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2 官能小説家を目指す
さて、官能小説家になりたい場合はなにからするべきなのだろう。すっかり脳がそっち方向ばかり見て、コーヒーにミルクをクルクルして色が変わることもエロく思える。
重症だ。交じり合う、溶け合う、混ざり合う。
日常生活の節々にエロは隠れている。生物の授業なんて聞いていられませんよ。精子に受精。ああ、公子さんが恋しい。
この教室の中にも僕以外に愛読者はいるだろうか。普通の小説を読む人間すらいない。しかし、同じ文字ながら別物だ。もしもいるならば、高校生活の最後に親友ができるかもしれない。
「本郷さん、新しいジャンルに挑戦しようと思うのですが?」
部室で次の作品の小箱を書く本郷さんに相談してみた。
「先輩の文章でラノベですか?」
本郷さんが僕を一瞥した。受験生のくせにと思っているのだろう。
「違います」
「先輩って感情が薄いからラノベも書きようによっては合ってる気もしますけど」
「褒めてる? けなしてる?」
「両方です」
いじわるな本郷さんもチョコレートを一粒あげれば何でも教えてくれる。
「新しいジャンルの小説に挑戦したいとき本郷さんならどうする?」
「そうですねぇ。まず賞に出すかネットに掲載するか決めますね。今は取り決めうるさいですから。性描写があるとか、暴力行為があるとか」
「ほう。じゃあ、賞に出すとしたら?」
「その賞の方向性を調べますかね。過去の受賞作読んで分析したり。選考員が変わって全く畑違いのが受賞したりもしますけど」
「なるほど」
まず、名作を読んでみるべきなのだろう。だが、官能小説については昨今それも縛りがある。ネットで買えるのだろうか。学校の図書館にはさすがになさそうだ。部室にも昔の純文学の小説ならあるがさほどエロスは感じない。病んでいるものが多い。
昔はネットがなかったから官能小説を読むしかなかったが、今ではありとあらゆるエロが世の中に混在している。
この前、マンガを買う妹に付き合って電気街に行ったらパジャマ姿のお姉さんが道の端に立っていた。客引きっていけない行為ではなかっただろうか。アイドル崩れなのだろうか。楽してお金を稼ぎたいだけ? その仕事に危険はないの? 無防備すぎる。
春風のほうがよっぽどかわいい。今日はメガネと帽子で変装をしている。滅多に表に出ない作家さんのサイン会の同行に駆り出されている。男か女かも知らない相手を見に行きたいという春風の気持ちは理解に苦しむ。ただ、その人の本を持って行列に並んでいる。
雨の日なのに外まで人で溢れかえっていた。
「撮影はご遠慮ください。一歩ずつ、ゆっくり前に進んでください。なるべく間隔をつめて」
書店の人はレインコートで準備万端。一歩前に進んだら前の人の傘の雫が撥水加工のない僕の靴のつま先に降ちてくるような気がする。いいな、この感覚。SとかMっぽい。未体験だから想像力だけ逞しくなる。
春風が会いたかったのは人の目を直視できないマンガ家さんだった。嫌ならサイン会なんて開催しなければいいのに。きっと、誰かに説得されたり、或いはファンの暴動が起きかねなかったのかもしれない。家がバレていて面倒なファンが来ちゃったりするのかもしれない。
「ありがとうございます」
自分の名前と日付だけを書いた。たぶん、女の人。マンガ家とか小説家の性別なんて関係ないなといつも思う。なぜか僕だけ握手をしてくれて、春風のみならず周囲が一瞬ざわつく。
恐らく、直感で気づかれた。少し昔のように手をインクで汚したり筆で指を曲げることはなくても、物書き特有の苦悩が顔と手に出ていたのだと思う。現に行列に並んでいる間、ずっとエロいことを考えていた。そう、公子さんのことを。行列が僕をそうさせた。尻がずっと並んでいるのだ。この書店になら官能小説があるのだろうか。
「お兄、ずるい」
「すいません」
僕がもらったサイン本は誰かにあげるらしく、春風に回収されてしまった。手に、柔らかい感触だけ残っている。BL作家さんなんてエロの師匠だったかもしれない。いろいろ聞けばよかった。世の中には教えてくれる人がいるのだろうか。
まだまだ行列は続いているし、やばい輩が一度サインをもらったのにまた列に並ぶ。正義感の強い春風はこっそりスタッフさんに告げ口。
ファンは女性が圧倒的に多い。こういうところに出てくるのが女性が多いだけであって、隠れファンはわからない。僕は腐男子ではない。官能小説を学びたい青年だ。
官能小説家はどっちの比率が多いのだろう。せっかく来たのだから、本を探したいが春風の前でそれはできない。専門店とかあるのだろうか。公子さん一冊では勉強不足だろう。しかし、身持ちの固い人なら伴侶だけということも有り得る。自分の結婚相手だけはそうであってほしいなんて公子さんに申し訳ない。
男はわがままなのだ。
エロの片鱗はどこにでも隠れている。電車の中で、
「僅差だったな」
というおじさん同士の会話さえなんだかエロい。
うちに帰ったら、
「パン作ろうかな」
と母が言い、
「うん、パン作って」
の春風は確信犯。
「蔵、割れ目から雨漏りしてるみたいなんだ。滴ってくる」
父よ、他に例え方があるだろうに。
いや、僕の頭が今はおかしいのだ。公子さんのせい。急に世界が桃色。そう、あの本に出会ったあの日から。
『私の蜜壺をいっぱいにして』
だめだ。公子さんの声が聞こえる。麦茶を飲んでも耳の奥のぞくっとした感じが消えない。
これは2次元に恋なんていう気持ちの悪いものではない。ずっと白昼夢を見ているようだ。
世の中の女の人は細いことが素晴らしいと思い込んでいる。公子さんは豊満で足は細いと記されているから、僕の中では土偶に近い。それなのに、卑猥。
だから、テストに土偶が出るだけで公子さんを思い返す。
これが本当に恋ならば、公子さんは優秀だった亡くなった旦那さんをまだ愛しているから僕も勉強を頑張るだろう。そうではないのだ。ただ、公子さんとただれた関係になりたい。実際にはいない人を『おかず』という単語では言い表せない。
周囲の女性と公子さんを対比してしまう。官能小説のヒロインと比べられても迷惑だろうが、豊満な体というのはどれくらいなのだろうか。制服というのも結構エロいもので、シャツ一枚だから下着が透ける。JKで黒か。背伸びのし過ぎではないだろうか。公子さんにはきっと似合う。もう公子さんの虜だ。
他の本を読みたくても公子さんが邪魔をする。別の官能小説の主人公に気をそがれたら、それは浮気になるのだろうか。
一旦、落ち着こう。公子さんを海馬に押し込めて、僕は官能小説の勉強がしたいと純粋に思った。それにはやはり、官能小説を読むしかできない。
便利な世の中で、調べることはいくらでも可能だ。SMグッズや隠語は検索できても、感情はわからない。性癖も無限大。官能小説を書いている小説家はどういう気持ちで書いているのだろう。いちいちドキドキしては筆が進まない。その前に筆おろしが急務な気がする。
執筆に行き詰っている本郷さんに聞いた。本郷さんは苛つくと鼻をつまむ癖があるのでわかりやすい。
「本郷さん、話の展開がエロ寄りになっていったらどうしますか?」
「なるべくそこを避けていますが、どうしてもとなったら想像で書くしかないでしょうね」
「想像で不倫がわかる?」
「先輩、そんな話書いてるんですか? でも不倫だったら過去の名作がたくさんあるから読んでみては?」
やっぱりそういう返答になるだろうとは思っていた。本郷さんは傍らに戯曲集を手放せずにいる。
人間は本来、きれいなのか汚いのか。そこから抜け出せずにいるのだろう。
僕は公子さんを裏切れない。それは頑なだった。
純文にも、官能小説並みにエロいものはある。想像という点では、むしろそちらのほうがエロさを醸し出している。足や髪にフェチズムを感じるもの、幼女、手に入らない友人の妻。男たちが惚れるものがまともとは限らない。
現時点では公子さんがナンバーワンなのだ。30代後半の存在しない未亡人。17歳の本郷さんが目の前で裸になっても勃たない自信がある。それは本郷さんの体が悪いのではない。僕の脳が公子さんに侵されている。実物のほうがいいに決まっている年齢なのに、そこは僕が文字脳になっているせいだ。公子さんでいつも半勃ちしているから反応のしようがない。
