第8章 再会

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第8章 再会

「烏孫の王孫が、何用で来たのだ?」  休屠王はグンシュビに会うと、開口一番にそう言った。彼のはだけた上衣の間から、金色に輝く絹の下着が覗いていた。  これは、金の糸を吐く大変珍しい蚕から作られたものであった。当然、大変な珍品だ。彼は、これをさりげなく見せびらかして、自分を誇示していた。  規模で言うと、休屠より烏孫の方が遙かに強大であったが、休屠王はそんなことなど全く意に介さず、尊大な態度で彼に謁見した。  王は、自分の穹廬の中に彼を通さず、部落の広場で彼と会った。  その広場の中心に一人、周りを休屠の兵に囲まれても、グンシュビは少しも怯むことなく、威風堂々と立っていた。  彼は、月氏と拙攻する西の一大勢力、烏孫の王太孫であるという強い誇りがあった。  風に揺れる、少し癖のある後れ毛を指で整え、両手を組んで胡流の挨拶を交わすと、彼は切り出した。 「一月の会が終わった後、わたくしは図らずも病を得、許婚者である丘林の許で養生しておりました。その時、丘林の者からここで、風変わりな漢奴がいるという話を聞き、祖父王への土産話に、是非、その漢奴を見てみたいと思ったのでございます」 「確かに、ここには単于から預かった漢奴がおる」  休屠王は、グンシュビの持ってきた結縄を手にしながら、頷いた。そして、漢奴を連れてくるように部下に命じた。  グンシュビは、深々と王に礼を取りながら、内心してやったりとほくそ笑んだ。  間もなく、手と足に枷をつけられた男が、兵士につつかれながらよろよろと歩いてきた。 髪も髭も伸び放題で、手入れもされておらず、ボロ同然の服を纏っていた。あちこちに傷跡があり、垢にまみれたその姿を見て、堂邑父が涙したのも解る気がした。 (彼が張騫なのだろうか?)  堂邑父や駿と違い、張騫と面識のないグンシュビは正直戸惑っていた。それほどまでに、男はみすぼらしい姿をしていたのだ。 「彼の名は、何と申すのです?」  グンシュビは休屠王に尋ねた。 「烏孫王孫、何故、訊く?」 「何故とは……勿論、祖父王への土産話のためです」 「祖父王か」  休屠王は、結縄を指で弄びながらニヤリと笑った。 「そもそも、お前は本当に烏孫の王孫なのか?」 「何ですと?」  王は、結縄をグンシュビの方に向かって突き出した。 「偽物の結縄を持ってくるような者が、本当に王孫なのかと聞いているのだよ」 「偽物!?何を根拠にそんなことを!」 「馬鹿にするな!!」  王は結縄をグンシュビの足元に投げつけた。 「烏孫は、ここ数年、ほとんど単于庭に現れぬから知らぬが、丘林はよく知っておる!ここに結ばれている二つの結び目のうち、丘林の結び目は明らかに偽物だ!」  グンシュビは、チッと舌打ちをした。  堂邑父と念入りに、丘林の結び目を再現したつもりであったが、あっさりと見破られてしまった。  この結縄は、いわゆる挨拶状、紹介状のような物で、それぞれの部族特有の結び目を結ぶことによって、持ち主の身分を保障する物だった。  その結び方は門外不出で、族長など、限られた家系にしか伝えられない。  それ故、堂邑父と見よう見まねで丘林の結び目を偽造したのだが、やはり見破られてしまった。 「烏孫の物が偽物かどうか、解りもしないで、よくもそんな言いがかりを」  グンシュビは開き直って、休屠王を睨み付けた。 「言いがかりではない。事実であろう。漢奴に会わせてやったのも、冥府への土産話にと言う、恩情よ」 「私は、亡き烏孫王太子の長子であり、現王太孫である。