第4章 氷河

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第4章 氷河

「この氷河の先に、目指す男がいる」  眼下に広がる谷を指さして、安期生は言った。 「氷河?一面に氷が張っているようにしか見えないけれど……」  駿は、谷を覗き込みながら言った。 「そう、氷だ。この氷は、ゆっくりと麓に向かって移動しているのだ。それ故に、氷の河、氷河というのだ」  谷から冷たい風が吹き上がり、駿は思わず身を竦めた。安期生は構わず言葉を続けた。 「この氷は、やがて溶けて水に変わる。その水の流れは、礫沙を横切り、草原に出、沼沢となる。その地に張騫はいる」  身を切る寒風にさらされながら、駿は氷河の先を見つめていた。遠くには、礫沙漠が霞んで見えた。さらにその向こう、そこに、彼がいる。 「ここから、そこまではどれくらいかかるんです?」  駿の問いかけに、安期生は頷きながら答えた。 「馬にやった仙丹の効き目は五日。雪山に慣れぬとはいえそれぐらいあれば充分下山できる。後は、川の流れに沿って、まっすぐ行けば一月もかからぬ」  それから、安期生は駿の肩を軽く叩いて言った。 「問題は、別にある。お前、女を知ってるな?」 「は?何を言うんですか!?」  駿は顔がかあっと赤くなるのを感じた。確かに、長安を出て以来、女性の柔肌には触れてはいない。 「まだ、妻は娶っていないようだな。と言うことは、秦氏の女(遊女)専門か」 (解ってるなら、訊くな)  心の中にもやっとしたものが湧き上がるのを押さえながら、駿は安期生を睨み付けた。 「年相応で結構なことだ。男女の交わりは陰陽和合、この世を形作るためには必要不可欠な行いだ。ただ、時と場合を弁(わきま)えなければならぬ」 「また変なことを……。確かに、やりてえ時はあるけど、むやみやたらに手を出すことはしません!そんなの、鬼畜のやることだ」   「私は騫の胡妻とのことを、心配しているのだ」 「先生は、俺が、兄貴の嫁さんと間違いを犯すとでも思ってるんですか?」 「お前さん自身には、問題はない。大丈夫だ。だが、胡妻は違う。気をつけろ」 「解ってます。俺は親分にも、兄貴にも顔向けできないようなことはしません、絶体に」 「その心意気なら、特に秘訣を授けなくても、大丈夫なようだな」  安期生の言葉に頷きながら、駿は、ツルゲネの方を見た。  彼女は、有為と共に火を囲んで食事を取っていた。たしかに彼女が気になってはいた。だが、それは好意と言うより、懸念だった。 「お前たちが、この雪山を降ってるあいだ、私は有為を借りる。二人きりだ。がんばれよ」 「借りる?」 「詳しいことは、彼から聞いてくれ。まずは、彼に話をする」  そう言うと、安期生は有為を呼んだ。そして駿には変わって食事を取るように指示した。  安期生に呼ばれ、有為はちょこちょことこちらに走ってきた。 「先生、お呼びですか?」  頬を紅潮させながら有為は言った。とにかく、憧れの彼と話ができるのが嬉しくて仕方ないのだ。 「これから数日、お前は駿と離れ、私と行動を共にして貰う」  その言葉に、有為は驚きの声を上げた。 「私が……そんな」 「いや、そのためにお前を呼んだのだから――お前は、私に仙丹の作り方を教わりたいと言ったな」 「はい……身の程知らずとは思いますが」  その言葉に、安期生は首を振った。 「いや、資質はある。だが、そのためには、まず、やって貰い事がある。それを成し遂げれば、お前に仙丹の作り方を教えよう」 「本当ですか!?」 「ああ、だが、私の言うことを聞けるか?」 「はい!聞きます」  有為は、心臓の鼓動の高鳴りを感じていた。そんな彼を見ながら、安期生はニヤリと笑った。 「では、お前に、追っ手の胡巫との戦いを命じる」 「は?」  一瞬、聞き間違いではないかと有為は思った。駿ならともかく、自分は戦士ではない。徭役で徴収されたって、そのまま騎士に登用されるような優秀な玉ではない。せいぜい戍卒(みはりへい)が関の山だ。  戦うなんて、そんなこと、自分にはできるはずがない。 「そんな顔をするな」  彼の心の内を察した安期生は、彼の肩を軽く叩いた。 