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第9章 海棠の誓い
「さっき、安期先生に会った」
駿の言葉に、有為は驚きの色を隠せなかった。
「いらしてたのですか!?」
「直に現れるさ。お前一人じゃ心許ないからって、俺たちに、この矢を渡していった。ただ、この矢は曲者で、使えるようになるまで時間がかかる上、一人一回しか使えない。どういう訳だか解らないが」
この矢は、持ち主の気を凝縮して効果を発揮する。それ故、常人では使えるまで時間がかかるし、一度しか使えないのだ。
これが安期生や修羊公のような仙人であれば、時間もかからないし、無限に、幾度でも使えることができる。
「その貴重な矢を無駄にしてしまったのですね」
駿の言葉に、有為は申し訳なさそうに言った。
「馬鹿。お前を助ける方が先だ。それに、堂邑のおっちゃんなら、一本で二人ぐらい、楽に出来る」
そう言って、堂邑父の方をちらりと見た。
堂邑父は軽く頷くと、力一杯矢を引き絞った。
しかし、相手も何もしていないはずはなかった。
長胡巫は両手を大きく広げて円を描いた。と、その軌跡に合わせて見えない壁が現れ、彼らの姿をふっと消し去った。
「これでは、射られない」
標的を見失ったグンシュビが、弓矢を下げて困ったように呟いた。
「そうですか?」
その様を見て、堂邑父はニヤリと笑った。
「姿は消しても、音は消えてません。気配もしかり。標的を見失ったわけではないのです」
実際、精霊を操るために銅鼓は打ち鳴らされ続けていた。しかし、姿が見えなくなった今、その音は四方八方から聞こえてくるように思われた。
その音に耳を澄ましながら、堂邑父はゆっくりと矢の照準を合わせた。それから、力一杯に矢を引き絞った。
ひゅん、という風切り音と共に、矢は放たれた。
矢は、ふっと虚空で止まると共にものすごい衝撃波が起こった。
硝子が粉々に砕け散るように、見えない壁が、無機質な音を立てて崩れた。
矢は、その壁の向こう側、長胡巫の眉間に見事に突き刺さっていた。
長胡巫は、そのまま馬から崩れ落ちていった。
若輩の胡巫が、慌てて長を助け起こそうとしたとき、グンシュビの矢が彼を貫いた。
「有為!」
それを見た駿は叫んだ。
「霊力は削がれた。今こそ、あの化け物たちを消し去る好機だ」
「ど、どうやって!?」
「何で俺に訊くんだよ?お前、何を教わった?」
「一体で、二体を相手にするなんて、私には出来ません」
力が衰えたとはいえ、残った一人によって二体の精霊は相変わらず目の前にいた。
白貂と大蛇は、互いの牙と爪で激しくもみ合っていた。金色の鷲は、行く手を阻む鱏に痺れを切らし、その背を何度も嘴で突いていたが、鱏は全く動じることなく、ただ、鰭をゆっくりと上下させながら虚空を漂うだけだった。
「お前だって、二体出してるだろう?」
「あの鱏は、私の言うことなど何一つ聞いてはくれないのです」
有為の言葉に呆れながらも、駿は鬼神たちの動きをじっと見た。
「あの白貂は言うことを聞くのか?」
「ええ」
駿は虚空で戦いを続ける鬼神たちを指し示しながら、有為の耳元で何やら呟いた。
「そんなこと、出来ません!」
「いいから、俺の言ったとおり、やってみろ」
駿は、有為の肩に手を当てて言った。そして、鱏と鷲の動きをじっと見つめた。
「今だ!白貂を大きく左に動かせ」
有為は、手を大きく回し口訣を唱えた。と、白貂はものすごい速さで左に飛び、鱏の影から出た。
やっと白貂の姿を見つけた鷲は、白貂に向かって一直線に舞い降りようとした。
と、鱏の目が、光った。
鱏にしては慌てて――だがやはり緩慢とした動きで、左に移動し鷲の邪魔をしようとした。
「蛇を、上へ放り投げろ!」