事実かどうか確かめたくば、我が首を取り、烏孫の大禄に差し出せばよい。多大な褒美がもらえるぞ」  大禄は、烏孫王昆莫の次子で、グンシュビの叔父である。  先の太子、つまりグンシュビの父の死後、本来なら彼が次の太子になるはずであった。しかし、遺言を盾に、無理矢理グンシュビが太子位に就いたのである。  烏孫内の勢力は、大禄が上。隙あらば太子位を窺っているのも彼であった。  匈奴の単于家と通婚したり、漢と関わりを持とうとするグンシュビの動きは、全てこの叔父に対抗するためであった。 「では、その首、頂こうか」  広場の周囲を取り囲んでいた兵士たちは、一斉に矢をつがえ、グンシュビに照準を合わせた。  グンシュビは臆することなく、堂々と胸を張って立っていた。そして、自分を囲んだ兵士たちを、ギロッと一瞥した。  その様を見て、王はフン、と鼻で笑った。そして右手を挙げ、矢を放つ合図をした、その時――  あちこちから大きな悲鳴が上がった。  見ると、兵士たちが次々ともんどり打って倒れていった。  ひゅん、ひゅん、と風を切る音が響き、北の方角から矢が止むことなく飛んできた。  矢は、正確に兵士を射抜き、一本も無駄になっていない。  兵士たちは慌てて、照準をグンシュビから襲撃者に変更した。しかし、遅すぎた。動揺している彼らが体勢を立て直す暇も与えず、矢は次々と飛来した。  その軌道の正確さに、グンシュビは改めて舌を巻いた。  兵士たちの中心にいる自分には、擦るどころか全く飛んでこない。全て、敵の兵士に命中していた。  堂邑父の腕に感嘆した彼は、思わず口笛を吹いた。 「岑陬!何ぼけっとしてるんだよ!!」  怒鳴り声と共に、敵の輪の中に駿が飛び込んできた。彼は、そのまま馬で広場を突っ切ると、先程の薄汚れた漢奴の方に向かって行った。 「兄貴!」  そう叫ぶと、彼はその男に向かって腕を伸ばした。  男は、駿の顔を見てハッとした。  駿は頷くと、そのまま男を抱え上げ、馬に乗せた。  それを見たグンシュビは慌てて自分の馬を呼ぶと、それに続いた。  男の足枷は、革紐で繋がれていた。  駿は走りながらそれを短剣で断つと、男を鞍に座らせ、自分は尻の方に移動した。 「手は後回しにするよ。馬に乗るにはそれで充分だろ?」 「ああ――俊々」  その言葉に、駿は照れ笑いを浮かべた。  同時に、右側から有為とツルゲネが馬で近づいてきた。 「駿!」 「頼む!」  その言葉を受け、ツルゲネは脇にいる有為の馬にひらりと飛び移った。解っていたことだったが、思わず有為の口から「ひい」と言う悲鳴が漏れた。  ツルゲネは、有為の手から手綱を奪うと、駿を見た。  駿は、空になったツルゲネの馬の方にさっと飛び乗った。  男二人乗ったのでは、馬の負担は大きい。  それだったら、男女の相乗りのほうがまだまし。それから、馬になれない有為よりも、胡人のツルゲネの方が遙かに早く走れる。  何度も話し合った結果、この組み合わせで行くのが、一番だということになったのだ。  馬を移動したのとほぼ同時に、グンシュビが追いついてきた。射るのを止めた堂邑父も、北の方からこちらに向かってきていた。 「頼んだ」 「任せろ」  グンシュビは止まることなく三人の横を駆け抜け、手を伸ばして漢奴の馬の手綱を取った。それを引いたまま、堂邑父の方へ向かっていった。  駿、それからツルゲネと有為の乗った二騎は、一旦馬の足を止めた。そして、じっと敵が追いつくのを待った。 「まだですか?」  おどおどした口調で有為が尋ねた。 