第3章 相柳の血

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第3章 相柳の血

「有為!俺があの連中を食い止めているから、その間に、二人でさっきの沈玲の家まで戻れ。半日経っても俺が来ないようようだったら、そのまま二人で、張の兄貴の所まで行け!」  駿はそう言い放つと、馬で飛び出していった。 「独生どの!?」  有為が止める間もなく、駿の姿は土埃の中に消えていった。  行くに行けず、おろおろしている有為の目の前に、白い服の男が岩から飛び降りてきた。 「私も行ってくる。心配するな。ここで待ってろ」  そう言いながら、彼は駿の後をで追っていった。 「あなたは――?」  有為は、男の背中に向かって問いかけた。男はくるっと振り返ると、ニヤリと笑った。 「何を今更訊く?旧知の仲であろうに」  毒矢を警戒した駿は、大きく回り込んで、相手の背後に回った。相手がこちらに気付いたときには、もう既に矢を射るには近すぎる場所に来ていた。  駿は、俊敏の俊から来ている。  幼い頃から、すばしっこかった彼は、衛青から”俊々”と呼ばれていた。騎士になるに当たって、馬との相性がいいようにと、人偏を馬偏に替えて駿にしたのだ。  その名に恥じず、彼は匈奴のお株を奪う素早さで、相手を翻弄し、次々と倒していった。  敵にいちいち止めを刺す暇などない。  駿は、とにかく追捕されないために、相手の足――馬を狙った。敵の攻撃をかわしながら、隙をついて相手を馬から落とすか、馬を転ばすように心がけた。  しかし、どうしても多勢に無勢。こちら側の攻撃はどうしても雑になる。  落馬しても大して負傷していない兵士が、駿目掛けて毒矢を放った。  矢は、ヒュンと音を立て、駿めがけて一直線に飛んでいった。 「物騒な」  と、さっきの白服の男が不意に現れると、迷わず矢面に立った。  すると、矢は彼の目の前で、ぴたりと止まった。そして虚空に浮いたまま、ピクリとも動かなかった。  男は、ゆっくりと腕を上げると、矢の方に指を向けた。同時に、矢は、くるっと反転した。  次に彼は、指を上空に向かってあげた。それに合わせ、矢はぐんと上に向かって飛びたち、そのまま虚空に消えた 「このような、物々しいこと、止めましょうか」  男がそう言うと、匈奴兵たちが手にしていた武器が、突然、宙を舞った。そして、男の方に向かって、一斉に集まった。  彼は、腕を大きく広げて、飛んでくる武器を迎えた。そして、体をゆっくりと回転し始めた。と同時に、武器もそれに合わせて彼の周りを回り始めた。  彼は、最初はゆっくりと、そしてだんだんと早く回っていった。それに合わせ、どの武器もどんどんと回転を速くした。回る中でだんだんと武器は砕け、細かくなっていった。  粉々になった武器は、やがて、光る花びらのようになった。  彼は回るのを止めた。  花びらだけが、キラキラと輝きながら彼の周りを回り続けた。  そしてその花びらは、ゆっくりと、風に飛ばされ、天に昇っていった。 「生臭い血より、芳しい花の方が良かろう」  男はそう言って笑った。  駿も、匈奴兵たちも、その光景を、呆然と見つめるしかなかった。 「ほれ、青年。行くぞ」  男は駿に近づくと、彼の馬の尻を、手で思い切り叩いた。馬は一声嘶くと、そのまま駆けだした。  何が起こったのか、まだ理解できていない駿の横を、男は付いていった。  全速力で走る馬に遅れずに歩く彼の姿に、駿は頭が混乱した。  夢を見ているのか、それとも自分の頭がおかしくなったのか……? 「――待てい!」  背後から匈奴の言葉で、そう響いた。意味は駿にも理解できた。  駿は、馬を止め、後ろを振り返った。  そこには、顔に奇妙な文様の、文身(いれずみ)を施した男たちが三人、馬に乗ってこちらを見ていた。    いきなり脇の二人が、銅鼓を打ち鳴らし始めた。あまりの音に、駿は思わず耳を塞ぎ、馬も苦しそうに首を振った。  中心にいた一人が、小箱を取り出すと、両手に捧げ持った。それから、勢いよくその蓋を開いた。  