第7章 約束

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第7章 約束

「あれ、一人か?」  見張り場に使っている岩の上に、グンシュビが一人座っているのを見て、駿は意外そうな声を上げた。  グンシュビも、駿の言葉に、不思議そうな顔をした。 「あの女と、やってたんじゃ……」 「やる?」  意味の説明に詰まった駿は、腰を振るジェスチャーで示した。  グンシュビはそれを見て、手を打って笑った。そして、違う違うと身振りで答えた。 「してない、してない。彼女は、あっちだ」  グンシュビが示した方を見ると、背中を丸めて踞っている彼女の姿が目に入った。 「ずっと、あそこにいる」  起きてるんだか、眠ってるんだか、遠目からは解らなかった。 「それに、もう、過ち、しない」  胸に手を当てながら、グンシュビは続けた。 「彼女は、漢人の妻。たとえ、腰を振る女でも、もう、手を出さない」 「腰を振る女?」  妙な言葉に、駿は首をかしげた。 「ん……漢には、ない?」 「ああ」 「彼女は、再婚できない。だから、腰を振る」 「え?」  戦いや狩りと違って、グンシュビの話を理解するにはかなり時間がかかった。  しかしやっとのことでその意味を知った駿は、愕然とした。  彼女の夫は、単于に罰せられて、遠い西に追いやられた。  幼子を抱え、女手一人で生きて行くには、匈奴の社会は厳しすぎた。  通常、母子家庭というのは匈奴社会ではあり得ない。  男女の協力があって、生計が成り立つ社会であるため、夫が亡くなった場合、残された妻は近親者に嫁ぎ直す。これを嫂婚制度と呼ぶ。  そうやって、生計を維持するわけであるが、ツルゲネにはそれが出来なかった。  なぜなら、彼女の夫は生きているからである。  最初のうちは、彼女の両親が面倒を見てくれていたが、その両親も相次いで亡くなってしまった。何かの拍子に、そう話していたことを、駿は覚えていた。  生きていく上で、男手はどうしても必要である。  そのため、必要になったらその都度、彼女は男に身を任せるしかなかった。  弱者の救いの手を差し伸べるような、生やさしい社会ではなかった。常に臨戦態勢を取る匈奴は、たとえ、親戚といえども打算的な関係で成り立っていた。  この五年間、ツルゲネは自分と息子を守るため、数多くの男と寝るしかなかったのである。  不特定多数の男と、自分の利害のために寝る女。  腰を振る女とは、そう言う女性を指していた。  そして、そう言う女は、烏孫でも、匈奴でも、決して珍しいことではなかった。 「岑陬、早いけど代わるよ。下で寝ててくれ」 「いいのか?」 「寝過ぎて、むしろ調子悪いくらいだよ」  二人は手をパシンと合わせると、その場を交替した。  去っていく彼の後ろ姿を見ながら、駿は大きく溜め息をついた。  彼の話は重すぎた。  自分の意志とは関係なく、不特定多数の男と寝なくてはならない。  彼は、そう言う境遇の女性を少なからず見てきた。  何しろ、親分・衛青の母親がそうである。そして彼女の周りには、そう言った女性が数多く集まっていた。  辛い、なんて一言では言い表せない。  彼女たちの涙が、駿の頭に蘇ってきた。  彼女たちは、人前では泣けない。誰も知らぬところで泣くのだ。そして、泣いても何も変わらない。過酷な運命は。  同時に、有為の言葉も思い出した。  沙漠で出会った沈玲や、自分の義母について言った言葉。  どんなに夫が憎くても、子供は愛しいのだと。  ツルゲネも、きっとそうだったのだろう。  若いどころか、幼くして母になった彼女が、生きていく上で、自分の子供の存在はどんなに大事だったことだろう。  子供の成長だけが、彼女の支えだったはずだ。  子供のために、歯を食いしばり、意に沿わぬ男にも身を任せていたはずだ。  そのかけがえのない、大切な存在を、殺したのは――  駿は、懸命に記憶を辿った。  蘢城に火を放ったのは誰だったのだろう?  自分と青が言い争っているうちに火の手は上がった。そして、その火が燃えさかる中で、自軍は撤退していった。  それしか思い出せなかった。  彼女の子を、殺したのは、やはり自分だ。  