白貂が大きく動いたことで、大蛇も慌てて貂に向かって襲いかかってきた。貂は大蛇の胴体をむんずと掴むとその勢いのまま上空へ放り投げた。
何かの影が飛び出たのに気付いた鷲は、反射的にそれに飛びかかった。
いきなり掴みかかられた大蛇はシャーッと牙を剥くと、それを鷲の足に向けた。
「よし、同士討ちだ。これで弱った方を先にやるんだ」
「漁夫の利…ですね」
同士討ちを始めたのを見た胡巫は、銅鼓を打ち鳴らしてそれを止めようとした。
「有為!白貂をあの胡巫に向けろ。銅鼓を邪魔するんだ」
「解りました!」
有為は、口訣を唱えて白貂を動かそうとした。が、途中で止めた。
その必要が無くなったからだ。その時、銅鼓の音は止んでいた。
胡巫の首が、落とされたからだ。
背後から忍び寄ったグンシュビが、迷わず彼の首と胴をざくっと切り離した。
駿は、あまりの残忍な光景に目をそむけた。
眉間に矢が刺さった長胡巫は、致命傷だったが、若輩の胡巫は深手ではあったが、致命的な傷ではなかった。
その胡巫には、堂邑父が止めを刺した。
それを見て駿と有為はいたたまれない気分になった。
彼らは確かに敵であるが、戦士ではない。
力さえ削げれば、殺す必要など無い。むしろ、生かしておいて、後で何かの役に立つようにさせた方がいいかもしれない。
衛青だったら、そうしただろう。
漢軍の将でも、このような仕打ちに出る者もいるが、そのような残忍な将では、兵士は付いてはいかない。
衛青軍の結束が固く、強いのは、偏に彼の度量の大きさが物を言っていた。
駿は、その衛青に戦士として徹底的に叩き込まれた男だ。グンシュビと堂邑父のやり方に、眉をひそめるのは、当然のことであった。
だが、この残忍さこそ、彼ら騎馬民族の強さでもあった。
(こういう連中を、この先相手にするのだ…)
始まったばかりの、匈奴との戦いは、簡単に済むものではないことを、駿は改めて実感した。
制御する者がいなくなった二つの精霊は、徐々に弱っているように見えた。
「良し、有為。まず蛇を狙え!」
「はい!」
白貂は、大蛇の頭にかぶりつき、そのまま飲み込んだ。そこへ、鷲が邪魔に入ろうとしたが、ことごとく鱏に阻まれた。
大蛇を飲み込み終わると、白貂は鷲に襲いかかった。そして、足を掴むと、そのまま二つに裂いた。
裂かれた鷲は、まるで雪が解けるように、すうっと空気の中に消えていった。
使命を果たした有為は、白貂にねぎらいの言葉をかけ、口訣を唱えた。
すると白貂の姿も消え、後には一枚の札が残った。
その札を拾い上げ懐にしまうと、有為は、困ったように溜め息をついた。
「どうした?」
「あの鱏は私の言うことなど、一つも聞かないのです。どうやって消したらいいのか」
「大丈夫さ、まあ、見てろよ」
「え?」
有為は、言われたとおりに鱏を見た。と、鱏は背中に付いたつぶらな瞳をきょろきょろさせ、そのままゆっくりと蒼天に融けて、消えていった。
「何で?」
勝手に消え去った鱏を見て、有為は驚きの声を上げた。
「あれも、白貂も、蓬莱の生き物だろう?」
「ええ、そうです。安期先生からお借りした物ですから」
「あの鱏は、守り神みたいなもんじゃないか?」
「守り神?」
「ずっと白貂を守るように動いていた。守る物が帰ったから、あいつも帰ったんだろう」
「偶然、守っていたのではないのですか?」
「いや、ちゃんと意志があって、動いていたぞ」
「全く気付きませんでした」
その言葉に、駿は苦笑いを浮かべて彼の髪をくしゃくしゃに掻き回した。
「お前、大丈夫かよ!?よくまあ、こんなのを安期先生は選んだもんだ」
「ほっといてください!」
駿に乱された髪をなおしながら、有為はハッとした。
「どうした」
「あれを見て下さい」
有為は、空に浮かぶ雲を指さした。