中から、白い煙がもわっと吹き出した。そして、その煙の中から――毒々しい縞模様を持った大蛇が、姿を現した。  大蛇は、赤く長い舌をちろちろと出し、こちらを威嚇した。毒気のある息が、二人の方に流れてきた。 「おや、おや、こう来たか」  白服の男は、暢気に言った。 「あんた、何か策があるのか?」  彼の落ち着きぶりを見て、駿は訊いてみた。 「策ねえ……強いて言えば、逃げるが勝ち」 「え?」  男は、指をぱちん、と鳴らした。  急に、身を切るような寒風が、駿を襲った。  目の前には、雪をかぶった尾根が並んでいた。自分たちは、土埃の舞う礫沙漠にいたはずなのに、目の前を舞っているのは、白い粉雪であった。  続いて男は、手をぱんと叩いた。  と、今度は目の前に有為とツルゲネが現れた。二人とも、何が起こったのか解らず、呆然と立ちつくしていた。 「ここは……?」  彼らの問いかけに、男は何かに気付いたような顔をした。 「ああ、すまなかった。急にこの寒さでは耐えられまい」  そう言うと、男は三人の馬に、懐から取り出した丸薬を次々に飲ませた。  薬を飲んだ馬たちの体から、突然、もわっと湯気が上がった。触ってみると、燃えるように熱くなっていた。寒さで凍えていた三人は、思わず馬に寄り添って暖を取った。 「どこなんだよ!?ここは」  もう一度、駿は男に問いかけた。 「どこって、見れば解るだろう?どう見てもここは雪山だ」 「だから、」  駿は寒さで回らなくなっている口を、懸命に動かして大声を出した。 「俺たちは、沙漠にいたはずだ。なんで、雪山なんだ」 「雪山に来たからさ」  訳の解らない問答に、駿は自分の頭がおかしくなったのではないかと疑った。さっきの男の仕草といい、この雪山といい、頭がおかしいか、夢を見ているのか、どちらかでないと説明が付かない。 「あなた様は、何者なんですか?」  頭が混乱している駿に変わって、有為が問いかけた。 「おや、冷たい言い方だな。薬屋の若主人」 「え?」  街中にいる人なら、大抵、彼を「跡取り」と呼んでいて、「若主人」と呼ぶ人は、限られていた。有為は、その限られた心当たりを、懸命に思い出そうとした。 「ああ、これでは解らんか」  男は、有為の様子を見て、にやっと笑った。と、次の瞬間、男の顔がしわくちゃの老人に変わった。 「あ!」  有為はその顔を見て大声を上げた。そして、駿に駆け寄ると、彼の肩を揺すりながら興奮した口調で叫んだ。 「この人です!うちに不思議な薬を売りに来ていたのは!!」  駿は、目の前の青年が老人に変わったのを見て、確実に自分は気が狂ったのだと思った。  有為は、そんな駿に構うことなく、今度は老人の方に近づくと、跪いて深々と礼をとって挨拶をした。 「お久しぶりでございました。先程はお世話になりながら、大変な失礼をいたしました」  そう言う有為に、男は頭を上げるように促した。有為は、言葉を続けた。 「あなた様がお持ちになる薬は、この世のものとは思われませんでしたが、やはりそうだったのですね。神仙の薬を分けていただいていたなんて……こんな有り難いことはございません。もしよろしければ、お名前を名乗ってはいただけないでしょうか?」 「おや、教えてなかったか?――我が名は安期生。よく、安期先生と呼ばれているな」 「え!?」  その名を聞き、駿と有為はほぼ同時に声を上げた。  安期生と言えば、武帝が長年探し求めていた仙人の名だ。しかし、どんなに探し求めても、彼の消息も、彼のいるという蓬莱も、杳として解らなかった。  だから、駿は武帝を取り巻く怪しげな人物たちがでっち上げた、架空の人物だとばかり思っていた。  本当に、いたのか――?しかも、蓬莱にいるはずの彼が、こんな所に? 「ねえ、ちょっと」  駿は、馬に寄り添って寒さに耐えてるツルゲネに声をかけた。 「悪いけど、俺の頬を思いっきりひっぱたいてくれないか?」 「何?」 「いいから……」  そう言って、駿は頬を彼女の方に突きだした。彼女は遠慮なく張り手をお見舞いした。  冷えて、悴んだ肌に激痛が走った。二人は同時に悲鳴を上げた。 