調べてみたら公子さんの小説は官能小説の中では有名な作家の作品である。隠喩がすごい。女性の体を童貞には例えられない表現ばかりする。最初にこれを読んでしまったことはいいことなのだろうか。それから、官能小説の中でもジャンルが細かく分かれているようだ。
官能小説のことをしか考えられなくて、戯曲のほうにはちっとも興味が湧かなくなってしまった。頭の中に映像が映るのは同じなのだろうか。
官能小説には序破急なるものがある。起承転結はわかる。小説を書くときはいつも心掛けている。序破急は始まって、盛り上がって、収拾すればいいのだろうか。
どちらかというとエンタメ系が好きだ。大きく分類すれば官能小説もエンタメになるのだろうか。ファンタジーとかミステリーが好きな人と一緒くたにしては公子さんに申し訳ない。
未成年の自分では勉強のしようがないことに気づく。
「エロ本貸して」
とクラスメイトに頼んだらあっさり貸してくれたけれど、見る顔全てが公子さんに変換される。もう水着の布が憎い。実際の女の人の体よりも頭の中の公子さんがきれいすぎる。それは官能小説の表紙のせいだろう。これだけに公子さんのイメージは固定される。艶やかも艶めかしいも漢字は同じだ。
アイドルの水着くらいでは肌がきれいだなとしか思えない。年代だって違うのに。
念のため、春画の画集を美術部の女の子に借りてみたけれど、どうやらそれも間違え。そういうがっちりしたものではないのだ。というか、男がいらない。
正解はどこにあるのだろう。
二次創作の経験はないが、もう頭の中に公子さんしかいない。公子さんの義兄は公子さんのそこを淫靡な果実に例えたけれど、もっと美しい言葉があるはずだ。暗闇でも深海でもないだろう。
受験の勉強をしなくてはいけないのに、妹がノックもせずに入ってくる部屋で官能小説を書き始めてしまった。いつもとたがわず机に向かっているだけなので、パソコンのモニターを見られなければ問題ない。もっとも、利口ではない春風は画数の多い熟語を進んで読むとは思えない。だが、ロック機能を追加した。万が一がある。死ぬかもしれない。こんなのを読まれたのでは死ぬに死ねない。
『ああ、あなたを今すぐ抱きたい。抱かなければおかしくなる』
主人公を公子さんにするわけにはいかないので、名前を考える。クラスにはアオイという男女がいる。ヒナちゃんとヒナ子ちゃんとヒナタちゃんという女の子たちもいる。本郷さんは確かヒノメ。知らない人にしよう。その人にも申し訳ない。その人の特徴を引用してしまう。
普通の艶っぽくない名前がいい。
『「小町さん」と僕が呼んだら、彼女は肩までの髪を揺らして振り返った』
本郷さんのように小箱を考えることが苦手である。あまり考えずに書いてしまうから行き詰まったり、伏線の回収ができていなかったり。でも、指が止まらない。こんなことは初めてだ。小町さんの体、服装、髪型を文字にする。
そもそも専業主婦の日常がわからない。うちの母は呼ばれてヨガ講師をする日があったりする。普通の人はなにをしているのだろう。内職? 習い事? 不倫?
小町さんは主婦の設定でいいのだろうか。
だめだ。頭の中の小町さんがちっとも自発的に動いてくれない。
こうして悩むこともまた楽しい。実際に公子さんはいなくても、世界が眩しい。すっかり桃色です。
明日が待ち遠しい。深夜にも小町さんを思い出してエピソードを追加。現実で女性から誘われたことがないから夢のようなシチュエーションを忘れないように。授業中、夢の中だけでなく電車の中でもイメージは膨らむ。
少しずつ、自分の中で小町さんを作ってゆく。雰囲気、話し方、歩き方。漢字でなら背徳もわかるけれど、実際には裏切りすら知らない薄っぺらい人生だ。
しばらく主婦を観察することにした。ちょうど文化祭もある。女の人って髪の毛とか爪とかまできれいで、そういう人ってきっと裸にも気を使っているのだろう。小町さんにはそうであってほしい。春風の持っている雑誌におっぱいケアという単語を見つけ、女性は大変だなと思う。断面図が描かれてあって、男の夢の塊が脂肪という現実を知る。乳腺の文字だけで卑猥だ。大人の女の人との接点がないからこの機会にじっくり観察するとしよう。
本郷さんに習ってネタ帳なるものを書いてみようと思ったが、落としたら次の日から学校に来れなくなりそうなのでスマホのメモ帳に書き込む。
「本郷さん、女の人って暇なときなにしてるの?」
文化祭の準備のせいで執筆時間を取られ不満顔の本郷さんに聞く。
「暇な時間ですか? ないので」
そうだろうな、とは思った。本郷さんも進学クラスだし、小説を書いているし、よく本も読んでいる。春風に同じ質問をしたら、
「ストレッチかな」
と答えた。こちらも正論を教えてくれない。春風のはストレッチどころか筋トレもどき。
普通の答えって誰が持っているのだろう。
我々の文芸部は文化祭で本当に喫茶店と漢字テストをすることにした。部員が二人しかいないことを考慮され、僕はクラスの出し物をやらずに済んだ。担任は、
「受験前だから適当に」
というタイプ。きっとうちのクラスはペットボトルのジュースを冷やして売るのだろう。国立を狙う生徒は文化祭の出席すら免除らしい。
「先輩、ちゃんと漢字考えてます?」
本郷さんの視線が鋭い。
「もちろん」
「これ、読めます?」
本郷さんが悩みながら漢字を書く。
「教唆(きょうさ)」
「正解。先輩すごい」
「ミステリー読んでると出てくるよね。弁護士ものとか」
10問、全問正解で100円引きにした。半分以上正解なら50円引き。
「もっと難しい漢字って難しいですね」
辞書を引く本郷さんは日本語がおかしくなっていることには気づかないようだ。轍? 轢死? とかぽそっと聞こえる。スマホで検索しても画数が多い漢字は拡大しても画面では見にくい。
二人で5問ずつ決めることにした。
「瀟洒はどう?」
僕は言った。
「読めても書けないですよね? 半分は書いてもらうことにします? 芸の旧漢字とか」
「スマホで調べるだろ?」
「ああ、嫌な時代ですね。入場のときに回収するわけにもいきませんし。一応、席にはスマホや辞書禁止って書きましょう」
便利なもののせいで厄介になることがある。
こんなことをして笑い合っている間に小町さんなら退屈そうにお茶を飲むのだろうか。段々と人物像が浮かび上がってきた。赤い口紅をした線の細い人。
家族にAカップしかいないし、本郷さんも巨乳だけれどかわいいキャラだから、洗練されていない。小町さんはきっと優雅な人。紅茶が好きで、おやつはマドレーヌ。その彼女を惑わす男を用意しなければならない。言葉巧みに彼女を愚弄する。
身近に小町さんのように艶っぽい人がいない。妖艶で、無邪気。ニットが似合って足がきれい。橋爪先生は体は太くないのに見事な大根足。でも先生キャラはいいな。そんな理由で塾に通いたいと思ってはいけないのだろう。
「お兄、帰ろう」
Aカップの妹JKでは憂いを一ミリも感じない。
「春風さん、こんにちは」
「友達から本返ってきたのですが本郷さん読みます?」
いつもは絶対に首を縦に振らない本郷さんが、
「次回作のために」
と手に取った。
「次回作、エンタメ系?」
春風が聞く。
「いいえ。ただ、ゲームの中の世界の話なのでいろいろ知ろうかと。私、ファンタジーものも読まないので架空世界とかわからないんですよね」
「他にも持ってきましょうか?」
「とりあえずこれだけで」
趣味も見た目もそりが合わない二人だ。対照的というほどではない。
「お兄、お母さんが牛乳買って来てって」
「じゃあスーパーに寄って行こう」
スーパーになら小町さんに似た人がいるかもしれない。どうして気づかなかったのだろう。主婦はスーパーにいるものだ。
「先輩、明日までに5つ漢字考えてきてくださいね」
「はい。本郷さん、また明日」
「お疲れさまです」
春風のクラスは文化祭におばけ屋敷カフェをするらしい。
「目玉のアイスとか、血っぽいソースとかみんなで考えてるの」
「仮装もするのか」
「うん。でも私は写真撮られちゃうとまずいから裏方かな」