それは、赤、青、黄、白、黒の五色が光ながら入り乱ていた。こんな奇妙な雲、駿は今まで見たことはなかった。
「太極雲です。何かが、起こっているようです」
「何か?」
「行きましょう」
有為は、雲が流れていく方に向かって走り出した。駿はその後を慌てて追いかけていった。
それは、見てはならぬものだ。
彼――張騫はそう感じた。
五色の光と共に、芳しい香りが辺り一面にふんわりと広がった。
光と香りに包まれ、その方はゆっくりと天から近づいてきた。
神仙の祟りを恐れ、騫は思わず目を閉じ、耳を塞いだ。
騫のことなど、髪の毛一本ほども気に止めず、その方は数人の侍女を従え、天より舞い降りた。
「爾(なんじ)、勝手なことを申すでないぞ。それは、母の持つ、深い慈愛が転じたもの」
彼女は、挨拶もそこそこに、安期生の側に立った。
その方は、九霊太妙亀山金母。西華至妙の気から化生し、西方を治める故に、西王母とも呼ばれていた。
金母という名のとおり、彼女は柔らかな、白金の光に包まれていた。
柔らかな唇は、艶のある紅色で彩られ、微かな笑みが浮かんでいた。見る角度や、その時々の表情で、無垢な童女のようにも、年を経て知恵を蓄えた老女のようにも見えた。
服装や髪型からは、三十前後の夫人である様に見えたが、彼女は化生してより、未来永劫、同じ姿でいる、不変の存在であった。
「さあ、ではこの憎悪を、その慈愛に、変じましょう。東王は?」
「――ここにおりますよ。西王」
と言う言葉と共に、俊風(東の風)が吹いた。
柔らかく舞い降りた西王母とは正反対に、荒々しく、突然の風と共に東公木公は現れた。
その方は東華至真の気から化生し、東方を治める故に東王父と呼ばれていた。
白金に包まれた西王母とは対照的に、東王父は青銅色に包まれて立っていた。そして西王母と同じように、一切の年齢を超越した不変の存在であった。
東王父は日の昇るところを支配する。それは、陰が極まり陽に転ずる場所であった。
対して西王母は、日の沈むところを支配する。それは、陽が極まり陰に転ずる場所であった。
二人は、太極を統べる者。
それ故、玗琪の玉の持つ呪力を転ずる力を持っていた。
彼らは「呪」を「嘉」に、「憎」を「愛」に転ずる事が出来るのである。これらは表裏一体。根本は同じものである。
再び俊風が吹いた。転化が始まったのである。
西王母は、手を伸ばし、自分の住む亀山にある瑶池より水を呼び寄せた。
気は風によって散じ、水によって留まる。
東王父の起こした風により、玗琪の玉に集まった呪力の気は散じ、瑶地の水によって再び集められた。そして、陰陽太極の理念により、「呪」から「嘉」に変じた気は、再び玗琪の玉に注ぎ込まれた。
俊風が吹き、瑶地の水が雨のように注がれるその光景は、この世のものではなかった。神仙界でなければ見られぬ、美しい光景であった。
張騫は、目を閉じ、耳を塞ぎ、それを見なかった。
しかし、二人はそれを見てしまった。
――駿と有為、二人はちょうど転化が絶頂に達した頃、そこに辿り着いた。
二人は、その荘厳な光景を、ただ息を潜めて見守るしかなかった。
発する言葉もなく、ただ、そこで、立ち竦むことしか、出来なかった。
瑶地の水が、玗琪の玉に降り注ぐ中、玉の色は血のような深い赤から、つややかで明るい赤に、ゆっくりと色を変えていった。
そして、それが完全に変色し終わると、雨と風は止んだ。
西王母と東王父は、互いの目を合わせ、微笑んだ。
「後は、そちらの仕事だな」
「はい。解っております」
東王父の言葉に、安期生は深く頷いた。東王父はまた、全ての男仙を統べる者でもあった。
東王父と西王母は、来たときと同じように、すっと、跡形もなくその姿を消した。
安期生は、ツルゲネの胸から玗琪の玉を持ち上げ、その掌に取った。同時に、彼女を乗せていた石の羊は、すっと姿を消した。