「今は私の術で、彼らとは遠く離れた場所にいるが、玗琪の玉がある限り、連中にはこちらの居場所が手に取るように解る。彼ら匈奴の速さは、お前だって話には聞いているだろう?追いつかれるのも時間の問題だ。  兵士たちであれば、駿が相手になる。だが、胡巫は精霊を使役する事ができる。これでは、駿は手の出しようがない」 「先程のように、先生が手を貸してくださるのではないのですか?」  駿の問いに、安期生は首を振った。 「私は、この世の者ではない。仙となった身で、彼らの相手をすることはできぬのだ。仙界には、仙界の掟がある。だから、お前を呼んだのだ。お前はまだ仙ではない。だが、自身の持つ仙の資質で、彼らに対抗できる者なのだ」 「……そんなたいそうなこと、私にはできません」 「情けないことを言うな。そのために、これから数日間、修練するのだよ」  冷え切った体に、温かい食事は有り難かった。駿は、口に運ぶたび、体の中がホッとしたものに包まれるのを感じた。  どこで、どう調達したのかは知られないが、安期生が用意した食事は、どれも初めて食べるものばかりであったが、皆、口に合い、腹も満足するものであった。  ツルゲネは、もう食べ終わって、身なりを整えていた。こういうところは、やはり年相応の娘らしい。 「小姐(ねえ)さん」  声をかけられて、彼女は顔を上げてこちらの方を見た。 「――何か、用か?」  駿も、彼女の顔をじっと見つた。彼女の瞳の中に、焚き火の炎が映って、揺らめいていた。 「お前、兄貴に会ったら、どうするつもりだ」 「どうするって?」 「とぼけるなよ。――お前、兄貴を殺す気なんじゃないか?」  二人のあいだの空気が、一瞬凍り付いたように感じた。 「お前の持つ、玗琪の玉は、深い恨みがないと持つことができないという。会うだけで済むほどの恨みじゃない。殺さないと収まらない、そうじゃないか?」  ツルゲネの顔に、嘲笑が浮かんだ。 「解ってるようだな。……私は、お前たち漢人が憎い。私がこのような目にあったのも、全てお前たち漢人のせい。漢人の夫にならなければ、私はこんな目に遭わずにすんだ」  彼女は、玉の入った袋をぐと握りしめながら言った。 「私の本心を知った以上、どうする?殺すか?どうせ生きていても仕方ないのだ、どうぞ、殺すがいい」 「……馬鹿なこと言うな」  駿は首を振った。 「俺は女子供には、手を出さない。お前は殺さない」  ツルゲネは、駿から目を逸らさず、じっと彼のことを見つめていた。その、刺すような視線に耐えきれず、駿は思わず下を向いた。それでも言わなければならない。彼は、言葉を続けた。 「お前は、兄貴に会って、子供の無念を伝えるんだろう?兄貴だって、きっと、知りたいはずだ。今だって、きっとまだ見ぬ子の成長を、その死を知らぬまま、楽しみにしてるはずだ。兄貴は、そう言う人だから。だから、一緒に行こう。兄貴を捜しに」 「だが、会ったら私は騫を殺すぞ」 「それはさせない。絶体に。俺は命に替えても、兄貴を守る」  駿は顔を上げて、彼女の顔を見た。彼女の瞳は、涙で潤んでいた。彼女はふいっと横を向くと、そのまま立ち上がって向こうへ行ってしまった。  入れ違いに、有為が戻ってきた。 「どうしたのです?」  ぶすっとした駿の顔を見て、有為が訊いた。 「どうもしねえよ。あの女としばらく二人きりだと思うと、頭が痛いだけだ」 「先生からお聞きになってるのですか?」 「少しだけな」  安期生は有為に語った。  もし、あの玗琪の玉が胡巫の手に渡ってしまったら、それは匈奴の神の許に戻ってしまう。そうなったら、安期生たち仙界のものには手出しができなくなる。  地上には地上の秩序があるように、神仙界には神仙界の掟があるのだ。  直接、戦うわけにもいかない彼らにとって、全てを有為に託すしかない。 「胡妻が恨みから解き放たれたら、あの玉の呪力もまた解き放たれる。その時は、私たち仙界の者が何とかしよう。有為、お前は胡巫から、何としてもあの玉を守り抜け。そのための秘術を、これから授ける」 「間に合うのですか?秘術を身につける前に、彼らが追いついてしまったら」 「その心配はいらない。