしない有為にも腹が立って、駿はつい怒鳴ってしまった。有為は慌てて塩を捜すと、椀の中にぱらぱらと振りかけた。
駿も、自分の作った粥を口に入れてみた。本当に味がなかったので、思わず吹き出してしまった。
沙漠を越えるため、ひたすら北に進路を取っていた二人の目に、一つの穹廬が飛び込んできた。
遊牧民の移動式の住居である穹廬は、下に台車が着いており、その上に、柳材でできた家が据えられていた。馬や駱駝にこれを牽かせて、草地から草地に移動するのである。
「独生どの……どうしましょう?」
行く手に見える匈奴の住まいに動揺した有為は、震える声で訊いた。
「大丈夫だよ」
苦笑いを浮かべながら、駿は有為を宥めた。
「堂々としてろ。連中は、敵には容赦ないが、旅人には寛大なんだ。こっちから仕掛けない限り、あっちもなんにもしないよ」
駿の言うとおり、穹廬の前で、一人の女性が大きく手を振って、二人を呼び寄せていた。
「どうしましょう?」
女の誘いに、有為は戸惑いを隠せなかった。
「行くんだよ。ここで素通りしてみろ、怪しまれて、背後から襲われるぞ」
駿は馬に鞭を当てると、穹廬に向かって駆けだした。有為も慌ててその後に続いた。
女は、彼らがこちらに向かってくるのを見ると、駆け寄って二人を迎えた。
「やはり、漢の方ですね!」
彼女は、二人を見るなりそう叫んだ。駿と有為は、驚いて互いの顔を見合わせた。彼女の発した言葉は、匈奴のそれではなく、漢の言葉だったからだ。
二人が絶句したままでいるのを見て、彼女は寂しそうに笑った。
「このような、夷狄の格好をしていれば、致し方ありませんね。わたくしは、もとは山東の瑯邪の者でした。名を、沈玲と申します」
そう言う彼女の言葉には、確かに山東の方の訛りが入っていた。まだ、二十代そこそこなのだが、肌は荒れ、髪には白いものが目立っていた。
服は、いわゆる胡服。羊毛で作られた、スリットの入った長い上位に、ズボンとブーツ。腰には飾り気のないベルトが締められていた。
彼女は、自分の身の上を二人に語り出した。
今から七年前のこと。同郷の者が雁門で戍卒を務めていたが、連れ合いが急死し、不便を強いられるようになった。
戍卒というのは、長城などに沿って設けられた烽台を守る見張り兵のことだ。
徭役で全国各地から徴兵され、任地――国境沿いの烽台に赴いた。基本は一年年季であるが、他の者の分まで数年に渡って勤め上げる者も少なからずいた。
そういう者たちの面倒は、彼を送り出した郷里や一族で見るのが当然の務めであった。沈玲の同郷の者も、やはりそうだった。
連れ合いを失った彼の世話をするために、亡き妻の親戚で、年頃もちょうど良かった沈玲が選ばれ、後添えとして彼の元に赴くことになった。
そして、兄に連れられ、瑯邪から雁門に向かう途中のことだった。
彼女たちは匈奴の襲撃に会い、兄は殺され、持っていた物は全て奪われた。それどころか、彼女自身も陵辱され、そのうちの一人の妻にされた。
「あなた方は、流民ですか?」
彼女は二人に尋ねた。駿は首を振って答えた。
「人を捜して、この地まで来た者です。漢を逃れてきた者ではありません」
それを聞くと、彼女の顔色がぱあっと明るくなった。
「では、いずれ漢地にお戻りになるのですね!?」
「ああ」
「では、頼みたいことがあるのです。わたくしが嫁ぐはずだった相手は、もう年季を終え、郷里に帰ったでしょうから、致し方ありません。けれど、老いた父母に、わたくしはこうして生きながらえていると、お伝え願いませんでしょうか?