芸能人ぶりやがって。でもそういう意識が大切なのだろう。
牛乳はコンビニで買おうという春風を諭してスーパーへ向かう。
「春風も少しお金を稼いで有難みがわかっただろう? うちは少しだけど家の保存代を税金でいただいて、お父さんは働いて、お母さんもたまに仕事して。働いてないのは僕だけなんだ。だから出費を抑えなければならない」
という苦し紛れの言い訳に春風はなぜか、
「わかる」
と同調した。
さて、小町さんはどこだろう。スーパーでは子どもがダッシュしてるし、その子のお母さんは激おこだし、店員さんも仏頂面。どこにも小町さんがいない。みんなが苛ついているように見える。
旦那さんのために作る夕食、どうしようっていう顔の人すらいない。黙々と食材をカートに放り入れる。
「こっちの牛乳のほうが好き」
と春風が北海道牛乳を手にする。
「うん」
ああ、あの刺身を手に取った人は顔は小町さんでも上下スエットだ。色香が足りない。パンを選ぶ人は値段ばかり気にしている。小町さんを欲する。缶詰売り場にもジュース売り場にもいない。小町さんのような人はどこにいるのだろう。
アイスを選ぶ人に目が釘付けになる。ちゃんと二個。そうそう、小町さんも旦那さんと夜に食べるはず。かごの持ち方もいい。でも腕時計がものすごい高級品。違うんだよ、小町さんは。そのちょっと値の張るアイスも旦那さんの給料日にしか買わないで。
こんな勝手な妄想をして申し訳ない。スリットのスカートとかはぴったりなんだけどな。
これは将来、自分のちょうどいい好みの人に出会えない暗示なのではないだろうか。妥協をして歩みよる。あの貝を手にする人は所作がきれい。人のどこを好きなるのだろう。顔や髪型ではないはずだ。中身とは体ではなく心。それはきれいごとなのだろう。
気を緩めると春風がお菓子をかごに入れる。
「ひとつにしなさい」
親でもないのに、金も稼いでいないのに春風を制止する。
「だってこれ初めて見た」
女の子は栗とか芋が好きだ。秋だからそういう商品も増える。
小町さんもどきも同じお菓子を手に取った。そうなると、味が知りたくなる。
「これは買ってあげる」
僕と春風を恋人と勘違いしているのかもしれない。小町さんもどきは微笑んで、レジに向かった。
久しぶりのスーパーは自動レジでややこしかった。春風はすいすい動く。偽小町さんも手慣れている。女の人はスマートに動けるものだ。男はうろたえて、おじさんはレシートを取り忘れている。
家に帰ったら夕飯はもう出来上がっていて、牛乳が冷蔵庫に入っていないと気が済まない母の願望にすぎなかった。小町さんを考えている時間は幸福だからいいのだけれど。着替えながらこれは受験の逃避ではないと自分に問う。いや、違う。だって楽しい。それに書くことは部活の一環と言い聞かせる。
トマトソースのロールきゃべつ、大根とゆずのすっぱいやつ、ちくわのマヨネーズ焼き。
小町さんちの夕飯はなんだろう。料理がちょっと苦手というのもかわいいな。
『食後に私をめしあがれ』
いない人をいると仮定して、話しを作らなくてはならない。昆布の佃煮を食べていてほしい。季節じゃないけど蕗とか、苦いもの。できれば旦那さんが残業で遅くなるとしたら、小町さんには待っていてほしい。
食卓を写真に撮ったら母が怪訝な顔をする。
「来年から一人暮らしするかもしれないし」
と言ったら、母はしんみり。
そんなに寂しいことなのだろうか。
「そういうことも有り得るか」
父はビールをグラスにトクトク。家族が一人欠けるけれどそれは子どもの成長だ。
「こっちの大学落ちたらね」
「大丈夫だよ。お兄は優秀だもん」
春風よ、兄の頭は今、官能小説でいっぱいです。受験よりも優先することなんてないと思っていたけれど、楽しいのだ。書いてしまう。プロットもままならないのにずんずんと書き進めてしまう。
小町さんの輪郭を浮き彫りにするその作業は、彼女の衣服を一枚ずつ剥いでゆくようで恥ずかしかった。
自室で煮豆の作り方を検索。便利な世の中でよかった。
脳を休めるために宿題。文化祭の漢字も考えなくては。
どんどんと小町さんが頭の中で積極的になる。色白、もち肌に下着は赤ですか。触ったら柔らかいのだろうか。これって痴漢の思考のようで嫌だ。
「眠れないよ」
朝まで小説を書くということは今までになかった。もっとも、長くても短編が精一杯。学生の賞はそんなに長いものはなかった。それに、ジャンルもまるで違う。こんな時間に官能小説を書いている高校生がいるのだろうか。いるのだとしたら友達になりたい。クラスには腐女子どころかオタクもいない。きっと隠しているのだろう。春風の周りのほうがいそう。知恵を貸してほしい。
静かすぎる夜に小町さんだったらなにをするのだろう。
僕の稚拙な頭では『しごく』も『咥え込む』もわかりません。吸い付く感じ?
椅子に座ってあぐらをかいたら自分の曲げた膝が尻に見えてきたので眠った。もう4時なのにまだ明るくならない。小町さんには朝焼けも似合いそう。
何枚くらい書けばいいのだろう。
「書籍化されるなら200枚くらいじゃないですか?」
と本郷さんが教えてくれた。
「へえ」
まだ小町さんは40枚ほどだ。全然足りない。もう結構エロいのだけれど、これから煮詰めていかなくては。料理と一緒だ。材料を切って、煮込んで、味付け。経験が値絶対に足りない。
「先輩、漢字決めました?」
本郷さんがパソコンを覗き込もうとするから、咄嗟にシャットダウンしてしまった。保存できていることを祈るのみ。
「ああ、うん」
「私もです」
本郷さんが選んで来た漢字はヨーロッパの国の名前と金烏玉兎、山車、破廉恥、消耗品。当て字とテストによく出るやつ、消耗品は一瞬あれ? となった。よく耳にするのにぱっとは思いつかない。
「消耗品は漢字を書いてもらおうか?」
「そうですね」
僕は瀟洒、鸚鵡、臀部、残滓、蹂躙。
「最後の漢字、読めません」
本郷さんが口をへの字にする。
「じゅうりんです」
「どういう意味ですか?」
「自分で調べてください」
パソコンに打ったらすぐに変換はされるだろう。本郷さんはテストのように問題を打ち込んだ。
「印刷したのでコピーしてきますね」
文化祭にわざわざ文芸部になんて来る人は少ないだろう。こちらも部員がいないのでメニューはコーヒーとオレンジジュースのみ。
本郷さんは用意周到。机を並べて、クイズの答え合わせ要員まで集めてくれていた。
僕は本を数冊用意。読みやすそうな薄いものを選ぶ。読書が好きになるかならないかの分岐点は本に感動するか否かだろう。感動か、或いは同意。
この本棚に公子さんの本を紛らせたら没収されるだろうか。感動をしたのは僕だけだろうか。感銘を受けたというほうが正しいかもしれない。
近頃は女性向けの官能小説もあるらしいが、それさえも高校生では手にできない。悪いものではないはずだ。
小町さんをどうしたら多くの人に好かれるのか考えあぐねている。濡れ場は多いほうがいいのだろうか。頭の中で考えるには限度がある。
特に飾りつけなどをしないまま文化祭当日が訪れてしまった。他の部は有り余っている部員に客引きをさせているが、文芸部は待ちの姿勢を貫く。
ちらっと覗いて、帰ってしまい人が幾人かいた。
「本郷さん、メイド服着てよ」
あまりにも暇なので僕は言った。
「嫌ですよ」
仏頂面の制服二人ではお客さんも居心地悪いだろう。
しかし、徐々に風向きが変わる。例えば、軽音部や劇の合間などに人が来る。疲れた顔のお父さん、睡眠を優先したい人が席を立たない。薄くても、小説を読み慣れない人であれば小一時間もかかってしまう。あの人、さっきから本を行ったり来たりしているから、登場人物の関係性迷子になっているのだろう。あの人はミステリーを読みながら間取りを書き始めてしまった。それもわかる。
気づけば満席だ。春風にマンガを借りればよかった。
しかも、みなさんクイズ好き。おじさんが過半数を占める。
この中で、幾人の人が官能小説を読んだことがあるのだろう。
「臀部だよ」
と読めた人がいた。臀部くらいは読めるだろう。でもそれを奥さんらしき人に言えるものだろうか。
全問正解者もいる。話しが聞きたい。例えば、こっち側とそちら側に分けたとき、あなたはこちら側ですか?