間に合うように、ちゃんと考えている。最も、お前の努力も大きく関わっているが」  有為は心中複雑なものがあった。安期生の薬の調合法を知ることは、かねてからの願いであった。だが、それを教えて貰うための条件が、あまりにも重すぎた。 「私に、できるのですか」 「できるから、選んだのだ。そんなに私が信じられぬのか?」 「いえ、そういうわけでは……」  任せるしかない、託すしかない。自分が任されるように、託されるようになるためには。 「お前、本当に大丈夫なのか?」  沈んだ表情の有為を見て、心配そうに駿が言った。 「何を言うんですか!」  有為は苦笑しながら、精一杯の虚勢を張った。 「そちらこそ、ご婦人と二人きりなんです。間違いなど起こさぬように、お気をつけ下さいね」 「お前まで、俺を盛りのついた馬みたいに言うな!」  駿は、有為の頭を軽く小突いた。小突かれたら、不思議と気分が楽になるのを、有為は感じた。  二人は連れだって、ツルゲネの所へ歩いて行った。出発の時、別離の時が近づいていたのだ。 「小姐(ねえ)さん」  谷底の氷河を眺めていた彼女は、声を掛けられると、振り返ってこちらを睨み付けた。 「何か用か?」 「ああ、もうそろそろ出発だ。支度をしてくれ」 「そうか」  そういうと、彼女はすたすたと馬の方に向かって歩き出した。 「それから――」  去ろうとする彼女を、二人は慌てて止めた。 「有為は、しばらく安期先生の所にいることになる。だから、この雪山を下りるのは、俺とお前の二人きりだ」  彼女は足を止めて、二人の顔を交互に見た。 「有為とは、もうこれで別れか?」 「いや、下山した頃に、また合流する」 「そうか、それまでは、駿と二人きりか。我が夫を私から、命がけで守る、駿と」  嘲笑と共にそう言うと、彼女は自分の馬の方に歩いていった。 「――むかつく女だ!」  彼女の背中に向かって、駿は毒づいた。 「おい、人のこと、駿って呼び捨てだぜ。自分のこと、何様だと思ってるんだ」  駿は有為に詰め寄ると、そう訴えた。  漢人は風習で、成人は名前を二つ持っている。一つは(いみな)といい、これは両親や君主、上司、師匠など、目上の人間にしか呼ぶことが許されない名だ。それ以外の者は、通常、(あざな)という、もう一つの名で呼ばなければならない。 「あんな女に、なんで諱で呼ばれなきゃならないんだよ。あいつ年下だぞ、本当にむかつく」 「年下かどうか、解らないじゃないですか。だって、独生どのはご自分の正確な年齢(とし)、ご存じないんでしょ?」 「軍籍では、俺、二十二だ」 「そのことは、軍に入るために、サバ読んだって、自分で言ったではないですか!私と同い年の可能性だってあるんでしょう?そうしたら、彼女の方が上。おまけにあなたが「兄貴」と慕う方の細君(おくさま)ではないですか?別にどう呼ばれようが、従うべきです」  駿の正確な年齢が解らないのは、拾ったとき、彼が幾つぐらいだったか、衛青がよく覚えていないからだ。大体、青自身だって、平陽侯邸で兄姉と再会するまで、自分の年齢をちゃんと知らなかったぐらいだ。  だから、彼の年齢は十五から十八の間らしいのだが、正確な生年が解らないことを逆手にとって、軍籍上では二十二になっている。  漢の法政では、十五歳以上が壮年で、一人前に扱われる。  駿のような庶民が正式に軍に入るには、徴収されてから一年以上が必要で、なおかつ上官の選抜、推薦が必要になる。  少なくとも十六歳以上でないと騎士になれないわけである。  彼は、六年前、青が国境の調査に赴くときの手勢に加えて貰うため、四つ以上サバを読んで、無理矢理軍籍に入り、衛青麾下の騎士になったのである。 「ったく、解ったよ!」  やり場のない怒りを、足元の岩にぶつけながら、駿は怒鳴った。 「どうしてそんなに、怒ってるのです?本当に、これから二人きりで大丈夫ですか?」 「大丈夫も何も……」  駿は、息を切らしながら言った。 「だから、今のうちに、怒るだけ怒ってくのさ。有為!付き合え!」 「は?」  胸ぐらを捕まれた有為は、思わずのけ反った。そこへ、天の助けとばかりに安期生の手が入った。  