「恨むぞ。何を考えてるんだ」  ジンジンに痺れた指先をさすりながら、ツルゲネは呻いた。 「……悪いって言ったじゃないか」  頬をさすりながら駿は彼女に謝った。 「親分の教えなんだよ。悪鬼に惑わされたときは、自分の体を傷つけ、痛い思いをすれば目が覚めるってさ」 「悪鬼?」 「しっかし、こんだけ痛いんじゃあ、これは惑わされたんじゃない。彼は本物の仙人らしい」  その言葉を、ツルゲネはふんと鼻で笑った。 「安期先生!本物だって、信じていいのか?」  駿は、老人に声をかけた。 「そうだな。偽物がかなり出回っているらしいが、それではないのは確かだ」 「……また妙なことを言う」 「仙となると、全てが枯れ果て、実体が無くなるのだよ。だから、変幻自在である反面、掴み所もなくなるわけだ」 「あんたの話も、掴み所がねえよ」  駿は、彼と話してると、本当に気が狂ってくるのではないかと感じた。一方の有為は目をキラキラさせながら、彼のことを見ていた。 「老人になったり、青年になったりしたのは、そう言うわけですか」 「そうだ。もっと若くできるぞ」  そう言うと、安期生の姿がまた変わった。今度は見たところ十五、六、有為とそう変わらない年格好になった。 「はあ……お見事です」  有為は感嘆の声を上げた。 「私の店にお出ましになるときは老人で、先程は若者の姿でございましたが、何か訳などございますのでしょうか?」 「姿を決めるのは私ではない。私を見る者たちだ。お前の店に薬を持ち込むと、私のことを経験を積んだ薬士と見るであろう?だから、年寄りになるわけだ。匈奴の連中は、強きを重んじ、年寄りを軽んじる。よって、経験のない少年でもなく、弱った年寄りでもない若者の姿になるわけだ」 「では、私たちの前ではどんな姿に?」  面白そうに有為が尋ねた。 「どうするかな……おお、そうだ」  安期生はツルゲネの方に向き、声をかけた。 「おねえさん、どの姿がいいか?」  訊かれた彼女は、明らかに不快な表情を浮かべた。 「そんなこと、私に訊くな」 「じゃあ、そこの青年は?」 「俺にも訊くな!もう、この寒さを何とかしろ!」  寒さに耐えかねてる二人に気付いた有為は、慌てて安期生に言った。 「では、中間を取ってはどうでしょう?」 「そうだな」  言うなり、彼は先程の青年の姿になった。  それから、彼は腕を大きく振り上げた。と同時に、大きな火柱が上がった。 「お前たち、雪山の支度はないようだな。とりあえず、これで少しは暖まるだろう」 「雪山の支度って、俺たちは今まで沙漠にいたんだ。確かに北に向かってはいたが、いきなりこんな所に放り投げ出されて、どうしろって言うんだよ」  火に当たりながら、駿はぶつくさと呟いた。  それを聞いた安期生は、にやっと笑うと、足元の雪を掬った。雪は、彼が手に取った途端、白貂の毛皮に替わった。  彼はそれを駿とツルゲネに投げ渡した。 「火で、溶けないのか?」  それを受け取ったツルゲネは、彼に訊いた。すると彼はまたにやっとした。二人の困惑する顔が、よほど面白いらしい。 「実体はない。私と同じようにな。溶けると思えば溶けるかもしれん。だが、これで暖まると思えば、暖かくなる。お好きなように」     駿とツルゲネは顔を見合わせると、とりあえずそれを羽織ってみた。雪ではなく、確かにそれは毛皮であり、暖かかった。  有為だけは毛皮を羽織っていなかったが、仙人に出会えた興奮で、寒さをすっかり忘れ去っていた。彼は、頬を紅潮させながら尋ねた。 「先生、どうしてお姿を表されたのですか?」 「それは、そこの娘の持つ、赤い玉のせいさ」  安期生はツルゲネの方を指し示した。彼女は反射的に、ぎゅっと身を固くした。 「その玉は玗琪(うき)の玉という、ちょっと厄介な代物なのだ」  その由来は、太古、禹の時代に遡る。  太古、王朝が生まれる遙か昔、華夏の地は禅譲――徳のある者が徳のある者へと位を受け継ぐ方式で、五帝たちが代々治めていた。  当時、夏華の地には悪龍が蔓延(はびこ)り、帝たちはそれら悪龍たちと闘いを繰り広げていた。  