迷っているうちに橋爪先生が、
「ちょっと、会田くん」
と血相を変えてやってきた。
「なんですか?」
「これ、なによ?」
「漢字テストですよ。話しましたよね? クイズの正解率によって割引するって」
「中身よ、中身。こんな、卑猥な漢字だめでしょう?」
橋爪先生がクイズの紙を持っていた。
「先生、読めるんですか?」
「これでも国語教師ですから」
「意味もご存じで?」
「当然よ」
まさかこんな身近にいた。こっち側の人間なのだろうか?
「橋爪先生は官能小説も読むんですか?」
「昔、ちょっとね」
「素晴らしい」
官能小説を読む人に初めて出会った。これもまた感動。
「教師を褒めないの。さっき廊下で子どもが親に意味を聞いていて困っていたわよ。残滓って…」
「残りかすですよね? 葡萄の汁を絞った皮とかですよ」
「会田くん…」
「誰も膣に残った精子とは思いませんよ」
「わからないじゃない」
「臀部も残滓もR指定ではないですよ。普通に辞書に載ってる熟語です。なにが問題ですか?」
こういうときの言い訳を答えるのは得意だ。怯んだら負け。毅然と、反抗心を見せずに正論を述べるのみ。
橋爪先生は書道部の生徒に呼ばれ、戻ってしまった。そろそろ書道部がパフォーマンスをするのだろう。
天気がよくてよかった。しかも部室から見える位置。だから、お客さんまで窓外を眺める。
音楽が流れる。今年の漢字はなんだろう。はかま姿で、颯爽と書く。
『凄』
という文字だった。
エロいふうに受け取ってしまうのは僕とここにいる漢字が読めた人だけだろうか。
なぜその文字にしたのだろう。
「凄いわね」
女性のお客さんが褒める。
「お兄」
春風は友達の『ダットサン』と来ていた。
「満席ですね。うちは暇で」
春風とダットサンにクイズの用紙を渡したら山車が読めただけ。しょうもうひんを『小毛品』て、なんかエロい。
ダットサンは黒髪のウサギみたいな女の子。こういう子があと10年したら小町さんに化けるのかもしれない。ほら、そのはにかみ方、グッドです。
「お兄、アイスコーヒー」
「はーい」
一問しか正解しないから割引もなし。
劇のアナウンスでお客様が大移動。春風も友達が出ると言って席を立つ。時間潰しをされたのだ。捨てられた女の人の気分になる。侘しい。この気持ちを覚えておきたい。用なしと捨てられた小町さんが優男に拾われる場面が頭をよぎる。メモをしたいが本郷さんがいる。
その本郷さんはそわそわ。好きな人でも出るのだろうか? 戯曲を呼んでいたから舞台の筋書きが気になるのだろう。
「観て来ていいよ」
僕は言った。
「そういうわけには…」
「こんな状況だし」
客が一人もいなくなってしまった。
「じゃあ、少しだけ」
本郷さんは小説ばかり書いているから、文字が形になる映画とか劇が好きなのだ。
この隙に、メモメモ。
あ、ポルノ映画を見たら勉強になるのかもしれない。あれも高校生は見れないのだ。どうしたいいのだろう。
そのときだった。
「いいですか?」
と夫婦が入ってくる。
「はい、いらっしゃいませ」
40代の落ち着いた二人。指輪はしていないから不倫? 元夫婦なのかもしれない。子どもにせがまれて来たものの、疲れてここを訪れたのだろうか。
「コーヒー、ホットで」
「私はジュース」
「かしこまりました」
冴えないおっさんと美人妻。最高の設定だ。高くない彼女のヒールが教室の床をコツコツ移動する。
「漢字クイズか」
男が問題の漢字を凝視。
彼女は無関心に外ばかり見ている。男のクイズの問いにもカラ返事。退屈そうで、まさに理想の小町さん。
「お待たせしました」
「ありがとう」
ジュースの飲み方を目で追ってしまう。劇は一時間ほどあるのだろうか。一番の目玉だからほどんどの人が見に行っているのだろう。おかげで急に校内が静かだ。
パラっと一瞬雨が降って、すぐにやんだ。それでぱっと晴れるものだから、まだ白い雲が残る空にうっすら虹がかかる。
「あっ」
僕らは同時に発した。そして目が合った。
それもまた恋に似たものではない。恋に焦がれた女の子であれば恋に至るのかもしれない。だが、僕らは違った。
恐らくは、恋に飽きた女と官能小説を書く童貞である。僕は彼女を小町さんとしか思えないし、同列になれない。
ふっと彼女が笑った。僕の幼さを嘲笑ったのではない。もう、虹のない空を見ている。
本物の彼女はなにを考えているのだろう。小町さんなら適当に、僕が想像したことで頭を悩ませるが彼女は違う。それが知りたい。
男性のクイズの答案に興味を示すこともなく、学校に不似合いな赤い靴のかかとを気にするでもなく、ジュースと青空に時間を費やす。
「すいませんでした」
とすぐに本郷さんが息を切らせて戻ってきた。
「いいのに」
「大丈夫です」
冒頭だけ見たかったのだろうか。
彼女はまたそっぽを向いている。学校が不似合いな人。そのまま窓の外に落ちてしまいそうな危うい雰囲気がある。
「確認お願いします」
「はーい」
と本郷さんが素早く出向いてしまった。
本郷さんがチェックをしている間も彼女は無関心。
「半分正解なので50円引きになります。奥様はされないんですか?」
「妻ではないので…」
彼女は不愛想に答えた。ちょっと小町さんの印象から遠ざかる。声って大事だ。
「すいません」
と本郷さんが謝罪する。じゃあ、どういう関係なのだろう?
いろいろ聞いたら不審がられるだろうか? 写真を撮ってもアウト?