「もう少し、引きつけてからだ。ここで完全に捲かなくては」  駿の言葉に、有為は掌の物をぎゅっと握った。  追っ手の姿が、だんだんと、はっきり見えてきた。 「そろそろだ。数を数えよう。十数えたら、あいつらに向かって投げつけてやれ」  有為は、駿と共に、ゆっくりと数を数えた。 「今だ!」  駿の叫び声と共に、有為は掌の物を思いっきり地面に叩きつけた。  ボン、と言う大きな爆発音と共に、辺り一面に煙が立ちこめた。  煙玉だ。 「おい……大丈夫か?」  煙に咽せながら、駿は二人に声を掛けた。 「何とか」 「早く行きましょう」  咳き込みながら有為が言うと、ツルゲネは手綱を引いた。 「これはこんなに煙が出るものだったか?」  ものすごい煙量に、思わず駿は尋ねた。 「二つ一辺に破裂させたので、煙の量も二倍になったのでしょう」 「二倍どころか、十倍だぞ」  煙に紛れながら、二騎は大きく方向を転換し、グンシュビたちの後を追った。煙の中からは追っ手の咳き込む声や、怒号があちこちから響いていた。  待ち合わせの場所は、潜んでいた場所とは正反対の南側にあり、湖を望む高台にあった。 「団長は、すぐに”俊々”だと気付かれたのですね」  そこで、手と足の枷をはずしながら、堂邑父は張騫に言った。 「ああ。見違えるように成長していたが、一目で解った。ここから助け出してくれるのはあいつだと、何となく思っていたからだろうな」  縛めの解けた腕をさすりながら、騫は笑った。 「しかし、堂邑父、年を取ったな」  グンシュビと共に足かせを取り外しにかかっていた堂邑父の顔を見て、ふと、騫は言った。彼の顔には、深い皺が幾つも刻まれていた。 「お互い様でしょう?」  髪に白いものが目立ち始めた騫をからかうように彼は答えた。 「そうだな。十年だ。その間に、あいつは立派な若武者になったわけだ」  馬に乗り、疾風のように駆け抜ける駿の姿を思い出しながら、騫は呟いた。  間もなく、駿たちも高台に到着した。上の方にいる三人に合流するため、坂道を上りながら、ふと、休屠王の幕営の方を見た。  白い煙が、朦々と天高く上っていた。 「まだ煙が残ってる。火が上がったみたいだぞ」 「人畜無害という話でしたから、火の手が上がるはずはないのですが」  ふと、有為は思い出したように言った。 「そう言えば、安期先生は、煙玉は必ず一個ずつ使うようにとおっしゃってました。多分、このように煙が出すぎるからなのでしょうね。もしも、頂いた五つを一度に使ってしまったなら、国中が煙で埋まってしまったかも知れませんね。それはそれで、見てみたいものですが」 「……お前、今、とんでもないこと言ったぞ」 「え?」  駿は、何だかんだ言って有為も安期生と同類なんだと首を振った。  と同時に、もし、あの時、この煙玉があったならば、運命は変わっていただろうにと思った。  蘢はいわゆる石塚だが、色とりどりの綾錦で飾られていた。火は、その飾り布に放たれた。  雨の少ない地域故に、布は良く乾いており、あっという間に火は燃え広まった。石と石の間に挟まれた小枝も、広がる火の手に一役買った。そして、消火に慌てる匈奴たちを尻目に、衛青軍は撤退した。  去り際、駿は火柱に包まれた蘢を見上げた。  それは恐ろしく、美しい光景だった。  赤々と燃え広がる炎の中、何かがキラキラと光っていた。それは、玗琪の玉だったのだろうか……?  蘢城に火が放たれなければ、張騫とツルゲネの子は死なずに済んだ。  もし、そのことが事前に知っていたならば……。  駿は、大きく溜め息をついた。  自分は神仙ではない。