つまらない言い争いをせず、素直に命令に従って、撤退していれば、蘢城に火をつけることもなく、そこを清めるために彼女の子供が生け贄にならずに済んだはずだ。  その晩、彼は何度も溜め息をついた。  溜め息をついているうちに、夜が明けた。 「小姐(ねえ)さん」  駿は、一晩中同じ場所で踞っている彼女に声を掛けた。 「前にも言ったけどさ、もう、そんな体を張らなくてもいいんだよ。俺が必ず、あんたを兄貴のところへ連れていくから」 「だが、駿、お前は騫を守るんだろう?」 「ああ、それは、間違いだった」  駿の言葉に、ツルゲネは顔を上げて彼を見た。泣きはらしたような、はれぼったい顔をしていた。 「兄貴ほどの腕を、俺が守るなんてお門違いだよ。もし、兄貴が本気になったら、あんたなんて歯も立たない。だが、もし兄貴があんたに殺されるんだったら、それは兄貴の意志だ。俺がどうこうしても仕方ない」  駿は、ツルゲネの方に手を伸ばし、彼女を立たせた。 「行こう。そろそろ朝飯だ」 「駿」 「守るよ。おれがあんたを、ちゃんと。だから、もう、あんな事はしないでくれ」 「駿、お前、私の気持ちを、知ってるのか?」  駿は、彼女に背を向けると、何も答えなかった。何も、答えられなかった。 「お前は、結局私を見ていない。私を通して、騫しか見ていない。そうだろう?」 「先に、行く」  駿は、答えぬままに足早に去っていった。  食事が終わると、駿は自分が少し熱っぽいことに気がついた。 「傷のせいかな」 「夕べ、起きてるからですよ」  額に手を当てて、彼の熱を確かめながら有為が文句を言った。 「毒がまだ残ってるようですね。今日は、念のため、一日寝てるんですよ。動き出さないよう、縛り付けましょうか?」 「縛らなくても寝てるよ。矢傷を甘く見たら、命取りなことぐらい、俺もよく知ってるよ」  そう言うと、言葉通り駿はごろりとその場に横になった。 「ああ、そんな適当に。ちゃんと寝床用意しましたから、こっちで寝てください!」  有為は文句を言いながら、彼をこしらえた寝床まで引きずった。 「お前、どっかのおばちゃんみたいだな。いちいちうるせえよ」 「変なこと言ってると、傷口に塩塗りますよ!」  苦笑しつつ、有為の言うことを聞いて寝床に横になると、熱のせいだろう、すぐに駿は眠りについた。  どれくらい眠っていたのだろう。  照りつける太陽に暑さを感じ、駿は目を覚ました。  ふと、目を開けると、そこにツルゲネの顔があった。  あまりの近さに、駿はぎょっとしたが、彼女はよく眠っているようだった。  動いた拍子に、濡れた布が顔から落ちてきた。体温で暖められて、それは生暖かくなっていた。  熱を冷ますために、彼女が置いてくれたのだ。  それを何度か交換しているうちに、彼女はうたた寝をしてしまったらしい。  駿は、濡れた布切れを握りしめながら、彼女の顔を見た。  閉じた瞳に、長い睫毛がやけに()えて見えた。そう言えば、初めてあったとき、彼女の瞳がとても印象的だった。  突然、駿の心臓が妙に高鳴った。 (やっべえ……)  熱で体が火照っているせいもあるだろう。抗えないほどの強い欲望が、駿の体を突き抜け、すぐ側で眠っている彼女の体を引き寄せたい衝動に駆られた。 (こいつは、兄貴の嫁さんだぞ)  何度も言い寄られていたが、その時よりも、今の方が彼にとって状況であった。  爆発寸前なものを抱えながら、駿は右へ左へ寝返りを打った。 (そこを我慢するのが、好漢(おとこ)ってものだぞ)  駿は衛青の言葉を思い出した。  匈奴に攻め入るのを前に言われた言葉だった。  血を見て、男たちは興奮する。その興奮のまま女を襲いたくなるのが少なくない。それを、青は諫めたのだ。 「我慢って、どうやって?」  の浅い駿は、青に尋ねた。 「そこら辺の男のケツでも見てろ。陛下みたいな趣味がなきゃ、すぐ萎えるぞ」 「なんだよそれはぁ!」  その時は、冗談半分に笑って聞いていたが、今は天のお告げだ。 (ケツ……有為!)  この旅の始めの頃、馬になれない有為は大腿部と臀部を鞍で擦りむいてしまった。そこに薬を塗ってやったのが駿だ。 (ケツの穴の皺、一本一本まで思い出してやる)  半ば自棄になって、駿はあの時のことを鮮明に思い出そうとした。 (そうだ、うっかりにも触っちまったっけ)  気色悪い感触まで思い出しているうちに、爆発寸前な物はすっかり落ち着いていった。 「――独生どの」  と、いきなり目の前にその有為が現れた。駿は思わず悲鳴を上げて起きあがった。 「どうしたんです?念のため、傷にもう一度薬を塗りたいんですが……」 「いや、その……」  決まり悪そうに、駿は座り直した。 「お前も、たまには役に立つんだな。ありがとう」 「は?何ですか?」  膏薬を手にした有為は、変な顔で駿を見た。 「いいから、さっさと薬を塗ってくれ」  そう言って、駿はぱっと服を脱いで、彼に背中を見せた。有為は、変な顔のまま矢傷に薬を塗り始めた。  安期先生の薬が効いたのか、毒が抜けきったのか、次の日には駿はすっかり元通りに回復した。  駿は、ツルゲネと有為、三人で林に入り、食べられそうなものを物色していた。  長く旅を続けているため、彼らの手持ちの食糧は、既に尽きていた。狩りをしたり、木の実を取ったりして、その日その時の食料を得ていたのだ。 「どういうのが食べられるんです?」  都会育ちの有為は不安そうに尋ねた。 「虫と鳥が食ってれば、人間も食えるよ」  赤く熟した木の実を見ながら駿は答えた。 「解りました。もっとあっちに行って捜してみます」  心許なげに腕を前に組みながら、小走りに有為は奥に向かって走っていった。 「大丈夫か?」  彼の後ろ姿を見ながら、心配そうな口調でツルゲネは言った。 「ああ、なんかあったら、すぐに尻尾を巻いて戻ってくるって」  駿は、木の実をいくつか摘むと、彼女に渡した。 「これ、何ていう実だ?」 「さあ……ここは私の住んでいる場所とは違うから、初めて見る」  駿は、その木の実を摘み取ると、ぽいと口に入れてみた。甘酸っぱい汁が、口の中一杯に広がった。  「桑の実に似た味だな」 「桑……?」 「こんな丸い実じゃなく、つぶつぶしたかんじだけどな。葉っぱは蚕の餌だ」 「蚕って、何だ?」 「蚕も知らないのかよ。あんたの大事な玉が入っている袋は錦だろ?その布の元になる糸を作るのが蚕だよ」 「……そうなんだ」  懐から袋を取り出すと、彼女はそれを不思議そうに眺めた。 「ガキの頃、よく食べたな。親分と親分の甥っ子と、よく桑林に潜り込んじゃ取って食べてた」  ふと、駿は彼女の顔を見た。ちょっと、寂しそうな顔をしていた。 「色気ないか、こんな話」  駿は、そう言って彼女に笑いかけた。 「そうだ、今、海棠の花の頃だ」 「海棠?」 「薄紅の、綺麗な花が咲くんだ。うち――っていっても、親分の家なんだけど、陛下から貰ったいい樹があってさ、この季節になると、すっごく綺麗なんだ」  駿は、取った木の実を彼女に渡しながら言った。 「見に来いよ。今からじゃ、今年の花は間に合わないけど、来年、花が咲いたら」 「え?」 「張の兄貴に会ったら、それで終わりじゃないだろ?お前も漢に来るんだろう?だから、見に来い。待ってるから」 「……駿」 「約束だよ」  駿は、熟した実をあらかた採り尽くすと、それを全て彼女に渡した。 「静かだと、妙に心配になるな。ちょっと有為を見てくる」  そう言って、彼は林の奥の方に足を進めた。  有為はすぐに見つかった。彼は、座り込んで何かをじっと見つめていた。 「何してるんだ?」 「このキノコ、虫が付いてるんです。食べられるんでしょうかね?」  有為は、木の根本に群生している、茶色いキノコを指さしながら言った。食欲が落ちてきたとはいえ、まだ食べ物に対する興味は失ってはいなかった。 「止めとけ。キノコは解らんぞ。当たって死ぬことだってあるんだから」 「私、好きなんです、キノコ」 「じゃ、死ぬか?」 「嫌です」  そこへ、馬の足音が響いてきた。グンシュビだ。 「駿!有為!」  グンシュビは二人を見つけて叫んだ。 「カンが戻ってきた。居場所が解ったそうだ」 「兄貴の!?」  駿と有為は、グンシュビの言葉を聞いて、急いで宿営地に戻った。そこには、探索を終えた堂邑父が待っていた。 「団長は、休屠王の幕営にいます。枷を着けられ羊の番をさせられていました」 「会ったのか?」 