「本郷さん、こっち向いて」
部活用と嘘をついてスマホのカメラを向ける。本郷さん、ごめん。他に思いつかなかった。本郷さんにピントが自動的にあってしまって空を見上げる彼女の横顔は少しぼんやり。それがまたいい。
男の指は太く短かった。近頃はそういうところにばかりに目が行く。
劇が終わると二人は帰ってしまった。白のトップス、ライトグレーのフレアスカートを揺らして。知り合いの子どもでも観に来たのだろうか。でも席がいっぱいだから諦めてここにいたのだろうと推測する。あの靴では立ち見は辛いだろう。
「さっきの女の人、きれいだったね?」
割れないグラスを片付けながら僕は言った。
「そうですか? 先輩ってああいうアンニュイな感じ好きでしたっけ? 意外」
本郷さんからはいつもはどんなふうに見られているのだろう。部室で宿題を片づけて、目的もなく文字を連ねていると思っているのだろうか。
官能小説を書いていることを話したいような、話したくないような。心のうちを全部さらけ出せる10代などいない。
変態だったら、グラスから彼女が使用したストローを持ち帰ったりするのだろうか。ポイッと捨てた。
その気持ちを保持したまま家に帰り、訥々と書く。
彼女の素性は知らなくても小町さんを作り上げることは容易い。自分好みにしたらいい。圧倒的に語彙力が足りない。表現方法もメタファーも思いつかない。また公子さんを引っ張り出す。
風呂上がりの春風を見ても妹だからなにも感じないのは当然なのだが、どうにかこうにかして想像力を掻き立てなければ。
『きれいな人はアキレス腱まで美しい』
と書いていた。違う。色っぽくない。公子さんの文章は、よだれが出てくる。
次の日も文化祭だった。中学の同級生に再会したり、またこっそり偽小町さんを探したり、スマホの写真を眺めたり。文化祭の旨味をひとつも味わうことはなかった。暇な時間、僕は空を見上げた。それでいい。
どういうときに人は欲情するのだろう。高校生ながら、そういうことを淡々と考えている自分が嫌になる。電車で痴漢をする人の脳を間借りしたい。
人を見ることに慣れていないようだ。服装から仕事が推測できる人もいれば、なにをして生きているのかわからない人もいる。人の頭の中なんて見えっこないしエロいかどうかなんてわかるはずない。
うちの母屋を見学に来たおじさんがいかにもエロそうなのに、大学教授の肩書に怖気づく。性癖が顔に書いてあればいいのだ。その人のエロ度が感知できたり。そうしたら教えを乞う。
官能小説の中にもジャンルがある。羞恥プレイ、寝取られ、凌辱、熟女、美少女。それで、どうやら世の中の流れで過激な描写はアウトらしい。ロリもグレー。若妻の小町さんを主役にしたことはラッキーだったが今は熟女の誘惑ものが主流らしい。小町さんでは若すぎる。
公子さんが導入ポイントだったこともプラスに働いた。だって、童貞だもの。教えてもらわないとできない。
そんなことに頭を占領されているわりに、試験の結果はよかった。ひとつのことを好きになると全部がつながる。勉強にまで触手は伸びている。
肛姦について考えていて、体のことを調べていたからかもしれない。どれくらいまで入るのだろう。センチなのかグラムなのか。男にも女にもある部位だが自分のそこを開発したいとは思わない。
小学生のようにエロ用語を探して、生物、数学、国語に英語にまで知りたがりの範囲は広がる。
ほうら、頭がよくなるわけだ。ひとつのことに取り掛かると結局は全部のことを学ぶことになる。小町さんをいたぶる上司の職業はなににしよう。世の中のおじさんはどんな職業なのだろうか。詳しく知りたい。小町さんは僕の知識欲まで奮い立たせる。
春風にとってアニメもモデルの仕事も彼女を利口にしない。憶えた言葉はすぐ愚痴に変わる。得るものはたくさんあるだろうに。
「これ以上、成績を落としたら仕事を控えてもらう」
と夕飯終わりに春風は父に詰め寄られている。
「グループでの仕事もあるから今が頑張り時なの」
今回ばかりは父も頑なだ。さすがに学年でうしろから10番目ってやばすぎる。春風は間違っている。
「学生なんだから勉強して当然」
と僕も言ってしまった。
春風は言い返さない。
母はこういうとき、自分も割と好き勝手に生きていた人だから意見を発さない。我が家の女の人は縛られることが嫌いなようだ。
公子さんは緊縛も受け入れる。小町さんはまだそれを知らない。
学校では文化祭が終わるとカップルが幾つか出来上がっていた。性癖が暴発してしまうくらいなら、きちんと付き合って昇華したほうがいい。幼い女の子を襲ってしまったら、相手にも自分にもよくない。犯罪だし、相手に心の傷を残してしまうし、誰も得をしない。
「もう、お兄の裏切り者」
僕の部屋で春風はその長い脚を露出したままベッドにごろん。そろそろ寒くなってきたからレッグウォーマーやら長ズボンで隠されてしまうだろう。もちろん、妹を性的な目で見たことはない。むしろ同じ精子と卵子からできあがった、もしもどちらかが大病になったら移植できる適合率が高くなるから大事な人と認識している。血液型も同じだし。春風がいるから僕はおかしな方向へ行かずに済んでいる。春風がいなかったら小町さんの影を探して夜の街を彷徨うだろう。
先日も友達にエロ本を借りたけれど、その見返りが春風のパンツだった。春風に話したら100均で買って来て、履かずにそれそのまま渡した。クラスメイトは喜んでいた。やばい奴だなと思った。
「勉強なんて授業聞いてればわかるだろ?」
僕は小説を書きながら言った。春風は小説に興味ないからノートパソコンのモニターを見入ったりしない。カフェで小町さんと出会いきれいな人だなと思っていたのだけれど、店主から、
「小町さんを抱けるよ」
と耳打ちされて苦悩する。昔のカフェーや水茶屋からインスピレーションを受ける。
「お兄とは頭の出来が違うの」
と春風は腹筋を始める。そんなことはない。頭がいいか否かは、己が勉強をするかしないかだ。むしろ、この小説を書くために偽物の利口な自分を演じていると言ったほうが正しい。そうか、春風は正直者なのだ。母もそうだ。自分を偽れない。
春風はレッスンが確かに忙しそう。
僕も官能小説に忙しい。だけれど、勉強はできている。利口なふりをすればいい。それで自分も周囲も平和。
春風にはこうなりたいという夢がないままモデルをしている。それが僕には気に入らない。口先では女優志望だけれど、僕よりも映画に行かないし、アニメは見てもドラマも見ない。特に古典すら覚えようとしない。演技にそれほど興味があるようには感じない。
僕は今のところ、この小説を書きあげたい。それが熱望。大作家にはなれなくても、これで食べてゆくことができたらいいけれど、きっと兼業作家がいいところだろう。働いて、家のこともする。父みたいだ。そうやって生きてゆく家系なのだろう。
官能小説を学ぶなら大学は文学部なのだろうか。海外のも読んでみたいから、どこかの言語を極めるのもいい。
クラスではもう推薦が決まった奴もいる。バンドマンはその道に進むことを決めた。あれ、僕は? まずは進路を決めることを優先するべきなのだろうか。官能小説はそのあとでも書ける。わかっているのに、小町さんが頭の中で動き回る。どうしてそんなに簡単に騙されてしまうのだろう。狡猾な人を見つけても羨ましいとは思わない。騙されるのも嫌だ。俯瞰していたい。小説はそれが可能。
生きる道はいくらでも枝分かれする。小説を書き続けるなら大学生になるか、ヒモでもいいし、働きながらでもできるだろう。他のことが学べそうだ。
「また来て」
と誘われたので、本当にライブハウスに行った。生音にやられる。一人で行ったら、計算が速いという理由だけでグッズの販売要員をさせられた。それでチケット代がタダになるのだから文句は言えない。
バイトをしたことがないので勉強になる。箱を借りてチケットを売る。グッズを販売して収益を得る。人が集まらなければ赤字。そのために練習する。いい曲を作る。ぐるぐる巡っているのだ。固定客がつく。儲かる。その円から降りる決断もいつかはするのだろう。勢いだけでは情熱は持続しない。
小説家もそうなのだろうか。売れなければ書けなくなる。書かなくなる。