未来のことなど、解りもしない。  でも神仙は――安期生や東方朔を見た限りではあるが、案外、何もしない。だから、神仙でなくて、良かったのだ。  この先に出来ること、彼女に、この先、自分がしてあげられること、それは何であるか、彼には解っていた。そして、それをするための決心も付いた。  駿は、ふと、彼女の顔を見た。  彼女は一点を見つめ、顔は緊張でこわばっていた。視線の先には、グンシュビと堂邑父に足枷を外して貰っている張騫がいた。  駿は、先に馬を下りると、手を差し伸べて彼女を下ろした。  彼女は驚いたように駿を見た。 「頑張れよ」  照れ笑いを浮かべながら、駿は彼女の肩を軽く抱いた。 「今までの恨み辛みを、洗いざらい、兄貴にぶちまけろ。全部、残らず。  そうしたら、新しく生まれ変われるんだ。もう、恨みなんて何もないところで、俺は、お前を待ってるから」  彼の笑顔を見て、ツルゲネは心の中で、何かが音を立てたのを感じた。  そう、確かに、騫に告げなければならない。自分たちの子供の最期を。  そうしたら、駿は自分のことを、受けいれてくれるのか?  自分は、どうすればいいのだろう。自分は、何をすれば、良いのだろう――  唇を噛み、考え込む彼女を尻目に、駿はグンシュビと堂邑父を呼びつけると、夫婦二人だけにするように頼んだ。  それから彼はもう一度、彼女の肩を軽く叩くと、そのままゆっくりと下に降りていった。  その途中で、三人は、()に会った。 「何で、こんなところに――」  その顔を見て、駿は驚きの声を上げた。  同じ頃、有為は自分の荷の中から、慌てて帛書を引っ張り出していた。 「どうしよう」  先生に言われた十万回には、まだほど遠かった。  まだ、七万八千四百九十五回。 「どうしよう」  来てしまったのだ。胡巫が。  仙術を身につけ始めた彼には、それがはっきりと感じられていた。  どうやら胡巫は、ツルゲネの変化によって、玗琪の玉も微妙に変化していることに勘付いたようだった。それで、道を急いでここに向かってきているのだ。 「どうしよう」  有為は、半べそになりながら帛書を握りしめた。今の自分に、彼らと対抗する力が、あるのだろうか?  有為は、下腹に力を集中し、呼吸を整えた。体中に気を巡らすために、ゆっくりと手足を動かした。それはまるで、様々な動物の姿を真似ているように見えた。  時には虎、時には鶴。様々な形態を取ることによって、様々な気が彼の中に入り込み、力を与えるのだ。  気力が体中にみなぎってくると、有為の精神も落ち着いてきた。  とにかく、やるしかないのだ。安期生――師匠の命は絶対なのだから。  有為は、敵が近づいてくる方を、じっと見据えながら、調息を繰り返した。  ツルゲネは、駿が触れた肩を、反対側の手でさすりながら張騫の前に立っていた。  言いたいことがありすぎて、何から言っていいのか、解らなかった。  呆然と立ち竦む彼女に対し、騫も、どこか所在なげにしていた。我ながらみすぼらしい格好だと、照れ笑いを浮かべながら頭を掻いていた。 「――久しぶりだったな。元気にしていたか?」  騫の言葉に、ツルゲネは何も答えなかった。ただ、彼をじっと睨んでいた。 「子供は、どうした?無事に生まれたのか?」 「……死んだ」  彼女は、懐から玗琪の玉の入った錦の袋を出して、そう呟いた。  これが、一番言いたかったことなのに、それ以上言葉が出なかった。ただ、涙が後から後から流れ落ちて、袋を濡らした。 「そうか……残念だな。会いたかった」 (駿……!)  ツルゲネの胸の中に、さっき、駿がかけた言葉が蘇ってきた。  