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第6章 居延沢
「有為!小姐さん!」
駿は二人に向かって必死に叫んだ。
しかし、警告したって、二人出来ることなどない。
駿は、かろうじて二人の前に飛び出すと、自ら敵の放った矢の的となった。
話は、小一時間ほど遡る。
数日前、礫沙漠を抜け、一行は居延沢に無事辿り着いた。
ここは、休屠王の領地で、目指す張騫はこの王の管理下だった。
この広大な湖のどこかに、張騫がいるはずだ。
下手に動いて、休屠王に勘づかれることを恐れた彼らは、匈奴人の堂邑父に、張騫の居場所を捜すことを任せた。
氷河の果てが湖とが合流するこの場所で、駿たち四人は堂邑父の帰りを待つことにした。
待つのは十日。
十日経って堂邑父が戻ってこなかったら、彼のことは諦め、四人で居延沢を回る。とにかく、生き残った者が張騫を救出する。
そう言うことになった。
彼らは堂邑父を見送ると、この湖の畔で、しばしの骨休めをして英気を養うことにした。
しかしここは敵地。
そこで誰かが必ず、見晴らしの良い岩山の上で見張りに立つことにもなった。
駿とグンシュビが、狩りをして戻るときのことだ。彼らの許に、ツルゲネが血相を変えて馬を走らせてきた。
「どうした?」
彼女の様子に、二人は何事かが起こったと悟った。二人は彼女の案内で、急いで見張り場に向かった。
有為のいる見張り場に着くと、ツルゲネは地平線の方を指し示していった。
「見たところ全部で二十騎。しかし、休屠王の 配下ではない。あの文様は、丘林――カンの部族の者だ」
匈奴は服などの文様で、自らの出自を表す。
グンシュビのような異民族は明らかに違うから、駿でもその違いが解るが、同じ匈奴族になると、その微妙な差異に気付くことは難しい。
しかし、匈奴族にとっては当たり前のように出来る見分けだった。
それよりも、駿の目にはまだぼんやりと、影のようにしか見えない騎兵たちを、ツルゲネやグンシュビはその服の文様までしっかりと見て取っていた。
この驚異の視力は、草原で生まれ育った者ゆえに持つものであった。
(こんな連中が相手だから、漢軍もなかなか勝てないわけだ)
「グンシュビ、お前、カンの部族と何かあったのか?」
ツルゲネの問いかけに、グンシュビは困ったように首を竦めた。
そして、身を屈めてツルゲネの耳元で、小声で話しかけた。すると、見る間に彼女の顔色が変わった。
彼女は首を振ると、駿と有為に向かって叫んだ。
「あの連中は、グンシュビを狙っている。私たちには関係ない」
「関係ないって、どういう事だ?」
駿の問いに、彼女は嫌そうに顔を顰めた。
「とにかく!こんな男、構うことはない」
「何があったんだか、ちゃんと説明しろよ!」
しつこく問いただす駿を、ツルゲネはキッと睨み付けた。
「口にするのも忌々しい。カンが戻ってきたら、何があったんだか訊くんだな」
「何だよ、その言い方は!」
駿はグンシュビに直接訊こうとしたが、彼も困ったように両手を挙げた。
烏孫は、長らく匈奴の庇護下にあったため、言語は匈奴とそう差異はない。
駿は、幼い頃、堂邑父から手ほどきを受け、衛青と共に国境を探っていた頃にも、必要があって匈奴の言葉を習い覚えた。だが、所詮、片手間に習ったもので、込み入った話を理解するほどの能力はなかった。
漢と結びつきたいグンシュビも、ここ数日、長安生まれで言葉が綺麗な有為から、漢語を習ってはいたが、意思疎通をするまでには至っていなかった。
「とにかく、この男の首を差し出せば、私たちには害は及ばない。さっさとあいつらにこいつを引き渡して、騫を探しに行こう」
ツルゲネは、馬を引いて来ると、そう言った。
「そんなこと、出来るわけないだろう!」
駿は思わず怒鳴った。
「利益ばかり考える匈奴と違って、俺たち漢人は、仁義・忠孝を重んじるんだ。ここで、彼を見捨てるわけにはいかない」
駿の言葉を、ツルゲネは冷ややかな笑みを浮かべながら聞いた。
「騫と同じことを言うな、お前」
「――俺と岑陬で、連中を何とかするから、お前は有為を連れてここから逃げろ」