春風の友達のシャゼリンは高校を中退するという。春風が揺れるのがわかった。
流されてはいけない。
休日、家の庭木を父と切ったり片づけたりした。母は蜘蛛の巣をくるくる巻き取る。雨が降ったらきれいなのに。春風は今日も撮影。
平和だ。官能小説を書いていることでこの平和を壊してしまう恐れもある。だから家族には言わない。
「お昼にしましょう」
焼きそばだった。春風がいると食べられないのだ。こんなにうまいのに、太ると敬遠して具のキャベツしか食べない。
母よ、なぜエリンギを混ぜたのですか? 触感がエロい。見た目もか。
父が奥の奥歯で噛むときゅっと音がした。
撮影帰りの春風がミルクレープのケーキをもらってきた。びっくりするほど重なっている。それもまたエロい。母が飾った二輪挿しも春風が顔面に吹きかけるミストも。
「私いらないよ。撮影で食べすぎちゃった。フルーツの断面がきれいじゃないとか、私の食べ方がだめとかでワンホールくらい食べた」
愛もこんなふうに積み重なっているのだろうか。カットを頼まれたので、とりあえず半分にしてから三等分。表面にポコポコ波打っているのはフルーツだった。きれいに切れないのは包丁のせい。
「コーヒー? 紅茶?」
「紅茶かな」
決断は父がする。
春風の話を聞いているといろんな仕事があるんだなと思う。撮影現場だけで、モデルさん、メイク、ヘアメイク、スタイリスト、カメラマン、それぞれのアシスタント。今回ならこのケーキを用意する人。
「おいしい」
の母の顔が家族をひとつにしている。
「有名店のやつだよ」
小町さんもケーキは好きですか? 頭の中であなたとエロいことばかり考えています。あなたを包んで食べてしまいたい。きっと甘い。しかしこのケーキよりは甘くない。
家族の中にいても神経がそちら側に引っ張られる。創作欲という言葉があるのかも知らないけれど、この気持ちを本郷さんならわかってくれるだろう。
春風に頼まれてダットサンと出かける羽目になった。文化祭で一目惚れをしてくれたらしい。
「好みではないんだが?」
「本人に言って」
「言っていいのか?」
「もっとやんわりとね」
受験のことよりも小説を書く時間を割かれることが心苦しい。
しかし、机に向かっているだけでは小町さんをこねくり回しているだけだ。実際の女の人を知らなくては。
パンケーキを食べに行きたいと言うのでついて行った。女の人は行列に並ぶのが苦ではないのだろうか。
小町さんも好きかもしれない。生クリームまみれの小町さんの想像が浮かんだだけ儲けもの。
「他に想う人がいる」
というのは嘘ではない。
「そうですか」
ダットサンは桃のパンケーキを食べている。料金を考えるなら普通のごはんを食べたほうがいい。カロリーは同等でも栄養価が違う。
ダットサンには申し訳ないことをした。足にマメができるような靴で、うっすら化粧までして来てくれてくれたのに。頬紅の存在を考えたことがなかったので、脳に記憶する。
小町さんのことが好きなのに、ダットサンをお姫様抱っこしている。
「ここで待ってて」
ベンチに座らせて絆創膏を買いに行った。
好きでもない女の人の足に触れて絆創膏を貼るなんて経験、金を払ってもできるものではない。
「すいません」
ダットサン、謝らないで。君のふくらはぎ、きれいですよ。かかととなぜか薬指にまめができている。女の子の足の指って小さい。ここで足コキの連想をしてはいけない。
写真が撮りたい。嫌われてもいいから。むしろ好都合?
その時点でダットサンよりも官能小説のほうが自分の中で上回っているということなのだろう。
ダットサンに好かれたせいか、急に思い上がってしまって、小説の中で小町さんを調教し始めてしまった。
まあ、僕のつたない知識ではたかが知れている。関連本を読み漁る。調教によって自分の好きな女に育て上げるのだ。おねだり娘にも女王様にもなれるものだろうか? 気質は調教で変わるのだろうか?
ああ、小町さん。そんなに乱れないで。それは僕だけに見せて。他の人に見せてはいけません。
春風と登校しているから痴漢に間違われたことなどないのだが、小説の中で小町さんの胸や尻を揉みしだいているので周囲にいる女の人の骨格を見てしまう。想像と創造と妄想の区別はついている。無駄に背が高いから目の前の会社員と思われる女の人をすっぽり包んでしまった。頭上から彼女の目線になる。女の人は自分の胸をいつも見下ろしているんだな。そこにおっぱいがあるのが当然で、そのせいで足元が見えなくても邪魔でも不便でもないのだろう。いつも目にしてしまうから貧乳の春風は悩んでしまうのだろう。その人の鎖骨がきれい。ストールから見え隠れする。これがチラリズムか。
多くの男がおっぱいを崇めている。本郷さんは隠れ巨乳だ。上のほうの本棚に手を伸ばすときに気づいてしまった。気づいてしまうと気になってしまうのが乳だ。柔らかさ、或いは重み、色が気になってしょうがない。トップさえ隠していればいいのだろうか。谷間が見えてしまう人って稀にいる。
小町さんはなにに興味があるのだろう。気になって指が止まる。現実逃避のために編み物か刺繍をさせてはどうだろうか。
「先輩、今日は潜心ですね?」
本郷さんの指はキーボードの上で軽やか。
「そうなんだよ。本郷さんは順調?」
「ええ、まあ」
どうして中世の異国の本を開いているのだろう。
夏に出した詩が二人とも金賞だった。このときはまだ僕は官能小説を知らない子どもだった。すごく成長した気がする。とっかかりはなんだっていいのだ。劇的に、毎日が楽しい。
さすがに部室で官能小説は書けない。いや、パソコンだったら気づかないのだろうか。本郷さんがなにを書いているのかさっぱりわからないもの。学校では構想を練るだけ。
でも、家で一人でじっくり書くに限る。
今日もバンドマンは学校を休んだし、レッスン帰りの春風は事務所の人に送ってもらって迷惑そうな顔。理由を聞いて、
「妹が送迎の人に触られてたみたいなんですけど」
と春風の事務所に淡々と電話をする。
「お兄って、世間を知らないって言うか、強いよね?」
春風が言った。
「そうか?」
自己肯定は大事である。逃避も悪くない。だけれど僕らが生きているのは現実だ。
楽しいことも辛いことも一瞬だ。僕だって感情をコントロールできるわけではないけれど、明日まで生きていないと小町さんの続きが書けないから大事に生きているだけ。
夜はグラタンだった。ぐつぐつと、エロい。チーズが伸びる、山芋にキノコ。もう頭が自動変換される。シーフードの味わいまでエロスに感じる。ズッキーニの素揚げ、揚げ出し豆腐。
春風が僕の勇敢さを話してくれるが、世間を知っている父から、
「送迎の人って事務所の社長の息子なんじゃ?」
と横やりが入る。
「そうなの?」
知らなかったのは僕だけのよう。
「そうだけど、事務所変えてもいいし」
春風の足から触られた箇所の消毒臭が漂う。
「だめよう。もう二年もお世話になってるんだから」
母は人とのつながりを大切にする人だ。
父は春風の意見を尊重するだろう。豆テストでいい点を取ってなんとか学業と仕事を綱渡り状態。
妹のことよりも今は小町さんだ。夕飯を済ませて自室にこもる。小町さんと対峙するとほっとする。彼女は2次元でも3次元でもない。もちろん2.5次元でもない。1次元よりは立体的。
小町さんの胸とか背中とかなら想像がつくのだが、全体となるとむつかしい。やはり身近な誰かをぽんと当てはめるほうが楽なのだろうか。
誰もいない。妖艶な人が僕の周りにはいないのだ。年齢のせいなのか。
悩んだまま眠ったら公子さんの夢を見た。公子さんは小説の中の人のはずなのにきちんと人としてイメージできる。骨格が浮かび上がる。
そうか。僕の中で小町さんをまだ抱き締めていないのだ。他の人に抱かれる小町さんを見て嫉妬しているところ。
「小町さんを愛してあげて」
と公子さんに言われてしまった。
じっくり愛することとセックスはイコールではない。かといって、セックスを描かなければ官能小説ではない。
「本郷さん、浮気ってどう思います?」
こんな会話ができる部室でよかったなと心から思う。うぶな本郷さんの手を止めてしまって申し訳ない。
「先輩、浮気したんですか?」
「しないですよ。そもそも、本気の恋愛もしていませんよ」