「誰にも気付かれぬよう、遠目で確認しただけです。痛ましいその姿に、すぐにでもお救いしたかったのですが」  堂邑父は目に滲んだ涙を拭った。 「いいさ。兄貴は俺たちが、必ず救い出す」  駿は、堂邑父の肩を叩いて彼をねぎらった。 「問題は、どうやって救い出すかだな」 「問題はないさ」  グンシュビは言った。 「真正面から行けばいい」 「何か策があるのか?」 「ああ」  彼は、ニヤリと笑った。  明日の朝一番に発つことを決めた彼らは、宿営地を片付けに入った。  移動に次ぐ移動を繰り返してきた駿にとって、大怪我もしたが、良い骨休めにもなった。  荷物をまとめていると、彼の傍らにツルゲネが立った。  駿は、彼女の顔を見て尋ねた。 「もうすぐ兄貴に会える。覚悟はできてるか?」  しかし、彼女は何も答えなかった。  駿は、一つ息を大きく吸った。 「とにかく、兄貴に会ったら、ちゃんと話すんだよ。あんたの子が、どんな子だったか。あんたがどんなに大変だったか。全部」 「私は……」 「そうしたら、全て終わったら、来いよ。俺んとこへ。花を見にな。来年の話だけどさ」 「私の気持ちを、お前は知ってるのか!?」 「知らねえよ」  駿は、苦笑いを浮かべながら言った。 「だから、そこで待つんだ。お前のこと。これで、死んで欲しくない」 「――知っていたのか?」 「大体はな、想像つくさ」 「……確かに、最初は騫と差し違えて、私も死ぬつもりだった。あの子の元に行くために。だけど…」  ツルゲネは、じっと駿の顔を見た。駿は、その視線に痛いものを感じ、彼女から背を向けた。  彼の行動に、ツルゲネはむっとした。そして叫んだ。 「駿!私はお前と一緒にいたい」  駿は、どう答えていいのか、解らなかった。どんな顔を彼女にしていいのか、解らなかった。  彼は、背を向けたまま、彼女に手を振ると、その場を走り去った。  その晩、駿は眠れなかった。  見張り場で星を見上げながら、彼はぼんやりと考え込んだ。胸にツルゲネの言葉が重くのし掛かっていた。  自分は、彼女にどうすれば良いんだろう。  彼女の、かけがえのない宝――一人息子を死に追いやった自分が出来ることは、何なのだろう。  何を、してあげたいのだろう。 (生きて、欲しい)  ふと彼はそう思った。  今は亡き子供に代わる希望を、彼女に持って欲しい。  それを、自分が与えられるのだろうか?  休屠王の幕営までは三日の行程だ。彼らは、相手に気付かれないよう、慎重に進んだ。 「休屠王の幕営の死角に入る、良い場所がありました。回り込むため、二日ほど遠回りすることになりますが」 「多少回っても、その方が良いと思う」 「ああ」  堂邑父の言葉に、駿とグンシュビは頷いた。  三人は、張騫を救う手はずについて、何度も議論を交わし、出来る限り万全を期そうとしていた。  有為は、馬に乗っている間さえ、書物から目を離さなかった。帛書はかなりほつれ、うっかりすると風に飛ばされ散り散りになりそうだったが、それでも十万回にはほど遠かった。  ツルゲネは、書に気を取られて、ともすれば馬から落ちそうになる有為を気遣ってはいたが、一人、考え込むことが多かった。  彼女の中で、何かが変わっていた。  駿は、川の水で顔を洗うと、ほうっと息をついた。出来るなら服も全部脱いで、水の中に入りたい気分であったが、側にツルゲネがいたから遠慮した。  手足を洗っていると、横にいた有為は用を足すからと、どこかへ行ってしまった。  堂邑父とグンシュビは、向こうの方で何か細工をしていたので、気がつけば川辺にはツルゲネと二人だけになっていた。 (まいったな……)  駿は、このところ、彼女と二人きりになるのを避けていた。  気まずい空気が、二人の間に流れていた。 「駿……」  ツルゲネは彼の横に座ると言った。 「お前は、私のことを、どう思っているのだ?」  駿は、何て言っていいのか、解らなかった。 「結局、お前は私ではなく、私を通して、騫のことしか見ていない」 「花を見に来いって言ったのは、張の兄貴ではなく、お前にだよ。お前に来て欲しい」 「じゃあ、私は、お前の何だ?」 「――小姐(ねえ)さんは、兄貴の嫁。