もう、二度と、お会いすることは叶いませんが、一日たりとも、忘れたこと話ありませんと。遠く離れたこの地から、長寿をお祈りしておりますと」
「そんなこと言わずに、共に帰りましょう。探し人を見つけたら、また、ここに寄ります。その時に、共に漢の地に戻りましょう」
駿は、彼女の目を見ながら、強く言った。しかし、彼女は、首を静かに横に振った。
「その言葉、大変有り難く思います。でも――」
そこへ、幼い声が響いた。小さな子供が、両手を大きく広げて彼女に飛びついてきた。
彼女は優しく微笑むと、幼子をすっと、抱き上げた。
「我が身は匈奴に穢され、匈奴の子を生みました。こうなった以上、もう、郷里に戻ることは出来ません。この地で、一生を終えるしか、ないのです」
幼子の頬に、自分のをすり寄せながら、彼女は言った。閉じている瞳から、きらりと光るものが覗いた。
そこに、若い男性が近づいてきた。幼子の跡を追ってきたのだろう。
有為の顔が、緊張で引きつった。それに気付いた駿は、さりげなく彼の背を叩いた。
男は、大声を上げて子供を抱き上げると、二人を歓迎した。そして、家の中へ上がるよう、身振りで示した。
有為は慌てて駿の顔を見た。
「中へ入るんだよ」
「え?でも……匈奴の?」
「ここで断ったら、殺されると思え」
「そうです」
沈玲も有為にさりげなく耳打ちした。
「夫は、あなた方を漢から逃れてきた流民と思っています。旅人に親切にするのは、匈奴のしきたり。従ってください。そうでなければ、本当に殺されるかもしれません。彼は、そう言う人間です」
その言葉に有為は慌てて中に入った。
「……やりきれないぜ、全く」
空行く雲を見ながら、駿は呟いた。
「女一人を、助け出すことすら出来ないなんて」
さっきまでいた穹廬を横目で眺めながら、駿は大きく溜め息をついた。
「食事をごちそうになった上、食料も分けて貰ったではないですか?あまり、彼らを悪く言うのは……」
「その食料だって、ほとんど漢の農民から奪った物だ」
「え?」
「そう言ってたよ、あの男。足りなくなったら、また盗ってくるから遠慮するなって」
駿はほんの少しであるが、匈奴の言葉を理解することが出来た。
餞別に食料を渡されたとき、駿の顔色がさあっと変わった理由が、やっと有為には解った。
「この辺は、あまりいい草地がないが、漢との国境は近い。必要な物があったら奪った方が手っ取り早いのさ。あいつらはそう言う連中だ。
馬邑の失敗があった後、俺は親分たちと一緒に、長城付近をいろいろ調べたんだ。この辺りじゃ、あいつらの略奪は当たり前のようにある。みんな、あいつらに泣かされてるんだ」
馬邑の失敗とは今から六年前、元光二年(前一三三)にあったことだ。
武帝は馬邑の商人聶壱を使って、匈奴を馬邑まで誘き出し、彼らを囲い込んで一網打尽にしようと試みた。しかし、馬邑に着く前に匈奴兵たちは異変に気付き、すぐに撤退してしまった。
この奇策は、結局なんの成果も得られぬままに終わった。それどころか、漢のだまし討ちに怒った匈奴たちによる国境付近の略奪が、返って激しくなってしまったという、皮肉な結果に終わった。
当時まだ、軍の実権を握っていなかった衛青は、自ら名乗りを上げて、長城周辺の調査に赴いた。まだ幼く、年齢的に騎士の資格を持ち得なかった駿だったが、無理矢理軍に入り、青の右腕として彼に従ってあちこちを見て歩いた。
数年がかりで、匈奴の侵攻ルートや彼らの行動をつぶさに調べ上げ、それを元にしてこちらからはどう攻めればいいのかを丹念に吟味した。その結果を持って、武帝は今度は正攻法で、対匈奴との戦いの火蓋を切った。それが去年の戦いなのだ。
「あいつら匈奴を、絶対に許すわけにはいかない」
「――でも」
それまで下をうつむいて黙っていた有為が、口を挟んだ。
「あの、沈玲と言う方、それなりに大事にされていたようではありませんか?決して不幸な身の上ではないのかも……」
「有為!何を言うんだ!」
有為の言葉に、駿は激怒した。
「あの人は、物と同じように、力で奪われたんだ。故郷と両親を想いながらも、二度と帰ることが出来ないんだぞ。これが不幸じゃなきゃ、何なんだよ!?」
「それは、その……」
駿の権幕に押されながらも、有為は言葉を続けた。
「私の、三番目の母に似ておりましたので……」