恨み辛みを全部吐きだしたその先に、彼が待ってくれているというのに、肝心の言葉が、出てこない。  ふと、肩に何かを感じた。もう一度、彼が自分の肩を叩いてくれたような気がした。 「騫」  ツルゲネは、顔を上げて張騫の顔を見た。 「私は、駿が好きだ」  意外な言葉を聞き、騫はひどく驚いた。だが、すぐにホッとしたような、優しい笑顔を浮かべた。 「そうか……良かったな。あいつは、仲卿(ちゅうけい)(衛青の字)に似て、義侠心のあるいい奴だ。いい相手を見つけたな」 「……許して、くれるのか?」 「ああ。あいつなら、何の心配もない。安心してお前を任せられる。あいつならきっと、お前にこんな苦労はかけず、幸せにしてくれる」  彼の意外な言葉に、彼女はどうしていいのか解らなくなった。  こんなにあっさりと許してくれるのなら、今まで、自分が抱いていた恨みは、何だったのだろう?  自分は、何に苦しんでいたのだろう?  そう思った途端、玗琪の玉が解き放たれた。  彼女は、声にならない悲鳴を上げた。  玉の呪力に耐えかねなくなった体は、大きく海老反った。そしてそのまま虚空で止まった。彼女の顔からは血の気が失せ、目も半開きになり白目を向いていた。  胸の中心で、あの玗琪の玉がぎらぎらと赤く輝いていた。 「ツルゲネ!」  騫は、慌てて彼女を助けようと駆け寄った。しかし、何者かの手がそれを静止した。 「俗人は手を出すな!」  そう言ったのは、まさしく安期生であった。  彼は、豊かな黒髪をなびかせながら、掌で練った気を玉に向かって投げつけた。  安期生の放った気が、呪力を覆い込もうとした途端、嵐のような大風が起こった。  吹きすさぶ風をものともせず、安期生は大地をしっかりと踏みしめ、微動だにしなかった。  彼は、腕をゆっくりと動かしながら、玉の呪力を押さえ込もうとした。  と、その時、大地から無数の腕が生えた。それは争うように彼女の体に掴みかかり、地の底に引きずり込もうとした。 「地霊が動いたか!」  安期生は叫んだ。しかし、玗琪の玉の呪力を押さえるので手一杯であった。 「お任せあれ」  その声と共に何者かが、すっと彼女の下に入った。  それは、白く滑らかな玉で出来た羊であった。 「修羊公!感謝する」  修羊公は、華陰山にいる仙人で、武帝の父、景帝に招聘され参内したことがある。しかし、景帝には仙縁がないと見た彼は、化して石の羊の姿を取り、霊台の上で長いこと時を待っていた。  霊台とは、星々の運行を観察し、時の吉凶を判断するための、一種の天文台である。 景帝が薨去し、武帝が即位する頃に、霊台の石羊は姿を消した。  修羊公は漢朝と少なからぬ因縁のあるために、こうして加勢に現れたのだ。  長いこと石羊の姿を取っていたため、とっさの変化(へんげ)もやはり石羊であった。  ツルゲネの体は、石羊の背に横たわり、胸には玗琪の玉をしっかりと抱えていた。しかし、意識はなく、ぴくりとも動かなかった。  為す(すべ)がなくなった地霊たちの手は、石羊の体を叩いたりひっかいたりした。しかし、石羊はそれを何とも感じなかったし、地霊の手も、それ以上は何も出来なかった。  難儀をしていたのは安期生だ。  玉の呪力は想像を超え、安期生の持つ力でも、容易に封じ込めるものでもなかった。 (堪えろ!)  石の体を震わせて、修羊公は安期生を励ました。 (間もなく、東西王府から来る) 「解ってる。まだまだ、私一人でも持ちこたえられますよ」  苦笑しながら安期生は言った。 「しかし、女の情念というものは、()くに恐ろしい。