駿は、気を取り直して、ツルゲネに言った。
「有為を?」
「あいつだけじゃ、馬に乗るのもやっとだ。お前の馬に乗せても良い、とにかく安全なところまで逃げてくれ。頼むぞ」
「……変な話じゃないですか!」
横から有為が口を挟んだ。
「男である私を、女である胡妻どのに頼むだなんて、面目が立ちません」
「面目より実を取れ」
駿は有為をツルゲネの方に押し出した。彼女は、嘲笑を浮かべながら、馬に乗った。
「有為!後ろに乗れ!」
「それは……嫌です」
「有為!」
この期に及んで駄々をこねる彼の頭を、思わず駿は小突いた。
「どうでも良い、行くぞ!」
ツルゲネの言葉に、有為は慌てて自分の馬に跨った。そして、二人は急いで岩山を下りていった。
「駿」
グンシュビの声に、駿は彼の方に向き直った。グンシュビは追っ手の方を指し示していった。
「一、|十(オン)」
一人で十人やろうとう意味で、グンシュビが言った。その言葉に、駿も頷いた。
この程度の言葉で、充分通じる。
騎馬民は狩りを通して軍事訓練をするという。二人も、この数日の狩りを通して、戦いの際の、独特の呼吸が合ってきていた。
二人は馬に乗り、敵に向かって飛び出していった。
グンシュビは、敵の前に駆け出すと、馬上から弓を構えた。
彼に気付いた敵兵が、弓を構えるより早く、彼は次々と矢を放った。
それは、とても移動しながらとは思えないほど、正確に相手に突き刺さった。
堂邑父には劣るが、グンシュビもまた、かなりの腕前であったのだ。
敵兵がグンシュビに気を取られている隙に、駿は彼らの背後に回った。
弓の腕は劣るが、自らの身のこなしを生かした速攻は、駿の方が上である。それを見越して、グンシュビは自分の馬を駿に貸していた。後に武帝より西極馬と名付けられるほど、烏孫の馬は足も速く、大変な良馬であった。
駿は、相手が体制を整える間を与えることなく、次々に斬りつけていった。
半数にまで減った敵は、勝ち目なしと判断し、急に四方に散った。
そうなると多勢の有利。二騎では全てを追いようがない。
駿はグンシュビの側に馬を寄せると、彼に声を掛けた。
「どうする?」
「敵が散るなら、こちらは固まった方が良い」
グンシュビの言葉に、駿はハッとした。あの二人は狙いやすい。見つかったら、格好の餌食になるのではないか?
「岑陬」
「ああ、急ごう」
ツルゲネたちは、沙漠の方に進路を取っていた。
湖の方に行けば、休屠王の手の者に会う可能性がある。最悪、丘林の兵との挟み撃ちだ。
今まで通ってきた沙漠の方には、ほとんど人影がなかった上、季節で大きく水量の変わる河のおかげで、地形は浸食により複雑な形をなしていた。
身を隠せそうな場所は、いくらでもあった。
ツルゲネは緩やかな崖を一気に駆け下りると、ちょうど良さそうな場所を探して周囲を見渡した。
身を隠す場所を探すことばかり考えていたせいで、有為のことなど全く気に止めていなかった。
「うわあ!」
彼の悲鳴を聞いて初めて、自分が彼を忘れていたことに気付いた。
「有為?」
ツルゲネは声の方を振り向くと、崖を転げ落ちる彼の姿が目に入った。
彼女にとって、簡単に駆け下りることの出来る崖でも、有為には無理があった。
有為は、かなり躊躇ったが、置いていかれる不安に負け、目を瞑って崖を下りようとした。
が、案の定、彼はすぐに馬から振り落とされ、崖をころころと転がり落ちた。
馬の方は、邪魔な有為をさっさと振り落とすと、悠々と崖を駆け下りた。ツルゲネは、そのままどこかへ行ってしまいそうな勢いの馬を、手を伸ばして捕まえた。
それから、崖下に転がっている有為の許に急いで向かった。駿に頼まれている以上、彼を放っておく訳にはいかない。
「大丈夫か?」
「……」
ツルゲネは馬を下りると、痛みに呻いている有為の様子を見た。
その時、崖下の彼らに気付いた者たちがいた。
駿たちに攻められ、四方に散った丘林の残党だ。
三騎の丘林兵は、二人がグンシュビと共にいた者であることを皆、しっかりと見て覚えていた。そして、彼らを捕らえて人質としようと目論んだ。彼らは弓矢を取り出すと、二人に照準を合わせた。