小町さんを愛したいのに公子さんに後ろ髪を引かれてるなんて言えない。どちらも想像上の人物だし。さすがの本郷さんでも病院に行くことを勧めるだろう。
「そうですよね。私、思うんですけどレタスもキャベツも好きなんですよ」
「は?」
「だから、いろんな野菜を食べろって大人は言うのに、どうして恋人は一人に決めなくちゃいけないんでしょう?」
「ずいぶん前衛的なことを言ってるよ、本郷さん」
「たくさんの男の人とそういうことをしたいわけではないですよ」
どうしても小町さんと向き合えなかった。ロックを聞きながら、春風が勧めるアニメを見ながら創作する。公子さんを盲目的に愛した。だって抜けたもの。小町さんではやっと勃つだけ。この違いは大きすぎる。僕の文章力のせいなのだろうか。
自分が作り出した人だからなのか? ダットサンが教えてくれたTLというジャンルが好きかもしれない。自分で認めたくはないが心がピュアなのだ。童貞だからではない。純粋なのだ。
キュンてしたい。小町さんを軌道修正。そうだよな。なにもエロばかりでなくても。小町さんは純粋に夫さんを愛する新婚さん。それなのにバイト先のカフェ店主の悪の手が伸びてくる。弱みを握られて、堕ちてゆく。
「うーん。平凡だ」
旦那さんへの背徳感、快楽を覚えてゆく体。
セックスがしたいわけではなくて、セックスをした女の人の体のことが知りたくて風俗に行こうとしたらそれも年齢的にアウトだった。
どうしたらいいのだろう。どの書物にも記されていない。セックスのセオリーが知りたいわけじゃない。潮吹きは体質だろうか。
絶頂に達したら女の人の体は無酸素状態になるらしいが、それがどんなものなのかわかりたくてもわからない。息を止めてみてもきっと違う。頭を机にこすりつけているだけではなにもわからないのが世の中だ。
女の人になりたいという絶対無理な願望が湧く。下着の構造とか、化粧の仕方を熟知したい。当然、カラダの仕組みも。根本的にわからない。
それでも書く。
本郷さんも部室でずっと書いている。本郷さんは小説の中であっさりと人を殺す。小説だからっていいのだろうかといつも疑問に思う。
たまたま、官能小説の賞の公募を見つけた。枚数もそんなに多くはないし、締め切りも受験前でちょうどいい。ダラダラ書いているだけでは小町さんに申し訳ない。書き上げたらネットに投稿しようかとは思っていたが、変更。賞に応募しよう。
それに向けて書くことにした。目標は大きいほうがいい。
休日、明るい自室でも書けてしまう。これこそ背徳行為。
どれくらいの分量になるのかわからないので部室でも書き進める。ああ、語彙力が売っていたらいいのに。小町さんの裸を初めて見たら、触ったらどんなふうに感じるのだろう。おいしそう? 体がおいしそうなんて思ったことがない。歯がゆい。もっと知識があったら、素敵な比喩ができるのに。
僕が経験豊富だったら小町さんにどれだけの快楽を与えられるのだろうか。言葉攻めもできやしない。
部室で書いていても目の前の本郷さんが羨ましい。これから女としての喜びを知ってゆくのだろう。もう習得済みかもしれない。聞きたいのは体験談ではないのだ。どんな風に気持ちいいのだろう。舐めたら感じられる飴があればいいのに。VRとかは進歩していても、体までは変えられない。
『隆起する体をなぞるように舌を這わせる』
人の体に味なんてしないのに、なぜ舐めるのだろう。イメージで書いている童貞にはその味がわからない。
受験生だからそもそも宿題は少ないのだが、時間が勿体ないのでそれさえも授業中にすませてしまう。部室でも執筆に勤しむ。
「お兄、うちに帰ろう」
春風の迎えが早いのではなく、書き進めていると時間の経過があっという間なのだ。
「ちょっと待って」
句点をつけないと気持ちが悪いから文末まで書き上げる。
「これ、ダットサンから」
春風が本を出す。ダットサンは不織布の袋に入れてくれているからマンガの表紙は見えない。
「最近、多いですね。付き合ってるんですか?」
本郷さんが聞く。
「趣味が合うんです」
僕は言った。
「そうですか」
自分のためにダットサンを利用しているだけだ。ダットサンが貸してくれるTLの溺愛ものが心にフィット。
小町さんのためでもある。甘やかしてあげる。
ささっと最後まで書けてしまって、これでいいのかなと思いながら推敲した。経験もないし、隠語を多用できないけれど、小町さんを愛して気持ちよくはできたと思う。
ラストは納得いかなかった。小町さんが自分を責めて発狂してしまう。救えなかったのだろうか。しかし、変える方法がわからない。
『愛を注ぐ』
というタイトルにした。専門用語が少ないだろうか。これでも調べられることはネットで検索しつくした。
本郷さんは書き上げた小説を僕に読ませてくれるけれど、これは見せられない。
その賞は郵送、持参、ネット応募が可能だ。ネットだろう。官能小説の部署があるその出版社に応募したところで、誰に気づかれるわけでもない。持参する人は自分に自信があるのだろうか。そのほうが選考に有利だったりするのかな。若い女性の書き手のほうがいいのだろうか。春風に土下座しようか。
悩みながら、送信。筆名を書く欄がなかった。まさか本名が晒されるということはないだろうかと心配になる。
賞に出した日曜、満たされた気持ちで歩いていると、緑のワンピースを着た小町さんらしき人とすれ違った。徹夜もしていないし、白昼夢ではない。
秋風が似合う。銘菓の菓子袋が似合う清楚な人。
ありがとう。勝手にあなたを乱してごめんなさい。小町さんに似た人が角を曲るうしろ姿を見送った。
こんなにすっきりした気持ちは初めてだ。今までで一番長かったからだろうか。それとも背徳のせいかもしれない。
ともあれ、これでしばらくは官能小説からは距離を置こう。
受験生というのは家の中で居心地が悪いものである。いろんなことに動じない母まで珍しくぴりぴりしている。春風が、
「夜食作ろうか?」
と言ってくれる。こんなのが年明けまで続くのかと思うと胃が痛む。
当の本人は数学の問題集を解いて楽だなと思っている。必ず答えがある。解けばいい。小町さんは違った。気分屋で、淫乱。あとから思うと、意地悪な女性だ。そして今になっても僕にまとわりつく。
英語の答えに悩む。答えがひとつではない。ただ、参考書の答えを選択すればいい。一旦、心の隅に追いやったはずの小町さんがひょっこり顔を出す。街中ですれ違う品のいいツイードのコートを纏った女の人が公子さんに見える。
あのコートの下はなにも身につけていない変態かもしれない。変態と出会いたい。同性でもいい。性癖がみんなあるのだろうにそういう話をしてくれる人は皆無。この歳で自分の性癖を隠せない輩もいるらしい。幼女を誘拐したり。
勉強って、なんのためにやるのだろう。いいところに就職したっていい人生を送れるとは限らない。本人次第だ。運もあるだろうか。
勉強よりも小説を書いているほうがずっと楽しい。だからって、進学はする。小説家になれる人間なんてきっと一握り。なったとしても生き残れる人間は更に減る。砂みたいなものだ。握ってもさらっと手から滑り落とされる。
世の中が年末に向けてざわざわしていた。乾いた風が首筋を冷やす。イルミネーション、クリスマス、風邪、師走って忙しい。
勉強漬けで休憩に漫画を読む。活字は目が追えない。今頃、僕が応募した官能小説は読まれているのだろうか。そのままPCのゴミ箱にドラッグということも有り得る。
もうクラスの半分ほどが進路を決まっているらしかった。そのうえ、バンドマンがテレビに出るとかで大盛り上がり。
初詣は例年通り。お年玉の使い道がないのもいつものこと。物欲がないのだ。やっと官能小説に踏ん切りがついて思考も受験生モードになりつつあったその日、びっくりしたことに応募した出版社から電話が来た。まだ応募して二ヶ月ほど。
「最終に残りました」
「もうですか?」
まだ一次選考すらネットには出ていない。そもそも出るのかも知らない。
「最終選考中ですので、受賞になった場合のみご連絡します」
「はい」
電話口でなにを話していいのかわからない。
相手は男の人だった。大人の、落ち着いた声の人だった。こっちはただただびっくりして、声が上ずる。
電話を切ってベッドに横になる。衝撃が大きすぎ。忘れていた小町さんとがっちり握手がしたい。