彼女の身が地面に落ちる前に、男の両手が彼女を拾い上げた。
彼は、彼女を抱きかかえたまま、張騫の方に歩いていった。彼こそ、仙の姿に戻った修羊公、その人であった。
彼は、麻の衫に白い綿入れを羽織り、頭の両脇の髷が、ちょうど角のように見えた。細面の顔に、小さな顎髭が相まって、確かに修羊公の名のとおり、どこか羊を連想する容貌を持っていた。
「もう、嫁御は大丈夫だ」
修羊公はそう言って、彼女を騫に渡した。
騫は、目を開けると、まだ夢を見ているような気分のまま、彼女を受け取った。
「有為!こちらに来い!」
玗琪の玉を手にした安期生は、有為を呼んだ。有為は慌てて彼の側に駆け寄り、跪いて頭を垂れた。
「一応、首尾良く終わったようだな」
「いえ…わたくしの力では…。第一、先生のお申し付け通り、あの書を十万回読むことが出来ませんでした」
「おや、おかしいな?お前、数え間違いをしていないか?」
「は?」
「お前、寝ても覚めても、あの経文を繰り返していただろうに。かなりの数、抜き忘れているぞ」
そう言うと、安期生は有為の懐から帛書を取りると。そこから絹糸を抜いた。絹糸の束は、風に乗って方々に散っていった。
「足りないのは、あと一回。まあ、それくらいは大目に見よう。今、ここで読むことを許す。読み終われば、お前は正式に蓬莱の門下だ」
「ありがとうございます!」
有為は、恭しく帛書を受け取ると、それを読んだ。――読むと言っても、ほとんどの縦糸を抜き取られたそれを読むわけにはいかず、正確には暗唱したということになるのだが――
最後の一本を抜き取ると、帛書はそのままバラバラになり、風に乗っていった。そして、雪が消えるように、一本一本溶けて消えていった。
ツルゲネを張騫に託した修羊公もやって来ると、有為の顔を見て言った。
「安期先生、彼がその子か?良くこれだけ短い期間に、あれだけの技を教え込めたな」
「まだまだ、あれは猿まねに過ぎませんよ。ちゃんと仕込むのはこれからです」
安期生は、有為の顔を見て笑った。
「では行くぞ、これを持ち、五帝の壇に届けるのは弟子のお前の仕事だ」
それから、彼は駿の方を向いた。
「私たちは、これで蓬莱に帰る」
「帰るって…有為は!?」
「私も、蓬莱に行くのです」
「何だって?」
「最初から、そう言う話だったのです」
少し寂しそうに、有為は笑った。
「父と継母に、私のことを、よろしくお伝え下さい。まあ、父は私が安期先生の元にいることを自慢するでしょうし、継母は継母で、自分の息子が正式に跡取りになるのですから、この先も安心して過ごすことが出来るでしょう。
家を出るのが親孝行なのは、私ぐらいですね」
そう言って笑う有為の頭を、駿は思わず小突いた。それから、髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回した。
「馬鹿言うなよ」
駿も、有為も、涙声だった。
「両親とは、永遠の別れかも知れませんが、独生どのとは違うような気がします。いつか、蓬莱にいらして下さい」
「誰が行くか」
「いや、お前は来るさ」
不意に安期生が口を挟んだ。
「俗人が見るはずのない光景をお前は見たのだから、縁があるのだよ。いつか、必ず来ることになる」
「止めてくれよ」
駿は首を振った。それから、安期生の目をしっかりと見据えながら言った。
「俺が身を置くところは、殺戮の繰り広げられる、血生臭い戦いの場だ。あんたたち仙人のいる清浄な世界じゃない。決して行く事なんてない」
その言葉を聞くと、安期生は修羊公と目線を交わして笑った。
「でも、待つのは勝手だろう?お前はお前のいるべき世界に行けばいい」
「ああ、そうするよ」