さらに遠くの方で、その様子に気付いた者たちがいた。駿とグンシュビだ。
「先に行く!」
駿は、馬に思いっきり鞭を当てながら叫んだ。
「援護する!」
自分が貸した駿馬に着いていくのは難しいことを知っていたグンシュビは、弓を構えながら叫んだ。そして、丘林兵に向かって矢を射った。
自分たちの射程より遙か遠くにいるグンシュビから矢が届き、丘林兵は色めき立った。そして、つがえていた矢をグンシュビに向かって放ったが、遠すぎて彼の方まで届かなかった。
「このままでは不利だ。下の奴らを早く捕らえよう」
二人がグンシュビからの矢を防いでいる間に、残り一人がツルゲネたちに向かって、矢を放った。
「有為!小姐さん!」
駿は、大声を出しながら崖を駆け下りたが、既に矢が放たれてしまった。
彼は、馬から飛び降りると、矢と、二人の間を遮るように立った。
鈍い衝撃を肩に感じ、駿は呻き声を上げた。
続いて、二本、三本と彼の背に矢が命中した。
「……逃げろ」
やはり、毒矢だったようだ。気が遠くなるのを必至に堪えながら、駿は二人に向かって声を出した。
「駿!」
ツルゲネは彼に駆け寄ると、倒れそうになる彼に向かって手を差し伸べた。
「構うな!逃げろ」
駿は、ふらつきながらも剣を抜き、次々放たれる矢を、何とか払いのけた。
その様子を見ていた有為は、慌てて起きあがった。擦り傷と打ち身だけの自分は、彼に比べれば無傷に等しい。
有為は、懐から呪符を取り出すと、それに向かって口訣を唱えだした。そして、ふっとそれに息を吹きかけた。
呪符は、ふわりと宙に浮くと、丘林兵に向かって飛び出していった。それは飛びながら、徐々に形を変えていった。
丸く、大きく膨らむと、今度は横に平べったくなり、いびつな菱形に変形した。そして、それは緋色の鱏となった。
形は鱏であるが、虚空に浮かんでいる時点ですでに鱏なのかどうか、怪しいものであっだ。おまけに、その鱏には、孔雀のような尾がふさふさと生えており、鰭をよく見ると、うっすらと羽毛のような物が生えていた。
その鰭をはたはたと上下させながら、緋色の鱏は丘林兵の前に浮かんでいた。
ただ、浮かぶだけで、何もしなかった。
それがことさら、不気味さを際だたせた。笑っているような口元も、気持ち悪さを煽った。
見たこともない生物の出現に、丘林兵たちは凍り付いたように動けなくなってしまった。
「あれえ?」
その光景を見て、有為は声を上げた。
思った通りに、鱏が動いてくれないからだ。どんな仕草をしても、さまざまな口訣を唱えてみても、鱏は微動だにしなかった。
「――未熟者」
有為の背後から、聞き覚えのある声がした。その声の主は、何やら固いもので有為の頭をコン、と叩いた。
「先生?」
叩かれた頭を抱えながら、有為は振り向いて声の主を確かめた。
片手に巻物を手にした安期生が、やれやれと言った表情で立っていた。
「五雷法は、まだ無理か……」
巻物で掌をとんとんと叩きながら、安期生は呟いた。それから、巻物を脇に抱えると、両手をパンと叩いた。
怪物の出現に恐れ戦(おのの)いていた丘林兵が、ふっと姿を消した。
背後から忍び寄って、彼らを一網打尽にと考えていたグンシュビは、敵が煙のようにかき消えるのを目の当たりにして、ひどく慌てた。
きょろきょろと辺りを見回す彼の目の前に、緋色の鱏がぬっと顔を出した。
初めて見る不気味な生物が鼻先に現れ、グンシュビは大きな悲鳴を上げた。
安期生は、緋色の鱏に向かって掌を伸ばすと、その掌をくるっと返した。途端に鱏もふっと掻き消えた。
目の前の怪異に、理解の範囲を超えたグンシュビは、腰を抜かしてへなへなと座り込んだ。
「グンシュビ!」
下からツルゲネが呼んだ。
「下りてこい!もう、大丈夫だ」
「あの五日間は、何であったか」
土下座する有為の周りを周りながら、巻物で手をとんとん叩きながら安期生は言った。そして、その巻物を有為の手に渡した。
「修行が足らぬ。この書を十万回読め」
「十万回?」
「この帛書(絹に書かれた書物)、一辺読んだら糸を一本抜け。十万読む頃には、抜く糸も無くなる」
「はい」
「夜は夜で、一晩中調息を行え。さもなくば、胡巫には勝てぬぞ」