安期生は駿の口に、ぽん、と丸薬を投げ込んだ。  強烈な香味が口の中に広がり、彼は思いきり咽せ込んだ。 「先生……なんなんです、これ?」  有為は、咽せ込んで踞っている駿の背を叩きながら、安期生に尋ねた。 「ああ、気を整える薬だ」 「え?」 「そんなに怒っても、仕方ないだろう?駿」  駿は息を落ち着けると、顔を上げて、安期生を見た。 「彼女は、胡人。胡には、胡の考え方、風習がある。細かいことにいちいち怒り、気を乱すようでは、この先保たぬぞ」  駿も、その通りだと思った。薬のおかげか、確かに気も落ち着いてきたようだった。 「先生、ありがとうございます」  彼は立ち上がってそういうと、安期生に礼を言った。 「何々、――では有為、行くぞ。駿、彼の荷物と馬は頼んだ」 「持っていかないのか?」  駿の問いかけに、有為は頷いて答えた。 「これから私たちが赴くところには、必要ないそうです」  二人は駿に別れを告げると、そのまま虚空に姿を消した。  安期生が現れて以来、常識では考えられぬ光景が何度も現れたが、何度見ても、駿はそれに慣れなかった。  彼は首を動かしたり、目を擦ったりしながら、大きく息をついた。  安期生の言うことは、尤もだと思う。だが、それだけでは、どうにも気が晴れなかった。  彼女は、張騫を殺すという。恨みのために。  それは絶体に許し難いことだ。  だが、事あるごとに、あの玗琪の玉の入った錦の袋を、ぎゅっと、胸に抱く彼女を見ると、また、別の想いに駆られるのだった。  彼女が、そこまで深い恨みを抱くに至った過程を、自分は知らない。  知っている部分は、自分たち漢人が深く関わっている。それどころか、彼女の子が生け贄にされる原因を造ったのは、他でもない、自分たちの軍だった。  自分は、どうしたらいいのだろう?  それは答えのでない難問だと、彼は思った。  そんな問題に遭遇したとき、衛青はどうするだろう?そう考えても答えは出なかった。  青は、そんな問題に出会ったとしても、おくびにも出さずに平然としていた。そしていつの間にか、解決していた。 (……しか、ないか)  駿も、彼に倣って、平然としているしかないと、決めた。  雪山の下山は、思った以上に難航した。駿も、ツルゲネも、雪山の経験がなかったため、何かと手間取ってしまったからだ。 (本当に、五日で降りられるのか?)  遅々として進まない歩みに、駿は焦りを感じ始めていた。  雪山向きの装備もない中、こうして進めるのも、安期生の術が効いているからだ。ただ、それは五日間しか保たない。  一日、一日と、過ぎていけばいくほど、駿の焦りも募っていった。  ツルゲネとの会話も、ほとんど無かった。二人は必要最低限しか言葉を交わさなかった。  ほとんど会話がないのは、有為と長安を出た頃と似ていたが、有為と違って、彼女との間には、得も言われぬ緊張感が漂っていた。 「――道を、誤ったようだな」  行く先は断崖。道らしい道は、二人の足元で途絶えていた。 「いや」  ツルゲネは先を示しながら行った。 「この部分を越えれば、歩きやすい部分が見える。足場になりそうな部分もあるから、このまま進もう」 「馬はどうする?」 「私の馬は、呼べばちゃんと来る。それに馬だけの方が、この崖を上手く越えられる」 (さすが、匈奴の娘だ)  駿は、彼女の度胸の良さに感心した。もっとも、だからこそ、彼女は一人で張騫の元に進もうとしたのだ。  駿が先に行き、足場を確かめてから、彼女を呼んだ。彼女は、駿が歩いた部分に従って、注意深く進んだ。  今日は、少し気温が高かった。  昼近くになって、どんどん気温が上がってくると、氷が溶け出し、ぬかるんで滑りやすくなってきた。 「小姐(ねえ)さん、気をつけて……」  駿は、足元が落ち着ける場所を見つけると、そこからツルゲネに手を伸ばした。進むのに苦労していた彼女は、迷わず彼に手を伸ばした。  彼女を引き上げると、そこで二人とも、ほぼ同時に大きく息をついた。 「ここで少し休むか?」 「その必要はない。もし、疲れたのなら勝手に休め。私は先に行く」  彼女は、駿の手をふりほどくと、勝手に先に進み始めた。 