これほどまでに、呪力が増すとは」 「――女を悪く言う者は、どこの者じゃ?」  と、天空から、(いと)の音のように響き、鈴の音のように涼やかな声がさやさやと響いた。  芳しい香りと共に、柔らかな光が、二人の仙人に向かってゆっくりと降りてきた。  有為は、帛書を抱えながら、草原の真ん中にただ一人で座っていた。  今更、慌ててこれを読んだって、十万回には及ばない。彼は、蓬莱での五日間を振り返りながら、彼らを待った。  そして、地平線の彼方に彼らの姿を見つけると、何度か深呼吸をしてから、ゆっくりと腰を上げた。  彼らの動きは速かった。地平線に姿を現したかと思うと、あっという間に有為の目の前に迫ってきた。 「ここから先は、通しません。師の命によりわたくしがお相手を仕ります」  両手を広げて有為は言った。  救いだったのは、相手は三人。  顔に文身を入れた三胡巫だけだったからだ。  三胡巫たちと共に玗琪の玉を追ってきた兵士たちは、安期生に全ての武器を奪われてしまい、新たな武器を調達するために散っていた。  事態の急変を察知した三胡巫は、彼らが追いつくのを待っていられずに先に現れた。  彼らは、漢の言葉は解さないが、有為が何をしようとしているのかは容易に察しがついた。  両脇の胡巫は、薄ら笑いを浮かべて中心の胡巫――長胡巫を見た。長胡巫は、有為がただ一人で、しかもさしたる霊力もないのを見て、ばかばかしいと首を振った。  長胡巫は、馬に鞭を当て、有為の横を通り過ぎようとした。彼に、他の二人も続いた。 「行かせはしないと、言ってるのです」  彼らの行動は、容易に想像がついた。  有為は両手を伸ばしたまま、くるりと体を回転させた。彼の手の軌跡から、蛟龍が現れた。  虹色に光る鱗を輝かせながら、蛟龍はシャーっという声を上げその細い体をくねらせた。  蛇のように細く長い体に、蹼(みずかき)の付いた四肢を持った蛟龍は、三騎の周りをぐるぐるぐると回り始めた。  三胡巫は蛟龍を見てニヤリと笑った。  脇の一人が銅鼓を取り出すと、蛟龍に向かってそれを打ち鳴らし始めた。  その音に、蛟龍はフルフルと体を細かく震わし始めた。  それを見たもう一人も、銅鼓を取り出し打ち始めた。  途端に、蛟龍はパチンと弾けて消えた。 「こんなのに手間取るな」 「すいません」  最初に銅鼓を打った男が、一番若輩らしい。その証拠に、彼の顔の文身は額の中央に、小さな木が入れられているだけであった。  男を叱ったもう一人の胡巫の顔の木はさらに大きく枝葉が広がり、額と頬の一部にかかっていた。  これは騎馬民の浄土、生命樹を象ったものだ。  長胡巫になると、その木は顔中を覆い、所々に聖獣の姿も彫り込まれていた。  彼らの持つ霊力と、文身は比例をしていた。  蘢城の胡巫の中でも、長胡巫を筆頭に、優れた霊力を持つ彼らが玗琪の玉の奪回に来たのだ。  玗琪の玉は蘢城の神宝。何としても、取り戻さなくてはならなかった。 「あの小僧に、精霊を使うというのはどういう事なのか、ひとつ教えてやるか」  長胡巫は有為の小手先の技を嘲笑しながら、箱を取り出した。そしてその中から、聖獣を呼び出した。  それは、虎のような縞模様を持つ、巨大な大蛇だった。  (いにしえ)の昔から玗琪の樹を守り続けていた大蛇の姿を招聘し、長い時をかけて育て上げた、胡巫の使役する精霊の中でも、最も霊力のあるものであった。  大蛇は大きく口を開けると、一直線に有為に向かって襲いかかった。 「その手、見切ってましたよ!」  先程のは、ただの時間稼ぎ。  有為は、安期生から聞いた話通り、彼らが大蛇を呼び出したことに正直ホッとした。