仙人たちは、大した別れもせず、そのまま、すっと姿を消した。
有為だけは、名残惜しそうに駿の顔を何度も振り返り、そして呟いた。
「きっと、また、私たちは会える、そう思います」
そして、有為も姿を消した。
別れは、案外呆気ないもの。
そう思いながらも、駿は有為の消えた後をずっと見つめていた。
長安を出て、ここまで来る間のことが脳裏に蘇ってきた。あっという間のような気もするし、とても長い旅だったような気もした。
いつも、隣にいてバカを言い合っていた相手が、いなくなってしまった。そのことを、すぐに受けいれることには、無理があった。
「彼らは、一体……?」
事態を飲み込めない騫は、茫然としながら呟いた。
「あいつらは、あんなものさ。関わらない方が、良いんだ」
そう言って駿は振り返り、騫の腕の中にいるツルゲネの様子を見た。
「眠っているだけのようだよ」
騫はそう言いながら、駿の顔を見た。
「兄貴……俺……」
騫の前に跪き、何かを言おうとした駿を、騫は慌てて制した。
「それ以上言うな、解ってる」
「え?」
「ツルゲネから、聞いた。お前から正式に申し入れなくて良いさ。そんなことされたら、俺は、自分がいかに年を取ったか思い知らされてしまう。ごめんだ、そんなこと」
そう言いながら、彼はツルゲネの体を駿に預けた。
「幸せにしてくれよ。こいつを。……願うのは、それだけだ。胡の地で共に暮らしはしたが、今は、何か、妹みたいな感じなんだ」
「兄貴、俺――」
「なんだか、別人のようですな」
堂邑父はそう言って笑った。
「俺もそんな気がする。この格好は、何しろ十年ぶりだ」
髪と髭を整え、駿の持ってきた服に袖を通した騫は照れくさそうに笑った。
「兄貴、痩せた?」
騫の服を整えながら、駿は訊いた。
「まあな。苦労したからな」
そう言って彼は笑った。
「じき、戻るさ。年を考えると、逆に太るかもな」
「じゃあ、そう言っておくよ、兄貴の家に」
この服は、出発前、張騫の家に寄って借りてきたものであった。彼の服は、十年間大事に取ってあった。
「……みんな、変わりはないか」
「十年たったけど、幸い、減ってもないよ。増えてもないけどね」
「そうか……あいつも、まだ、残ってくれてたか」
「嫂さん、子供、育てながら、待ってるよ、帰りを。あいつらもでっかくなったから、きっと、兄貴、会ったらびっくりするぞ」
「そうか。お前もでかくなったな。俺より大きいじゃないか」
「去年の秋、親分の背も超した」
背だけは大きい駿は、照れくさそうに笑った。それから、荷物の中から厳重にくるまれた物を大事そうに取り出した。
「これは、陛下から預かった物です。もし、まだ使命を果たすのであれば、これを使ってください」
騫は駿からそれを受けると、荷を解いて中身を確かめた。
それは、見事な絹織物の数々であった。
「出発したとき持っていった物は、どうせ匈奴に奪われたのでしょう?」
「ああ、有り難い。陛下は、私に何と?」
「月氏に使いするも良し、共に帰国して従軍するも良し。どちらかを望む方を選べと言うことです」
「では、最初の目的を果たしてから、戦に加わると、そう報告してくれ」
「解りました。――俺も、親分も、兄貴がそう言うと思っていた」
駿は、グンシュビが自分の真横で、反物の数々をうらやましそうに覗き込んでいるのに気付いた。
「岑陬、何だよ」
「こんな良い物を持っているなんて、何で言わなかったんだ」
「言ってどうするんだよ!」
そのやりとりを聞いて、張騫は笑いながら反物の一つをグンシュビに渡した。彼は、驚きつつもそれをしっかりと受け取った。
「漢と好を通じれば、こんな物、欲しいだけ手に入る。烏孫王孫よ、解っているか?」
「ああ……」
騫は、反物をもう一つ、彼に渡した。
「頼みたいことが二つある。これで聞いてくれるか?」