「勝手に行くな!危ないぞ」  そう叫んだが、間に合わなかった。彼女は足を踏み外すと、そのままふわりと宙を飛んだ。 「おい……!」  駿も、彼女に向かって飛び出した。  何とか彼女の袖を掴むと、そのまま力任せに自分の方に引き寄せた。しかし、それで駿も大きくバランスを崩した。  彼は、とにかく彼女に怪我をさせまいと、彼女の体をぎゅっと抱きしめた。そしてそのまま体を丸めて崖を滑り落ちた。  何度も崖に体を打ち付け、大きく跳ね飛ばされながらも、何とか死なずに済んだらしい。  体が確かに地面にあるのを確かめると、駿は大きく息をついた。 「大丈夫か?怪我はないか?」  駿は、自分の胸に顔を埋めているツルゲネに、声を掛けた。  ツルゲネは顔を上げ、ぼうっとした顔で彼の顔を見つめた。 「怖い思い、させちまって悪かったな。怪我はしていないか?」 「……そういう、お前こそ、大丈夫か?」  か細い声で呟くように彼女は訊いた。  駿は、したたか打った場所を確かめると、笑った。思ったより怪我をしていないのでホッとしたのだった。  きっと、安期生の術のおかげだろう。そうでないと、説明がつかないくらい、軽傷だった。 「大丈夫だよ」 「お前が大丈夫なら、私は大丈夫だ」  そういうと、彼女は立ち上がった。 「……お前が守ってたんだから」  彼女は匈奴の言葉でぽそっと呟いた。駿は、気付かなかったようだ。  彼も立ち上がると、自分たちの場所を確かめた。 「結構落ちたな。谷底の氷河の方が近いや」 「では、昇るより、下りて先に進もう」 「そうだな」  二人は、今度は崖を慎重に下り始めた。 「今度は落ちるなよ」  さりげなく彼女をかばいながら、駿は言った。ツルゲネは何も答えなかったが、今度は素直に彼に従っていた。よっぽどさっきのことが懲りたのだろう。  氷の河は、思っていたよりも静かであった。流れているというが、そんな風には微塵も感じられなかった。崖の細道を進むよりも、ずっと歩きやすかった。  それが、油断を生んだ。  今日は、この季節にしては、やけに気温が高かったのだ。  駿の足元が、急に、音を立ててひび割れた。 「駿!?」 「近づくな!」  駿自身、足が竦んでいた。ヘタに動けば、足元の氷が崩れる。 「巻き込まれる前に、お前はここから離れるんだ。馬と、安全な場所へ逃げろ」  大声を出すことすら恐ろしかった。ゆっくりと、とにかくこれ以上亀裂を広げないよう、静かにここから逃れなくては……彼の額の汗を拭うと、気を落ち着かせようと必死になった。 「馬を呼んでくる。それで、お前をこっちまで引っ張る」  ツルゲネはそういうと、急いで川岸に向かおうとした。 「おい、慌てるな!」  駿の警告は遅かった。その時、慌てたあまり、ツルゲネは足を取られて転んでしまったのだ。同時に、駿の足元の亀裂が、彼女の方まで広がってしまった。 「――!」  駿は、這いずりながらも彼女の方へ向かった。子供ばかりでなく、彼女まで死なせてしまったとあれば、張騫にも衛青にも会わせる顔がない。 「今、そっちに行くから、待ってろ!」  駿は右手を伸ばしながら、彼女に声を掛けた。彼女の顔からは血の気が失せ、唇まで青くなっていた。  氷河は、動いている。  それが、表面に発生したひび割れに微妙な影響を与えた。  あと少しで、彼女に手が届くと思った、その時――  氷が音を立てて弾け、目の前に飛び散った。 (これまでか――!?)  駿は思わず目を閉じ、死を覚悟した。  あの世からのお迎えだろうか、不思議な音が、耳に入ってきた。  それは、だんだんと近づいているように感じた。  不審に思った駿は、ゆっくりと瞳を開けた。  と、奇妙なものが、谷を飛び越えてこちらに近づいてくるのが目に入った。  それは、ケーンケーンと甲高い声で数回嘶くと、一目散にこちらに向かってきた。  ぱっと見ると、犬か狐に似ていた。しかし、光を反射し虹色に輝く毛並みは、犬でも狐でもなかった。  尾は、くるっとした巻尾だったが、十本は付いていた。そして、その一つ一つ、尾が丸まった部分に、それぞれ目が付いていた。  