「……はい」
有為は、蓬莱で安期生に言われたことを思い出した。
「今、もっとも天運の強いのは漢の皇帝。歳星の化身が側に侍っているにも理由がある。対して匈奴の運は尽き始めている。このまま、玗琪の玉が彼らの手にあるのは、あまり良いことではない」
「どうなるのです?」
有為の問いかけに、安期生は頷きながら答えた。
「あの玉は血を求める。春秋戦国、いや、それ以上の戦乱の世が訪れる。そうなれば北狄の地ばかりでなく、華夏の地も戦乱に巻き込まれるのは必至。いかに帝の天運が強くともな。だからこそ、あの玉は五帝の壇に戻さねばならない。決して、あの玉を胡巫の手に渡すではないぞ」
「この辺に散っていた連中は、皆故郷の部落に送り返した。無駄な殺生をするのではないぞ。では、私は蓬莱に帰る」
姿を消そうとした安期生を、ツルゲネが慌てて止めた。
「先生!駿はどうする?このままでは駄目だぞ」
駿は、ツルゲネの腕の中で気を失っていた。背には、矢が三本刺さったままであった。
「ああ、それか」
安期生は駿をちらりと横目で見た。
「幸い、致死性の毒ではない。その程度の怪我なら、お前たちで何とか出来るであろう?お前たちで何とか出来るのであれば、私がわざわざ手を貸すこともない」
そう言いながら、安期生の姿はゆっくりと薄くなると、そのまま消えさった。
「……逃げたな」
ツルゲネは悔しそうに舌打ちをした。そこへ、グンシュビがやっと上から下りてきた。
「あれは、何だ?漢人にはあんな不思議な力があるのか?」
「まさか」
グンシュビの問いに、ツルゲネは首を振った。
「あんな奇っ怪な奴、関わり合わないに越したことはない」
駿の毒は、相手を捕らえることを目的にした物で、体を痺れさせ力を奪う効力があった。グンシュビは、ツルゲネに駿を抱え起こさせると、特殊な小刀を使って一気に矢を抜いた。
これは西方から伝わった矢抜き用の刀で、これを使うと、余計な筋や血管を傷つけず、相手もさほど痛みを感じないで綺麗に矢を引き抜くことが出来た。
今回の来訪で、グンシュビはこの刀と同じ物を単于に献上した。単于はこれをいたく気に入り、必然的に彼ら烏孫からの使者の待遇も良くなった。
グンシュビは、駿の背に耳を当て、肺の損傷がないことを確かめると、服を脱がせ、傷の止血を始めた。
「この薬を塗りましょう」
有為は、抜いた矢から塗ってあった毒を特定すると、自分の薬籠の中から黄色い膏薬を取り出した。
「毒消しか?」
「いえ、この毒はすぐに散って、効き目もなくなる物ですから、わざわざ解毒の必要もないでしょう。心配なのは、矢傷から邪気が入ってしまうことです。これを塗れば、邪気も防げますし、血もすぐ止まります」
「それだったら、傷口を焼けば済むことだろう?」
ツルゲネは不思議そうに言った。グンシュビもそのつもりで、火を熾して剣先を熱し始めていた。
灼けた剣先で傷口を焼くという治療法は、彼ら騎馬民族の間では、ごく普通の治療法だった。
「焼けば確かに血は止まるでしょうが、新たな傷口を作り、そこからまた邪気が入ることだってあるではないですか。それに、怪我人だって苦痛でしょう?まあ、見ていて下さい」
そう言って有為は膏薬を手に取ると、駿の傷口に丁寧に塗り込んだ。
すると見る間に血が止まり、傷口もうっすらと塞がり始めた。
「凄いな……」
絶大な効力を目の当たりにして、ツルゲネもグンシュビも、感嘆の声を上げた。
「蓬莱の薬ですよ。安期先生に頂いた物です」
グンシュビは有為にぬっと手を突き出すと、何やら呟いた。有為が訳も解らずにいると、ツルゲネが彼の言葉を訳した。
「その薬、土産にくれだってさ」
有為は、納得したように頷いた。
「張団長を捜し出すまでは、また、いつこの薬が必要になるか解りませんから、今は駄目です。無事に救い出せた暁には、欲しい分だけ差し上げます」
有為の言葉を、ツルゲネが訳してグンシュビに伝えると、彼は嬉しそうに有為の肩を叩いた。それから、両手の親指と人差し指でそれぞれ輪を作ると、それをつなぎ合わせる仕草をした。約束を意味する烏孫のジェスチャーだ。