「喜んで」
グンシュビは手にした上等の反物を返す返す確かめながら、深く頷いた。
「一つは、私たちを月氏まで送り届けて欲しい。もう一つは、駿の馬を、お前の駿馬と取り替えて欲しい」
「どちらも簡単なことだな。その程度で良いのか」
月氏と烏孫の間には、大宛(フェルガナ)・康居というオアシス国家があり、烏孫とこれらの国家の関係は良好であった。これらオアシス国家を抜けて月氏まで行くことは、そんなに難しいことではなかった。
「それが大事なんだよ」
そう言って騫は笑った。
「私は無駄な時間を使いすぎた。一刻でも早く、陛下の命を成し遂げたいのだ。それに駿も、早急に復命しなくてはならない。烏孫の助力は有り難いのだ」
「こちらも、漢は魅力的な国だ。好を通じることが出来れば、それに越したことはない」
「交渉成立だな」
駿は、グンシュビの馬と自分のを交換すると、慌てたように荷造りを始めた。
「急ぐのか?」
グンシュビは駿に訊いた。
「ああ、出来れば、今日中に発つ」
「もう昼過ぎだぞ。今からでは、そう遠くまでは行けまい」
空を見上げ、太陽の位置を確かめながら、グンシュビは言った。
「そんな暢気にしてられないのさ」
三胡巫は皆、首を刎ねられ、胴体と共に野ざらしにされている。胡巫の援軍が、その死体を発見するのは時間の問題だ。
彼らが追っていたのは、張騫の妻だし、張騫も休屠王のところから逃げ出している。
三胡巫の死に、張騫と漢が絡んでいると言うことは、誰しも考えるであろう。
彼らが復讐に出る前に、漢の防備を固めなくてはならない。駿は、一刻も早くそのことを漢軍に伝えなくてはならなかった。
「ま、一人だからな、日に夜に継いでいくつもりだよ。それに、あんたの馬は速いから、今からだって、結構、先に行けるさ」
「――一人なのか?」
「一人だよ……もう、有為は仙人とどっかに行っちまったしな」
そう言いながら、駿はツルゲネの方を見た。
彼女は目は覚めたものの、まだ、ぼんやりと座り込んでいた。
「どうして、私を置いていくのだ!」
駿が単騎、出発すると聞き、当然のことながらツルゲネは怒り、彼に詰め寄った。
「ツルゲネ」
それを張騫は静かに制した。
「お前は、私たちと一緒に行った方が良い。その方が……」
「結局は、駿とのことを許してくれないのか!?」
彼女は、今度は騫の方に詰め寄った。
「違う、そうじゃない。彼には大事な使命があるのだ」
「だからって、私が一緒に行ってはいけない理由にはならない」
駿は、慌てて二人の間に立った。
「俺が、兄貴に頼んだんだ。兄貴たちと一緒に行ってくれって」
「駿!?」
「ちょっと来い!」
駿は彼女の手を引いて、皆とは少し離れた場所へ連れて行った。
「悪いと思ってる、だけど……」
「私を見捨てるんだな」
「違うって」
どうしても話が合わないことに、痺れを切らした駿は、思わず彼女を抱きしめた。
「頼むから、落ち着いて、俺の話を聞いてくれ」
駿は、体を離すと、彼女の目をじっと見つめた。光に当たると、微妙に色を変える彼女の瞳は、不思議な宝石のようだった。
「俺は、急いで漢に戻らなきゃならない。戦が始まりそうな雲行きなんだ。それを一刻も早く、伝えなければならない」
「私は有為とは違う。彼よりずっと速く走れる。足手纏いにはならない」
駿は困ったように首を振った。
「だが、敵が来たらどうする?俺一人じゃ、守りきれないかもしれない。兄貴たちと行けば、守ってくれる男が三人もいるし、烏孫の領内に入れば、そうそう襲われる心配もなくなるはずだ。それにここからだと、漢より烏孫の方が、ずっと行きやすい」
「お前は、私を守ってくれるのだろう?今まで、ずっと守ってくれた。これからだって、守ってくれるのだろう?」
「そのつもりだよ、だから」