「三番目って、お前、そんなに母親がいるのか?」
「ええ、とりあえずは。
私の生母は私の誕生と引き替えに亡くなりまして、私は父の後添えに育てられました。その育ての母も、先年、病を得て亡くなり、今は私と年のそう変わらない方が、母になってます」
「――お前んちも、いろいろあるんだな」
「そこそこです。
その母の実家は、元の名家、と言うやつで、今は落ちぶれて見る影もありません。父は、そこの娘を金で買ったのです。互いに望み望まれて縁組みしたわけではありません。
でも昨年生まれた弟を、腕に抱く母の顔は、先程のあの方が、お子に見せた顔と似ていたもので――きっと、子供といれば心が和むのではないでしょうか?」
「たとえ夫は憎くても、自分の子供は愛しいってことか」
「たぶん。男の私には解りませんが」
「家族のいねえ俺には、もっと解んねえよ」
と、その時、二人の頭上をぴろろろ……と高い笛の音のような鳴き声が響いた。
見上げると、嘴から足先まで、全てが純白の、不思議な鷹が上空で弧を描きながら飛んでいた。
「あんなに真っ白なの、初めて見る。何かの前兆なんだろうか?」
駿の呟きに、有為はハッとした。
「行きましょう!」
言うや否や、有為は馬に鞭を当てると、その鷹の後を追いだした。
「有為!?」
駿は、慌てて彼を追った。
「今朝方の夢に見たのです。あの白い鷹を。あれに付いていけば、何かがあるはずです」
「夢を信じるのか!?」
「この旅だって、はじめは帝の夢でしょう?だったら、自分の夢に従ったって、いいじゃないですか」
珍しく積極的に動いた有為に、駿はとりあえずは従うことにした。凶と出るか、吉と出るか……。
二人は鷹を追って、岩山に辿り着いた。先が崖になっていたため、二人は馬の足を止めた。
気がつくと、鷹の姿は消えていた。空に浮かぶ白いものは、雲しかなかった。
二人は周囲を見渡すと、北東の方角で砂煙が上がっているのが見えた。
「あれは……」
駿は目を凝らして、それが何であるのか見極めようと必死になった。
「――匈奴兵だ!」
彼の叫びに、有為はびくっと肩を上げた。
「そんなに数はないが、――奇妙だぞ」
数騎の兵士たちで、たった一人の女性を追っているのだ。女性も、その服装から見ると、兵士たちと同じ匈奴であることは間違いないのだが……。
「有為、ここで待ってろ。ちょっと行ってくる」
「独生どの!?」
有為は慌てて彼を引き留めようとした。
「理由は解らないが、女一人に、大の男が数人掛かりとは卑怯この上ない。あの女を助けてくる」
「罪人かもしれませよ?」
「大逆非道の罪を負っているのは、あいつら匈奴兵だって同じよ。いいから、待ってろ」
そう言い捨てると、駿は馬を駆って一気に岩山を降りていった。取り残される不安から、有為も思わず彼の後を追った。
岩山を降りるのに手間取った有為が、やっとの事で追いついたときにはもう、駿は匈奴兵を二、三騎ほど馬上から引きずり下ろしていた。
(早い……)
彼の動きの速さに、有為は思わず息をのんだ。
「有為!」
有為が来たことに気付いた駿は、彼に向かって叫んだ。
「中途半端な距離を取るな!こいつらの矢は毒矢だ。射られたら命はない。近づいてこいつらの中にはいるか、矢も届かない遠くに逃げるかしかない」
そう言いながら、駿はさらに一騎を馬から蹴落とした。
「毒矢ですか!?」
毒と聞き、有為は一瞬震え上がった。
「こいつらは俺が何とかする、この女を連れて、さっきのとこまで逃げろ!」
駿は、自分の陰に隠れるようにいた女性に、身振りで有為の方に行くように促した。
ところが、有為が、懐を探りながら二人の方に走って近づいてきた。
「有為!?」
「ちょっと、目を瞑ってください!」
そう言うなり、有為は懐から出した物を、思い切り地面に向かって投げつけた。
ぱん、と大きく弾ける音が響いた。
そして音と共に、周囲に煙が立ちこめた。
「何だ!?」
突然の煙に皆が混乱していると、有為は駿と女性の手を引いた。
「煙だけで、人畜無害です。この隙に逃げましょう!」
三人は、匈奴兵が慌てふためいている間に、さっきの岩山まで戻ってきた。そして、ちょうど良い岩陰を見つけると、三人は馬を下りた。
「さっきのは、何だ?」
息を切らしながら、駿は有為に尋ねた。