彼らには固有の文字はない。一部の知識階級は、漢など、文明の発達した大国の文字を理解したが、大半は条――結縄を使って情報を伝達したり、備忘録に用いていた。このジェスチャーは、その結縄が由来になっていた。
その時、ツルゲネの腕の中で、駿が呻き声を上げた。意識が戻ってきたらしい。
「毒が抜けてきたようですね」
有為は駿の顔を覗き込んで、安心したように言った。
「大丈夫なのか?」
腕の中で、小刻みに震える駿の体を、しっかりと抱き留めながらツルゲネは訊いた。
「大丈夫です。毒が抜けるまで、しばらくはこんな感じでしょう」
「――大丈夫だよ」
ツルゲネの腕の中から、微かな駿の呟きが聞こえた。
「駿!?」
駿は、彼女の腕の中から抜け出すと、しんどそうに座り込んだ。
「こんなの、前にもやったことある。大丈夫さ。ちょっと休めば」
「そうですね、休んでください」
有為は、毛氈を引っ張り出すと、駿にそれを掛けてやった。
ツルゲネはその様子を見て、不意に横を向いた。それから何度か目を擦った。
「……ったく、あんな下らないことで、お前が命を落としかけるなんて」
彼女は、ちょっと鼻が詰まったような――涙声で呟いた。
「下らないこと?」
駿は疑問に思って、グンシュビの方を見た。彼と目があった途端、グンシュビは慌てて視線を逸らし、所在なさ気に腕を振った。
「どういう事だ?」
駿は顔を上げて、ツルゲネの顔を見た。
「私が言うのか?」
「そうじゃなきゃ、俺は一晩かかって、岑陬から話を聞くぞ。休ませたいなら、話せ!」
妙な脅しを掛けられ、ツルゲネは仕方なく真相を話し出した。
彼、烏孫王孫・グンシュビは単于家攣鞮(らんてい)氏と婚姻を結ぶことになった。
生来我が儘な人間で、好みもうるさく、妻となるべき人間にも、彼はあれやこれやと注文をつけた。そしてやっと選び出されたのが、丘林氏族を統べる左大将の娘だった。
匈奴の統治機構は、大別して二種類に分けられる。
烏孫のように、もともとは別の民族で匈奴の支配を受けるようになった場合、自らの王を頂き、ある程度の自治が認められている。丁霊(トルコ)や休屠などもこれに当たる。
それ以外は、単于家攣鞮氏の者が支配した。丘林はそれに当たる。
単于を筆頭に、”四角”と呼ばれる左右の賢王、谷蠡王が続き、その下に大将、大都尉などの二十四長と呼ばれる長たちが、部民の支配に当たっていた。左は東、右は西を支配地域に持っている。
丘林は、匈奴族の中でも地位が高い方にあったので、統べる長も、四角に続く地位にある大将だった。
大将の娘は、丘林族の長の息子との婚姻が内定していたのだが、グンシュビのごり押しで破談となった。
グンシュビは、烏孫の良馬を結納として丘林に持っていき、同時に長の家にも詫びを入れに行った。
「礼儀を弁えてる。何の問題がある?」
「ここまではな。この先は、最低だ」
ツルゲネは、嫌そうに続きを話し出した。
丘林の長の家に赴くと、何故かグンシュビは病気となり、その場で寝込んでしまった。
彼の世話をしたのは、長の妻や娘だった。
「何だって?」
駿は、自分の耳を疑った。
「本人がそう言っている。丘林は美人揃いだったってね」
彼は、病気治療と称して、長の妻と娘、それぞれと関係を持ってしまった。
それどころか、見舞いに訪れた、他家の女たちとも、次々と寝たのだ。
烏孫でそこそこ遊んでいた彼のテクニックは、丘林の男どもとは比較にならなかったらしく、評判を聞いた女たちが、我先に彼の許を訪れ、彼との情事を楽しんだ。
「どっちもどっちってことかよ」
駿は、軽い目眩を感じた。
「それを知って怒った男どもに、追われていたってことか……」
「そうだ」
グンシュビたちと出会ったとき、矢で襲われたことを駿は思い出した。
彼らは追っ手を警戒していたのだ。
「間男が!」
駿は思わずグンシュビに掴みかかろうとしたが、ツルゲネと有為に慌てて止められた。
「傷口が開きますよ!」
「怒るのもばかばかしいぞ、こんな話」
「だが、俺はこの男の下半身の不始末で、こんな怪我を負う羽目になったんだぞ」
「悪かった!申し訳ない」
グンシュビは、両手を組んで、烏孫流の詫びを入れた。