五帝の最後の一人、帝舜から位を譲り受けた()――夏王朝の始祖は、また、龍との闘いも引き継いだ。そして彼は相柳(しょうりゅう)を討った。  相柳は九つの首を持つ人面龍神で、身は青く光る鱗で覆われていた。  九つの首は、九つの山を喰らい、相柳が通った後は、土が(えぐ)れ、沢や谷となった。  長い長い闘いの後、禹は、相柳を殺した。  地に流れ出た相柳の血は、異臭を放ち、植物は全て枯れ果てた。禹は、相柳の死骸を深い谷に埋めたが、土が何度も壊れ、その都度、死骸は地表に現れた。  そこで彼は、五帝に祈り、北の果てに壇を造った。そしてそこに、相柳の死骸を封じ込めた。  方形をした壇を守護するのは虎のような縞模様を持つ大蛇だった。その大蛇がいるため、誰も壇に近づくことができなかった。  長い時を経て、壇の中央には、生命樹が生えた。それは大きく枝葉を広げ、相柳が再び地上に出てくることを阻んでいた。  さらに長い年月が経ち、相柳の血を吸った樹は、やがて赤い玉の実をつけた。それは、相柳の血が固まった物でもあった。 「何時の頃からか、その樹は玗琪の樹と呼ばれるようになり、その実は玗琪の玉と呼ばれるようになった。  その玉は、もとは悪龍の血。それ故に恐ろしいまでの呪力を持つ。持つ者を、滅ぼしかねないほどの、恐ろしい力をな」 「この玉は、匈奴の聖地、蘢城にあったそうです」 「そこなのだ」  有為の言葉に、安期生は手を打って答えた。 「本来は、五帝の壇にあって、相柳を封印する物。しかし、それはある者によって持ち去られ、蘢城に置かれた」 「ある者……?」  駿も、有為と共に息を飲んでその話を聞いた。 「それは、匈奴建国の祖、冒頓(ぼくとつ)単于だ」  雨が降っていた。  どす黒い空に、時折、轟音と共に光りが走っていった。稲妻だ。  滝のような雨に打たれながら、彼はひたすら馬を進めていた。この雨が、体中についた血を、洗い流してくれる。  今、彼を突き動かしているのは、恨みだった。  彼がこうして、生き延びられたのも、その恨みのおかげだった。  彼は、父親に殺されかけたのだ。  単純に、目の前に刃を突きつけられ、死を宣告された方が、どれほど楽であったか。  回りくどい方法で、自分を遠ざけ、挙げ句の果て、父自らは手を汚さずに、彼を葬り去ろうとしたのだ。  誇り高い彼にとって、それは耐え難い屈辱であった。  彼――冒頓は匈奴族の首長、頭曼(とうまん)の息子であり、彼の跡を継ぐべく、部族から指名された者でもあった。  しかし、ある事をきっかけに、彼の境遇が変わった。  それは、頭曼の一番若い妻が男児を産んだことから始まった。  妻は、自分の子を、跡継ぎにするよう、頭曼に迫った。彼も、若い妻の言うことを聞き、生まれたばかりの幼子を後継にすることに決めた。  次期首長の座を奪われた冒頓は、間もなく月氏へ人質として送られた。  そして彼が月氏に着くと同時に、頭曼は月氏を討った。  当時の月氏は、匈奴よりも強大で、彼らの攻撃をいとも簡単に防いだが、事情を飲み込めない月氏の王は、怒りの矛先を冒頓に向けた。 「和睦を申し入れるために、太子であるお前をこちらに寄越したのではないか?それとも、和睦は表向きで、内と外から我々を討とうと企んだのか?この儂を、殺そうと企んでいたのか?」  冒頓は何も答えなかった。彼もまた怒りに打ち震えていた。  沈黙は肯定ととらえられ、彼は従者と共に処刑されることになった。  後ろ手に縛られ、処刑場へ連れて行かれようとしてもなお、彼は一言も発せず、申し開きも一切しなかった。  申し開きの代わりに、彼がしたこと、それは――  自分を取り押さえていた月氏兵の喉を噛み切ることであった。  その場は騒然となり、月氏王の顔色は変わった。駆けつけた兵士たちは、冒頓の動きを止めようと次々に襲いかかった。  彼らともみ合っているうちに、はずみで冒頓の縛めが解けた。すかさず彼は剣を奪い取ると、目の前の一人を斬り殺した。  奪った剣を振り回しながら退路を切り開くと、冒頓は駃騠(けつてい)(汗血馬)を奪い去り、ただ一騎で月氏から逃走した。  