必至に食い下がる彼女を、どう説き伏せればいいのか、駿は途方に暮れた。そして深呼吸を何度も繰り返した。
それから駿は、自分の肩に掛かっていた巾をほどくと、彼女の肩にかけた。
「これぐらいしか、やれる物なくって悪いんだけどさ……」
照れ笑いを浮かべながら、彼は言葉を続けた。
「俺、あんたが強くて、弱いのを知っている。あんたの弱いところは、必ず俺が守る。だから、あんたの強いところに、頼って良いか?」
「どういう事だ」
「必ず、兄貴を漢に連れ帰って欲しい。
岑陬はあんな性格だから、信用できないし、堂邑のおっちゃんは、一回裏切っている。俺が一番信じられるのは、ツルゲネ、あんたなんだよ」
初めて自分の名前を呼ばれた事に気付いた彼女は、少し頬を染めた。
「約束しただろう?海棠の花の下で、待ってるって。待ってるから、必ず兄貴を連れて、漢に、長安に来てくれ」
「だが、月氏は遠い。一年では帰ってこられないかも知れない」
「何年でも待つよ。絶対。二年でも、三年でも、十年だって、二十年だって、あんたが来るまで、ずっと待つよ」
「本当だな」
「本当だよ。海棠の花の下で、また会おう。そうしたら、ずっと側にいる。側にいて、ずっと守るから……」
「ずっと、一緒なんだな」
「ああ、約束する。それまで、こんなので悪いけど、俺の分身だと思って、これで我慢してくれよ」
彼女の肩にかけた巾の形を整えると、もう一度彼は、彼女をぎゅっと抱きしめた。
遠くで、二人の様子をじっと見守っていた騫は、それを見て思わずふっと笑った。
「どうしたのです」
「いや、何、娘なんだな、と」
堂邑父の問いかけに、彼は手を軽く左右に振って答えた。
「あいつに会って、十年近くになるが、年頃の娘だって実感したのは初めてだよ」
彼の言葉に、堂邑父は不思議そうな顔をした。
「こうなったら、何が何でも、あいつを漢まで連れてかないとな。命に替えても」
「団長は、死ななくて結構。まず命を差し出すのは、自分ですよ」
そう言って、堂邑父は騫の肩を叩いた。
「そうさせてくださいよ。出なければ、償いきれませんから」
今日の空は、とても高く感じた。白い雲が、ゆっくりと横切っていく。
その光景は、先程までの争乱が夢ではないかと感じさせるほど、長閑(のどか)であった。
間もなく、駿は東に向かい、ただ一人で旅立っていった。
ツルゲネは、彼から貰った巾をぎゅっと握りしめ、見えなくなるまでその姿を見送っていった。
「すっかり遅くなってしまって、悪かったな」
後ろの彼女を気にし、済まなそうに騫は言った。
「仕方ない。それにもともと、花の盛りに会う約束だったんだ」
「だが、その花も盛りが過ぎて、散り始めてしまった。本当に申し訳ない」
「気にするな。どうせ、お前たちはお国が大事なんだ。騫も、駿も、勅命第一だろう?私がじたばたしたって、どうにもならん」
駿と別れ、気がつけば三年近くが経ってしまった。
匈奴を抜け、烏孫から月氏に行くまでは順調だった。ただ、訪れた国々で、それなりの期間を滞在したため、月氏を出る時点で既に一年以上が経ってしまった。
月氏は、大夏(アフガニスタン東部)を支配下に治め、南方のインド文化、西方のヘレニズム文化に触れ、遙かに離れた東部への関心は薄れていた。
それ故、張騫の当初の目的である、漢との同盟を結ぶという使命は、果たされぬままに終わった。
しかし、月氏に変わり、烏孫との同盟を取り付け、当時、華夏に知られていなかった地についての詳しい情報を持ち帰った彼は、当初よりも遙かに大きな使命を成し遂げたと言ってもいいであろう。
月氏から漢に戻るのも、途中までは順調であった。
しかし、秋口に入り、匈奴と漢との戦闘が始まるとの情報を受け、彼らは河西回廊を避け、青海(チベット方面)より漢に戻るルートを取った。