……それ以上は言わない」  その言葉を聞き、彼女は黙って立ち上がり、その場を走り去っていった。  残された駿は、うつむきながら、指を噛んだ。水面が日の光を反射して、キラキラと光っていた。  堂邑父が言っていた場所は、休屠王の幕営の北側にあった。小高い岩山が幾重に続いており、登るのは大変だが、身を隠せそうな場所はいくらでもあった。 「あれが、休屠王の穹廬か」  休屠は居延周辺で最も強勢を誇る部族だ。その王の穹廬もそれに相応しく、豪奢で巨大な物であった。  騎馬民の穹廬は、普通は台車が着いた小さな物だ。  だが、休屠王の穹廬は台車が無く、直に地面に据えられていた。台車に乗るほど、小さくなかったのだ。  柳材で骨組みを作り、羊皮で覆ったそれは、巨大ではあるが組み立ても分解も容易 (たやす)くできるようになっており、移動を主とする彼らの生活にあった住居(もの)でもあった。  休屠王の穹廬は、金糸、銀糸の刺繍が施され、色とりどりの旗で飾られていた。それらが光を反射し、遠目からでもその艶やかさが伝わってきた。  王の穹廬の周りには、よく見る小さな穹廬が取り囲んでおり、大地に不思議な図形を描いていた。  「じゃあ、先に行く」  グンシュビは、そう言うと、単騎、休屠王の幕営に向かって発った。 「迎えは、打ち合わせ通りに頼む」  彼の言葉に、駿と堂邑父は頷いた。二人に見送られ、グンシュビは一気に岩山を下っていった。 「どのくらいで、俺たちは行くか?」 「岑陬の姿が、幕営に見えてからでいいでしょう。焦って相手に見つかっては元も子もありませんから」  そう言いながら、堂邑父は、弓の手入れを入念に始めた。  駿は、意を決してツルゲネの方に向かっていった。 「いよいよだ」 「ああ」  そう言いながら、ツルゲネは冷たい視線を駿に投げかけた。駿は、一瞬、心臓が凍り付くかと思った。 「あのさ……」  駿は、頭を書きながら、懸命に言葉を探した。 「小姐(ねえ)さんの話に、ちゃんと答えられなくて悪いとは思うけどさ」  ツルゲネは、表情を変えることなく、彼の顔をじっと見つめていた。 「だけど……だけどさ、ああ、もう、じれってえ!」  駿は、見つめられることに耐えきれなくなり、彼女に背を向けた。 「離縁して嫁ぎ直すことは、漢だって、珍しい事じゃない。それに、張の兄貴も、話の解る人だ。だから、そのつまり」  駿は、肩越しにちらりと彼女を見た。彼女は、瞬き一つもせず、じっと自分を見つめていた。 「つまり、そう言うことだよ!」  そう言い捨て、駿は自分の馬の方に走っていった。  ツルゲネは、ただ黙って彼が走り去っていくのを見つめていた。  不思議に、何も感じなかった。ただ、いつもの想いが、胸を満たしていた。  彼女の心は、恨みに満ちていた。  自分の子供を殺された恨み、もう、それだけではなかった。  好きな人と、一緒にいることも許されない現実。  子供を失ったのも、望む人と一緒になれないのも、自分が幸せになれないのは、全ては張騫のせい。  玉を奪って、単于庭を逃げ出したとき、彼女は夫・張騫を殺すことしか考えていなかった。  彼を殺して、自分も死ぬ。  死者の静かな国で、親子三人で暮らすのだと。  今は違う。  自分の不幸の源を、全て殺し尽くしたい。  夫・張騫。全ての原因を作った堂邑父。  これだけでは、足りない。  夫を拘留していた休屠王も、今、共に旅をしている有為と岑陬も、出来ることなら、皆一人残らず死ねばいいのだ。  そして、愛しい彼。  この世界で、決して一緒になれぬのなら、暗い地の底で、永遠に一緒にいよう。  彼女は、剣の柄をぐっと握りしめた。  自分の力ではどこまで出来るか解らない。だが、いつものように、自分の体を武器に、上手い具合に内紛を起こすことは出来るかも知れない。  皆殺しだって、不可能ではないのだ。  そのために、今はただ、彼らが張騫を救い出そうとしていることに、大人しく協力すればいい。難しいことではない。  冷たいほほえみが、彼女の顔に浮かんでいた。  その、彼女の深い恨みを吸って、玗琪の玉はぎらぎらと輝いていた。
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