行き先など、考えていなかった。ただ、このまま死ぬわけにはいかない。その思いだけが、彼を突き動かしていた。 (あの女……!)  彼の脳裏には、父の、自分より若い妻の顔が焼き付いていた。  自分の求婚を断り、父に嫁いだ女。そのことについては、彼は深く考えなかった。匈奴の風習により、自分の生母以外の父の妻は、父の死後、息子が妻にすることになっていたからである。  時間はかかるが、やがて自分の物になる。その程度しか考えていなかった。  しかし、女は冒頓を恨んでいた。以前、彼に恋人を殺されたからである。彼女は、冒頓の父、頭曼に嫁ぎ、恋人を殺した仇を討とうとした。  そのことをすぐに気付いていれば、彼はこんな目に遭わずにすんだはずである。  また、若い妻の言いなりになった父にも、冒頓は深い怒りを感じていた。その怒りは恨みとなって、彼を前に進める力になっていた。  生臭い血の臭いが、体中に染みついていた。  月氏を抜け出すときに殺した敵の血と、自分の血の臭い。傷は浅くはなかった。だが、痛みは感じなかった。  そのうち、雲が湧き、雷鳴が轟くと、激しい雨が彼の体を打ち付けた。  体に付いた血は、この雨で洗い流された。しかし、染みついた血の臭いは、消えることがなかった。一生。  雨の中、彼は導かれるように、ある場所にたどり着いた。  それは、方形をした盛り土で、中心には大きな樹が枝葉を広げていた。  その樹には、血のような色をした赤い玉が、九つ、雨に濡れて光っていた。 (力が欲しいか?)  冒頓の頭の中に、声が響いた。その声は、大樹から聞こえてきたような気がした。 (その恨みを晴らす力、欲しくないか)  彼は、馬を下りると、その声がする方に、足を踏み出した。  縞模様のある大蛇が、シューッと言う声と共に、牙を剥きだしたが、彼は動じなかった。それどころか、彼が睨み付けると、蛇は視線を逸らし、そのまま姿を隠してしまった。 (さあ、この実を取るがいい。好きなのを一つ、取るがいい)  声は言った。  冒頓は導かれるままに、その実を一つ、もぎ取った。  雷鳴が再び轟いた。それは赤く光り、いくつもの柱を伴った、巨大な稲妻であった。  落雷のショックで、冒頓ははじき飛ばされ、そのまま気を失った。  気がつくと、方形の壇も、赤い実をつけた大樹も、跡形もなくなっていた。  目の前に広がる草原に、彼は見覚えがあった。  彼は、いつの間にか自分の領地に帰ってきていたのである。手には、あの赤い実が確かに握られていた。それは堅く、宝石のように滑らかで輝きを放っていた。  手にしたその実から、不思議な力が伝わってくるのを、彼は感じた。  それは殺したい衝動。憎い者の血を、この目で見たい衝動であった。  彼は、自分の集落に戻ると、己の家族を全て殺害した。  憎い父も、あの女ももちろんのこと、幼い弟妹も、自分の妻も、我が子も、全てを血祭りに上げた。  彼の内に湧く力は、それだけでは満足しなかった。彼は、首長に就任すると、兵を率いて周辺部族を討ち、次々と支配下に治めていった。  そして気付くと、冒頓は強大な帝国を築き上げていた。  彼は、遊牧民匈奴部族の一首長ではなく、騎馬民族国家匈奴の王――単于となったのである。  彼は、かつて自分を辱めた月氏も討ち、その雪辱を晴らした。そして同じ頃興った、劉邦の漢とも戦い、彼を平城(山西省大同の東)で破った。  この戦いで匈奴は漢から多大な歳弊を得ることができた。それから七十年が経ち、武帝が即位した今でも、匈奴の優位は揺るいでいない。  誰も、冒頓の敵にはなり得なかった。彼の胸元には、いつもあの赤い玉――玗琪の玉が揺れていた。  それは、多くの血が流れるほどに、美しく輝いた。  やがて冒頓の寿命が尽きると、その子が跡を継ぎ、老上単于となた。その玉も受け継がれたが、これを直接持つことは出来なかった。  多くの血を吸い、呪力を増したその玉は、持つ者すら滅ぼしかねる物だったからである。  玗琪の玉の赤は、血の色。  持ったら最後、抑えきれない衝動に駆られ、側にいた者を見境なく血祭りに上げ、最後に自分自身も血の海に沈まなければ収まらなかった。  