「煙玉です」
有為は、懐から二粒の丸薬を出すと、彼に示した。
「以前、お話ししたことがあったでしょう?不思議な薬を売りに来る老人に貰ったのです。これを思い切り地面に叩きつけると、一時の間、煙が出てくるのです」
「面白いもんだな。あるのは、これだけか?」
「ええ、五つ貰って、一つは貰ってすぐ、試しに使ってみました。一つは、何で出来ているのかと、中を割って調べるのに使ってしまいました――結局、何故煙が出るのかは解りませんでしたが。さっき逃げるのに一つ使ったので、残りはこの二つだけです」
「そうか。またこれの世話になるかもしれないから、大事にしようぜ」
有為はその言葉に頷くと、丸薬を大事そうに懐にしまった。
「それにしても、独生どのは、お強いのですね。驚きました」
「……お前、今頃何言ってるんだよ。俺を誰だと思ってるんだ?」
駿はちょっと照れくさそうに、顔を顰めた。それから、女性の方に向き直って言った。
「なるべく馬を狙って、あいつらの足を止めるようにしていおたけど、直に追いついてくるだろう。すぐにここから立ち去れ。後は何とかする……って、言っても、俺たちの言ってることは解るわけないか」
駿は頭を掻きながらちょっと考えると、身振りと共に匈奴の言葉で、「行け」と繰り返し言った。
「馬鹿にするな。お前たちの話していることは、ちゃんと解っている」
急にその女性は口を開き、漢の言葉で言った。そして切れ長の大きな目で、二人を睨み付けた。一瞬金色に見紛うほどの明るい茶色で、中心が緑がかった不思議な瞳に、駿は一瞬どきっとした。
彼女は、見たところ、二十歳前、有為や駿とそう、年が変わらない感じがした。
光に当たると、栗色に輝く髪を器用に編み込み、両脇が布で覆われ、先がやや尖り気味の帽子の中にしまい込んでいた。逃げているうちに帽子がずれ、髪も乱れてしまったので、彼女は帽子を脱ぐと、編み込んだ髪を解いた。
その指先は、雪のように白かった。服が黒かったので、余計にその白さが際だって見えた。
黒地に赤い刺繍の入った服は、男性に比べると裾が長めに出来ていたが、馬に乗りやすいように、両脇に深いスリットも入っていた。また、男性と違い、腰をベルトで止めてはおらず、裾はふわりと広がっていた。
見慣れぬ匈奴女性のその姿に、駿は一瞬息を飲んで見入ってしまった。それから慌てて我に返った。
「漢の言葉が解るのか?」
気を取り直して、駿は女性に訊いた。
「解るも何も、私の夫は漢人だ」
その言葉に、駿と有為は思わず顔を見合わせた。
「では、尋ねてもいいか?俺の名は鄭駿、字は独生。こいつは麹(きく)有為、字を伯慈(はくじ)という。俺たちは、十年前、月氏に使いする途中で匈奴に捕まった使節団の行方を追っているんだ」
「使節団の行方を……?」
「その使節団を率いていた人を捜してる。名は、張騫…」
そこで、急に彼女は大きな笑い声を上げた。
彼女は懐から、錦の巾着袋を取り出すと、大事そうに両手で包んだ。そして、それに向かって小声で呟いた。
「お前が、導いてくれたんだね、ありがとう。あの人に、近づいたようだ」
それから、顔を上げると彼女は言った。
「その男こそ、我が夫だ」
その言葉を聞いて、今度は有為が叫び声を上げた。
「ほら、ほら、独生どの!夢のお告げが当たったではないですか」
「うるせえ!有為!ちょっと黙ってろ」
駿は、騒ぐ有為の頭を小突いて、彼の口を黙らせた。
「じゃあ、話は早い。教えてくれ、張の兄貴は今、どこにいるのか?いや、その前に、無事でいるのか?」
「解らぬ」
彼女はふん、と鼻で笑いながら答えた。
「――え?」
彼女は、唖然としている駿を横目に、側にあった岩に腰をかけた。
「話は長いぞ。だが、これも我が子の導き。私の身の上を聞くがいい」
そう言って、彼女は自らのことを語り始めた。
「我が名はツルゲネ。これでも、単于家の血筋、攣鞮(らんてい)(単于の一族)の者だ。漢人捕虜を監視するため、単于は私を騫と娶せた。今から九年前のことだ」
「九年前?子供で嫁に行ったのか?」
駿は、自分よりやや年下に思えるツルゲネに向かって、かなり不躾なことを聞いた。
「ああそうだ。子供の方が、相手も安心するからな。幼い少女が色仕掛けをするなんて、夢にも思うまい。だが、やることはやったぞ。そこまで持っていくまで、三年もかかったがな」