彼らが蛟龍を消している間に、有為が準備したものと、見事に相性がいいのだ。 「おめおめと引き下がっては、師の顔に泥を塗ることになります。そう簡単には、負けられないのです」  そう言いながら、有為は呪符に向かって最後の口訣を唱え、それを大蛇に向かって投げつけた。  呪符は、空中でくるっと回転すると、巨大な白貂の姿に変じた。  それは熊ほども大きく、紅玉のような一つ目が顔の真ん中で輝き、雪のようにキラキラした毛並みを持つ白貂だった。それは、四つある前肢で大蛇に掴みかかった。  彼の意外な技を見て、長胡巫は仰天した。どうやら、彼の背後には、自分たちよりも優れた霊力を持つ者がいるらしい――  長は、一刻も早く玉を取り戻すべく、徹底的に有為を叩きのめすことにした。  彼は、両脇の胡巫に銅鼓を打ち鳴らすように命じた。  その銅鼓の音に乗って、長は新たな精霊を召還した。  靄が立ちこめるように、それはゆっくりと姿を現した。  それは金色に輝く鷲の姿を取ると、上空から一気に白貂に向かって向かって襲いかかった。 「あっ」  有為は、慌ててもう一枚の呪符を出すと口訣を唱えて鷲に向かって投げつけた。  と、それは巨大な緋色の鱏に変じた。鱏の巨大な体は、鷲から白貂の姿を見事に隠した。鷲は、白貂を見つけようと左に右に旋回したが、上手い具合に鱏が覆い尽くし、なかなか見いだすことが出来なかった。 「あぁ、もう……」  ふいに、有為は頭を抱え、へなへなとそこに座り込んだ。  もっと、こう、鷲に攻撃を挑むとか、何かして欲しいのだが、鱏は有為の言うことなど一つも聞かなかった。ただ、適当に虚空を漂い、偶然白貂を覆い隠しているのに過ぎなかったのだ。  有為は、白貂に大蛇を仕留めるように命じると、鱏をコントロールしようと、何度も試みた。だが、全く駄目だった。  そこへ、胡巫は新たな精霊を召還した。  それは、銀の毛並みと蒼い目をした、牛ほどもある狼だった。  狼は、鋭い牙を剥き、低い唸り声を上げて有為を睨み付けた。 「……どうしよう」  元から有為の腕では、二体も三体も鬼神を使いこなすことなど無理だった。また、鬼神を呼び出す五雷法以外の仙術も習っていなかったのだ。  有為は帛書を十万回読めなかったことを、今更ながらに後悔した。  狼は有為をいたぶるように、低い姿勢でゆっくりと彼に近づいてきた。有為は、覚悟を決めて、目を閉じた。  狼が襲いかかってくるまで、想像以上の時間が経った。有為は、不思議に思って、ふと、目を開けた。 「――有為!」  目の前に、狼の牙が迫っていた。遠くで駿の声が響いた。  あっと思った有為は、再び瞳を閉じようとした。  その時――  虹色に輝く光が、狼の頭を貫いた。  同時に、融けるように狼の姿が消えていった。 「何で……」  事態が飲み込めずに、有為は腰を抜かしたまま呆然としていた。 「遅くなって、悪かったな」  その彼の元に、駿が駆け寄った。駿は、有為の頭をくしゃくしゃと掻き回すと、敵を見据えながら笑った。 「勝ち戦だ。気負うな」  そこへグンシュビと堂邑父も二人に合流した。 「貴重な矢を、無駄にしたな」 「何を言う」  グンシュビの言葉を、駿は鼻で笑った。 「あんたやおっちゃんの腕なら、一本の矢で二人一辺に射抜くことぐらい、造作もないことだろう?」  グンシュビと堂邑父の手には、虹色に輝く矢が握られていた。  二人は、苦笑いを浮かべつつ、その矢を胡巫に向かってつがえた。
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