老上以来、玗琪の玉は、祭壇に安置されることになった。匈奴の祭壇は、”(ろう)”と呼ばれ、土台の上に石や枝を積み重ねて造られていた。  祈るたびに、石や枝が追加され、年月と共に成長する祈りの場でもあった。  単于庭の側に造られたそれは、匈奴領内で最も大きく、最も荘厳に造られたために、蘢城と呼ばれた。  中心には、玗琪の玉が輝き、周囲には漢から歳弊として送られた絹布が飾られ、風になびいていた。  毎年正月には、匈奴の首長と隷属部族の王たちが集まり、その玉を祀った。 「――戦いにおいて、匈奴が向かうところ敵なしであったのも、全てはその玉の呪力の賜物であった。ただ、元は五帝の壇にあった物。もとあった所に戻すべきだという考えが、神仙界では主流であった。だが、匈奴の神と共に祀られている以上、手を出すわけにもいかなかった」  安期生は、三人の顔を、交互に見つめた。 「今、ここで、こうして(まみ)えているのは、全て、天の導きだ」  その言葉に、三人全員、息を飲んだ 「張騫の胡妻は、冒頓と同じように、その玉を持てる者だ。だからこそ、こうしてここまで来られた。そうでなければ、とっくに死んでいる」 「それは、どういう事だ?」  大方の予想はついたが、駿は聞かずにはいられなかった。それを察したのか、安期生も静かに頷いた。 「この女を、突き動かしているのは、”恨み”だ。そうであろう?」  ツルゲネの顔色がさあっと変わった。そして持っていた剣を抜き、三人に向けた。 「だったら、どうする?」 「どうもしない」  眉一つ動かさずに、安期生は答えた。 「だから、その物騒な物をしまいなさい。利害は一致してるんだ。もし、そなたが恨みをなくせば、玉の呪力は解き放たれ、ここにいる全員に危険が及ぶ。その呪力は、私でもそう、立ち向かえる物ではないのだよ」 「つまり、何が言いたいのだ?」  剣を向けたまま、彼女は尋ねた。 「行き先は同じ。ただ、お前がその恨みを果たすのが先か、呪力に飲み込まれるのが先か、問題はそこだけだ。そこで有為、お前を選んだのだ」 「――どういう事です?」  今度は有為の顔色が変わった。自分は、いい加減に選ばれたはずなのだ。 「お前さんには、仙骨があるのさ。だからこそ、私も以前から目をかけ、度々姿を現していたのだ」 「そんな……」  思いも寄らない言葉に、有為は何度も首を振った。 「信じられぬか?だが、お前さんはさっきから、そんな薄手でよく平気でいるではないか?連れの二人は寒さで震えているというのに……」  安期生に言われ、有為は慌てて自分の身を確かめた。言われてみれば、急に寒さが身にしみてきた。 「……忘れていました。先生にお会いできた興奮で、寒さのことなど、すっかり忘れておりました」 「そこだよ」  安期生は嬉しそうに言った。 「お前さんには仙骨がある証拠だ。心が、体に勝つのだよ。これで”枯れ”さえすれば、お前は”仙”になれるというものだ」 「私は、仙人になろうなどと、思ってみたこともございません。ただ、先生のお持ちになる薬の調合を学びたいとは思っておりました。もし、許されるのであれば、お教えいただけないでしょうか?」  安期生は、静かに頷いた。 「その欲のなさ、まさに仙の資質だな。だが、その前に、お前にはやってもらえなければならぬ事がある。そのためにわざわざこの旅に呼び出したのだ」 「呼び出した?」 「ああ、東方朔に一肌脱いでもらってな」 「東方先生!?あの人は、いい加減なことしか言わない人じゃ……」  何度も彼にからかわれている駿は、思わず声を上げた。 「凄い言われようだな……まあ、仕方ないか」  安期生は苦笑しながら答えた。 「彼は歳星(木星)の化身なのだ。人を惑わすように動くが、実際は天の理にかなっている。それが歳星の動き。掴み所がないのは仕方があるまい」 「掴み所がないのは、安期先生の方じゃないか」  駿はぼそっと呟いた。
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