彼女の言葉は、きっと騫と長くいたせいであろう、妙に男っぽい話しぶりだった。色白で、大きな瞳が印象的な娘の口から漏れるには、少し違和感があった。
「騫がやっと私を妻として扱うようになって間もなく、私は身籠もった。単于の命を、やっと全うできたわけだ」
単于は、張騫の人柄を気に入り、匈奴の陣営に加えたかった。子供さえ出来てしまえば、匈奴領内に止まざるをえない。それは漢人捕虜を幕内に加えるいつもの手でもあった。
「兄貴に子供が……!男か、女か?」
「男だった。だが、それは騫も知らない」
「どういう事だ?」
「お前たち漢人のせいだ」
ツルゲネは、大きな瞳でギロリと駿を睨み付けた。
「六年前の、馬邑のこと、知っているか?」
「漢軍がお前たち匈奴のことをだまし討ちにしようとしたことか?」
彼女は頷くと言葉を続けた。
「あの一件で、単于は騫に疑いを持った。相変わらず、彼は単于に従おうとはしなかったし、むしろ内通するおそれがあったからな。だから単于は、騫を単于庭から西の領地に移した。
その時の私は、まだ十二で、初めてのお産にはまだ少し若すぎたから、長旅は駄目だと、そのまま単于庭に残された。以来、彼とは会っていない」
「そうか……。じゃあ、子供は?もう、五つか、六つになってるんだろ?どうしてる?」
彼女は、先程の袋を、ぎゅっと握りしめた。
「お前たち漢人は、本当に私の邪魔ばかりする」
「え?」
「この秋、お前たちは、我れらの聖地、蘢城を穢した。それを清めるために、我が子の血が使われた」
彼女は、袋から深紅の玉を捕りだした。鈍く光るそれは、血が固まって出来たように思えた。
「これを前にして、我が子の心臓が裂かれ、その血がこれに注がれた。我が子は、天地鬼神への、捧げ物となったのだ」
頬に、涙が一筋の流れを作ったが、彼女は気に止める風もなく言葉を続けた。
「二人で、父を待つはずであった。なのにこの子は父を知らぬままに、死者の国へ旅立ってしまった。その無念を騫に伝えるために、私は、この玉を蘢城から盗み出し、西へと向かっていたのだ」
「すまない」
いたたまれなくなった駿は、土下座をして額を地面に繰り返し打ち付けた。
「馬邑の件はともかく、蘢城の戦いは俺もかんでいる。謝っても、兄貴の子は生き返りはしないけれど、だが……」
「その通りだ」
ツルゲネは彼の頭を、足で踏みつけた。
「あの子は、帰ってこない」
「そんなこと、しないで下さい!」
二人の間に有為が慌てて割って入った。
「無意味です!今は、そんなことしている場合ですか!?」
我に返った駿は、有為に助け起こされながら、彼女に訊いた。
「あの追っ手は……」
「この玉が蘢城から失せたことに気付いた胡巫(こふ)たちが遣わしたものであろう。ちょうど追いつかれたところで、お前たちに助けられた。これもきっと、この子の導きであろう」
彼女は、赤い玉をぎゅっと握りしめた。
「――それは、危険なものだ。気をつけろ」
不意に、頭上から声が響いた。三人はほぼ同時に、声のする方を見上げた。
岩山の上の方で、蒼天の雲のように白い、深衣と呼ばれる、前あわせで裾の長い服を着た青年が、座ってこちらの方を見ていた。年の頃は二十四、五。髪は結わずに垂らしていたが、色の黒々とした見事なものであった。
くっきりとした眉が印象的な、彫りの深い顔立ちをした男は、三人を見てニヤリと笑った。
有為は、その男に見覚えがあった。だが、誰だかまでは解らなかった。
「誰だ、お前は!?」
駿は慌てた。岩山の男の気配に、全く気付かなかったからだ。追っ手を播いている以上、人の気配には充分注意しているはずだったのに。
「今は、そんなこと、どうでも良い。ほれ、見ろ。追っ手が来ているぞ」
その言葉に、駿は慌てて岩をよじ登ると、男の横に立った。
確かに、追っ手がこちらに向かってきていた。さっきの戦いで多少減ったとはいえ、それでも十騎は下らない。
連中は、一心不乱にこちらに向かって馬を走らせてきていた。
「奴らには、ここに隠れていることが手に取るように解るのだよ。その玉を持っている限りな」
白い服を着た男は言った。
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