「丘林に留まったのは、カンの話を聞きたかったからなんだ。そこへちょっと誘惑が入って……」
実際、丘林の長の家で用人となっていた堂邑父から、漢についての詳しい話を聞くために彼は病気と称して留まったのだ。
だが、西方の彼の容姿は、丘林の女たちにとってエキゾチックで、とても魅力的であった。彫りの深い顔に、ふっくらとした唇。薄い目の色と明るい髪が、とてもセクシーだと、たちまち大評判になってしまったのだ。
グンシュビは、軽い気持ちで”来るもの拒まず”をしていたら、気付けば丘林の女たちのほとんどと関係を持ってしまった。
事が明るみに出ると、当然、丘林の男たちは怒髪天を衝く勢いで、グンシュビを襲った。
彼は、烏孫と張騫を引き合わせたいと考えていた堂邑父によって、間一髪のところを救われ、そのままここまで逃げて来たのだった。
「いいか、良く聞けよ。漢は礼節も重んじるが、それ以上に貞操も重んじるんだ。お前みたいな淫らな奴は、そっぽを向かれるんだよ。もし、漢と組みたかったら、もう、こんなことするんじゃないぞ!」
急に騒いだせいで、駿は頭から血の気が引くのを感じた。真っ青になった彼を、有為とツルゲネが慌てて支えた。
「解ってる。もうしない」
グンシュビは、指で輪を作りながら、駿に詫びた。
彼の声を聞きながら、駿は、頭の中が真っ白になっていくのを感じた。
気がつけば、何か、柔らかい物が、自分の頬の触れている感じがした。
(これは……)
覚えのある感触に、ハッとした駿は、慌てて身を起こそうとした。
と、頬に当たっていたそれが、今度は自分の口を塞いだ。
「止めろ!」
渾身の力を込めて、駿は、彼女を突き飛ばした。
ツルゲネは、身を起こしながら、悲しそうな瞳で彼を見つめた。
月明かりに照らされた彼女の顔は、本当に寂しそうに見えた。
気を失っている間に、いつの間にか夜になっていたようだ。
「……昼間の礼だ」
「そう言うことは、必要ない。兄貴に顔向けできなくなる!」
「また……また、騫か。私の気持ちは、どうなる?」
「気持ちって……」
ふらふらする頭を必至に振りながら駿は答えた。
「誰かに抱かれなきゃ気が済まないって言うなら、岑陬に相手をして貰えばいいだろう?あいつが馬を貸してくれたから、俺は、お前たちが襲われる前に着くことが出来たんだから。功労は、あいつも俺も一緒だ」
「――そうする」
ツルゲネは服を調えると、上で見張りをしているグンシュビの方へ丘を登っていった。
駿は、大きく息をつくと、その場に座り込んだ。
「――すごいですね」
横から、有為が彼に声を掛けた。
「何だ、お前起きていたのか」
「寝てる暇、無いんです。調息をしていなきゃいけないので。それに、調息をしていると、眠くならないんです」
「ふうん」
座ったまま手を組み、静かに深呼吸を繰り替えす有為を不思議そうに駿は眺めた。
「そう言えば、お前、変わったな。最近、あんまり飯も食わないし」
「そうですね。食べなくてもいいように、変わってきてるんですよ。体が」
「何で?」
「仙術を使うためです。仙術を極めるうちに、体の中から、枯れてくるんです。そして、眠ることも、食べることも、愛することも、人として必要な欲求が全て、枯れて無くなるんだそうです」
「やだな、そういうの」
「そうですか?」
「人の作った物にケチつけながら、人の倍喰うお前の方が、いいよ」
「え?私、そんなに意地汚かったですか?」
「ぬかせ」
駿は有為のおでこを指で小突いた。有為は、調息を邪魔されて、不愉快そうに鼻を歪めた。
しばらく互いの間に沈黙が続いた。
駿は、ぼんやりと天空の星を眺めていた。
「――彼女のこと、考えてるのですか?」
邪魔されていやなくせに、先に口を開いたのは有為の方だった。
「違うよ」
そう言いながら、駿は立ち上がった。
「ちょっと早いけど、見張り代わってくる。やることやってたら、見張りどころじゃないだろ」
「無理しないでください」
「寝過ぎてるぐらいだ。大丈夫。これ以上寝てたら、逆に調子悪くなる」
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