しかし、青海に駐留していた匈奴軍に見つかり、彼らは再び囚われの身となってしまった。
一年近く拘留生活を送っていたが、期せずして単于が亡くなり、匈奴軍は一時混乱に陥った。その隙をついて、彼らは烏孫に救援を頼み、グンシュビが送った間者によって、やっと脱け出すことが出来たのだ。
張騫とツルゲネ、そして堂邑父が長安に戻った時には、休屠王の幕営を抜け出してから、二年半以上の月日が流れていた。
その間に、漢軍と匈奴は、激しい戦闘を繰り返していた。
帰国した時もまた、匈奴軍との戦闘のただ中にあり、騫は休む間もなく、漢軍のために奔走することになった。
ツルゲネは、騫の家で、彼の正妻や子供たちと共に戦の終結を待つことになった。
彼女は、騫の胡妻というより、駿の許婚者として扱われ、待っている間、漢の風習や礼儀作法を正妻から教わっていた。
「あの子は、こんな事、頓着しない子だけどね、何しろ、皇太子の姻戚に繋がっちゃうんでね、あんたはしっかり覚えなさいな。こういう事は、女がしっかりしないとね」
騫の正妻は、事あるごとにそう言って彼女に発破をかけた。
十年以上も夫の帰りを待ち、女手一つで子供たちを育てただけの人である。芯の強く、気っ風の良い女丈夫で、ツルゲネはすぐに彼女とうち解けることが出来た。
幼い頃から駿のこともよく知っていたので、彼女のする昔話が、沈みがちだった彼女の気分を紛らわせた。
長安に来て半年、別れて以来、一番駿の近くにいるはずなのに、彼のことは、風の噂にすら聞くこともなかった。
騫ですら滅多に姿を見せないような状況であったので、仕方のないことだと、彼女は毎日のように言い聞かせていた。
戦が終わり、全ての雑事が片付き、やっと衛青の屋敷に行けるとなった頃にはもう、海棠の花も終わりに近い時分になっていた。
「ほら、あそこが仲卿の家だ」
そう言って騫が指さした先を、ハッとするように彼女は見た。
荘厳な門構えの向こうから、立派な海棠の花が揺れて散っていくのが見えた。
あの木の下に、駿が待っている。
本当に、そうだろうか?
彼女は急に不安に駆られた。
同時に、嫌な噂が耳に蘇った。
三胡巫が殺され、玗琪の玉が奪われた後、案の定、匈奴は漢に復讐戦を仕掛けてきた。
それは、壮絶な戦いであった。
その戦で、有能な若い将校が、数多く命を落としたという。
もし、その死者の列に、駿が加わっていたら?
半年間、彼からの音沙汰が全くない不自然さが、それで説明が付いてしまう。
彼女は、その思いを否定しようと、彼から貰った巾をぎゅっと握りしめた。
そして、僅かに残った彼の汗の臭いを嗅いだ。
寂しいとき、不安なとき、いつもそうしていた。彼が、すぐ側にいてくれるように思えた。
「ツルゲネ?」
彼女の様子に気付いた騫が、声を掛けた。彼女は慌てて笑みをつくろった。
「何でもない、行こう」
風に飛ばされて、衛家の海棠の花びらが飛んできた。薄紅の綺麗な花びら。
(約束したんだから、きっと、待ってる)
駿は、約束を破るような人間じゃない。
どんなに傷ついていても、たとえ、死んで幽鬼となっていても、あの木の下で、ずっと自分を待っているはずだ。
そして、どんなに姿が醜く変わり果てていようとも、幽鬼となっていようとも、自分は変わらず彼を愛し続ける。
ずっと、側にいる。
「私たちは、離れない、もう」
そう言って、彼女は風に飛ばされた花びらを掌の乗せた。そして、そっとそれを握りしめた。
先に門を潜った張騫が、知己に出会って感嘆の声を上げているのが耳に入ってきた。彼女は何度も深呼吸を繰り返すと、微笑みながら、彼の後に続いた。
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