顔には、鼻と耳しか無く、その耳もよく見たら網のように透いて見えた。  その獣が、二人の頭上を大きく飛び越えたから解ったのだが、口は、その腹の部分に付いていた。割れ目のような、ぱっくりとした口で、舌はあったが、歯は見えなかった。  その口の両端から、先がギザギザになった、不思議な触手が二本、伸びていた。  その触手で、駿とツルゲネを捕まえると、そのまま二人をひょいと背に乗せた。  背中だけでも、二畳はありそうな巨大な獣であった。  獣は、またケーンと嘶いた。驚いたことに、その声は巻尾の方から聞こえてきた。  それから大きく飛び上がると、谷の上の方へと昇っていった。  そして、安全な場所に二人を下ろすと、獣は姿を消した。少しした後、崖の途中に残していた馬たちを連れて、また現れた。  獣は馬たちを二人の前に下ろし、ケーンと嘶くと、反対側の谷の方へ姿を消した。今の声は、別れの挨拶だったらしい。  二人は、何が起こったのか理解できず、言葉も交わせぬまま、呆然と座り込んでいた。  しばらくして、我に返った駿は、氷河で濡れてしまった服を乾かそうと、僅かばかりの火を熾した。 「燃やすものが、そんなに無いから、火勢は弱いが、とにかく暖まろう」  彼女の方を見て、駿は驚いて息を飲んだ。  彼女は、着ていた服をするすると脱ぎ始めていたのだ。白く、滑らかな肌が覗いた瞬間、駿はこれ以上は見てはいけないと目を背けた。 「濡れたもんは、脱いで乾かしたほうがいいもんな――俺さえ見なきゃ、いいんだから、ちょっとその辺ぶらついてくるよ。服が乾いたら、呼んでくれ」  そう言い捨て、彼は山の上の方へ昇っていった。  上に付くと、駿は何度も深呼吸をした。心臓がどうにかなったのかと思うくらい、早く激しく打っていた。 「胡人は胡人。胡の考え方、風習があるんだ。何かあったら、俺は兄貴と親分に死んで詫びを入れなきゃならない」  その言葉を、彼は何度も呪文のように呟いた。  結局、その日はそれ以上進むことができなかった。  獣が二人を助け出した場所で、そのまま彼らは睡眠を取った。  旅に出て以来、いつも気を張っていたせいか、そんなに深く寝付くことは稀だったのだが、珍しくこの夜は深い眠りについた。  気がつくと、その眠りが何かに邪魔をされていた。  少し冷たい指先が、彼の体をまさぐっていた。しばらくは、その心地よさに、彼はなされるがままになっていた。  その指先が股間に触れた途端、駿は我に返った。 「――お前、何をやってるんだ!?」  駿は飛び起きると、慌てて彼女から離れた。  ツルゲネは四つん這いになりながら、彼を見上げた。はだけた襟元から、月明かりに照らされた彼女の白い乳房の一部が、ちらりと垣間見えた。 「昼間の礼だ」 「――は?」  彼女の返事に、彼は一瞬耳を疑った。 「昼間、命を助けてくれた礼だ。抱きたいんだろう?」 「どういう意味だよ?」 「意味も何も、男とは、そういうものであろう」  その言葉に、駿は怒りを感じた。ついさっきまで、湧き上がる情欲を押さえるのに必死だったが、今の一言でその情欲もどこかへ吹き飛んでしまった。 「俺は、お前を抱きたいから命を助けたと思っているのか?」 「違うのか」 「馬鹿にするな!」  駿は思わず立ち上がって怒鳴った。 「お前ら匈奴のような、鬼畜と一緒にするな!俺は、張の兄貴のために助けたんだ。お前を無事に兄貴に会わせるために、やってるだけだ」  ツルゲネは、駿の顔をじっと見つめた。それから目を伏せると、乱れた服を整え、そのまま背を向けて横になってしまった。  駿はへなへなと座り込むと、天を仰いで大きく溜め息をついた。この夜は、その後一睡もしないまま、夜明けを迎えた。  次の朝、目の前に昨日の獣が現れた。獣は自分の尾を一本引き抜くと、そのまま姿を消した。  目の付いた尾は、彼らを見てぺこりとお辞儀をすると、四肢を生やして彼らを先導するように歩き始めた。  その後に従っていったおかげで、その後彼らは、難なく雪山を進むことができるようになった。     
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