これが報われたということではないのだろう。まだ手前の手前。
「あれ、連絡する日っていつだっけ?」
こういうときのために自動録音をしている自分にガッツポーズ。電話に向かって正座をしている。会話を再生。
これって、選外であれば電話は来ないということだろうか。僕の文章力はどうなのだろう? 一定のラインを越えているのだろうか。賞の傾向には合っていたのだろうか? そういう話はないんだな。報告と結果だけ。
嬉しいのに誰にも話せない。春風はCMが決まったとはしゃいでいる。我が家も映画の撮影に使われることになって母はウキウキ。父が課長に昇進。いいことは続くものだ。
僕だけが話せない。
大学入試共通テストの日が小説の結果が出る日。嘘みたいに緊張した。生まれてきた人生で一番大事な日。
試験中、電話の電源は切っていた。それを先に伝えようか否か考えたが、近くの席で恐らく中学が同じで高校は別だった男同士の再会に胸が熱くなる。友情も夢もお金を払っても買えないものだ。タイミングもそう。今は受験生として集中するべきだ。
この中で、誰か一人ものすごくいい匂いのする女がいる。男は集中力を欠かれる。憶えたはずの熟語や公式が思い出せないだろう。彼女はそれを狙っているのだろうか。だとしたら策士だな。フェロモンということもある。生まれたままでこの香りだったらきっと男に不自由しない人生なのだろう。ここにいる愚かな男子は見事に混乱する。僕だけは動じない。免疫たっぷりだ。公子さん、小町さん、ありがとう。想像上だけだけれど。
試験を終え、電源を入れる。着信があった。折り返したほうがいいのか悩んでいると電話が震えた。
「はい、会田です」
賞は逃したが将来を見越して僕に会いたいという。自分が高揚したのがわかった。
若いから? それって、才能うんぬんじゃないのかもしれない。本郷さんに言いたい。けれど、話せない。
とりあえず受験が終わったら出版社で会って話をしようということになった。受験生にバレンタインは無関係。家族と本郷さんからはもらった。チョコはおいしい。しかし、官能が足りない。受験勉強と官能は大きくかけ離れている。でも受験が終われば出版社の人に会える。そのことを文芸部の本郷さんに伝えられないのが申し訳ない気持ちになる。
他人と外で会う約束をするなんて大人みたいだ。なんの話をするのだろう。ダットサンとのデートよりもはるかに緊張。
試験を終えた次の週、土曜日だったのでファミレスで待ち合わせ。親ではない大人とこういうふう待ち合わせをして会うことが初めてで、悪いことをしている気分。
電話では落ち着いた男の人の声だったが、実際に会った菅野(すがの)さんは20代後半の、官能小説を生業としているとは思えない好青年。もさっとしていないし、体型もスリム。柄シャツが似合っていない。余計に僕の中でエロが不透明になる。
「どうも」
と人生で初めて名刺をいただく。初対面のときはその名刺をテーブルに置き続けることがマナーらしいが、そのほかの礼儀を知らない。
「初めまして、会田です」
「菅野です」
菅野さんはコーヒーゼリーを食べながらタブレットで原稿を読んでいたようだ。こんな明るいところで官能小説を? もしかして、普通の小説も取り扱っているのだろうか。
「会田くんは好きなの食べて」
「はい」
安いドリアを食べながら、菅野さんがじりじり責めてくる。
「若いね。え、まだ一冊しか読んでないの? だめだよ。貪るように読まなくちゃ。そうかあ、買えないもんね。時代だね」
僕は官能小説に出会った経緯を話した。休みの日の古本市のおまけでおじさんからもらったこと。
菅野さんは涙目で、
「素敵な出会いだね」
と言ってくれた。
「はい」
「会田くん、思ってたよりかっこいいけど自身の恋愛はどうなの? 聞いていい?」
菅野さんはアイスを追加注文。
「ときめいたこと、ないです」
たぶん、ない。公子さんにはただの欲情、小町さんは創造。
「童貞? いいね」
と菅野さんは嫌な笑い方をした。
「失礼ですよ」
「すいません。初々しくて」
バカにしてるというよりは本当に面白がっている。いじめる側といじめられる側の感じ方の違いに似ている。
なぜかバニラアイスにブラックペッパーを削ったものを口に運びながら菅野さんは自分のことを話してくれた。入社して6年。担当している作家は10名以上。官能小説のみ。
「すごい」
「うちは人数、少ないから」
菅野さんはぱっと見、芸能人並みのオーラがある。
「女性の作家さんもいるんですか?」
「そうね。増えて来てるね」
僕も疑問をぶつける。
「菅野さんはどうしてかっこよくていい大学出てるのに官能小説が好きなんですか?」
「ロマンだよ」
その一言で片づけられるわけない。彼と同じように笑ってしまったことを詫びた。これでおあいこだ。
小説についてはそんなに話さなかった。どうしたらいい文章が書けるのか知りたかったのに菅野さんの話術に嵌ってしまった。昨今の官能小説の世界の厳しさを痛感する。タブーばかりというのは本当らしい。
「特にうちは親会社がちゃんとしているからね」
菅野さんがコーヒーゼリーをぐちゃぐちゃにかき回す。ああ、この人もそうやって日常の中のエロを探さずにはいられない人なのだ。
次の作品を書いたらメールで送るように言われ、菅野さんからもらった封筒の中身にどきり。
本とか資料っぽいもの。体位の本は童貞の僕には図解つきで刺激が強すぎます。試験から解放された脳も受け付けそうにない。もうひとつは僕が賞に送った小説の直し。赤ペンでびっしり。
『ここの心境をもっと深く』『擬音が甘い』『神の視点を学んでください』『流されるのはいいけど無駄にやりっぱなし。丁寧に』『もう少し女性の体を知らないと。絵が浮かぶように』『この表現はすごくいい』
等々。本当に読み込んでくれたことが伝わった。それだけで嬉しい。惚れてしまいそうなほどだ。
本郷さんが賞の選評をもらっただけで前向きになる気持ちが少し理解できた。
確かに公子さんの小説には体位や性技がちりばめられていた。具体的な体の部分が恥ずかしくて書けなかった。触ったら、いじったら女の人がどういう対応をするのか、体がどんな変化があるのかもわからない。圧倒的に知識が足りない。言葉攻めもわからない。褒められたのは嬉しい。
自然と新しい作品を書き始めていた。実は受験の前からずっと温めていた。
珍しく箱書き。鉛筆で名前とか職業、話の展開を書いただけで水色のパーカーの袖が汚れた。どこかの国では、少し前まで兄嫁に教わるのが普通のことだったらしい。きちんと恋愛をしていたら困らずに済んだ。妹の友達を餌食にするわけにはいかない。
菅野さんの期待に応えたかったわけではない。書けてしまう。溜まっていたのだ。文章を、小説を、官能小説を書きたかった。一気に解放する。休日を含め、4日で書き上げた小説を菅野さんに送った。それを意欲的と受け取ってくれたのは嬉しかった。受験戦争を勝ち抜くためにライバルの男の子を欲まみれにし、推薦を受けるために先生に色仕掛けをするJK。試験中にこんなことを考えていたのだから試験の結果は微妙。
少し大学のレベルを下げなければいけないだろうか。
できれば、家を出たい。一人暮らしをすればエロゲーし放題。
すぐに菅野さんから連絡があった。コーヒーショップで待ち合わせ。菅野さんはいつでも糖分を摂取する人。
菅野さんの顔は曇っていた。
「だめでしたか?」
菅野さんが気になるポイントは押さえたつもり。より官能的に、体位やプレイも取り入れた。心情も書けた。
「今はコンプラがうるさくて、高校生が主人公はちょっと…」
「そうなんですか? 妹の友達に借りた少女マンガじゃ中学生や小学生があられもないことをしてますよ」
「あっちはなぜか緩いんですよ」
菅野さんもその点は不満なようだ。
大学生の設定にしても問題はないので、直すことにした。また修正がたくさん入れられている。てにをはは気にしているつもりだったのに、文末が『る』が多いことを指摘される。確かにそう。プロっていつでも冷静に読んでくれる。
「ここも説明っぽい。もっと表現豊かに。官能小説なんだから官能的に」
「はい」
家に持ち帰って再読。
読む、直す、読む、直す。送る。だめな部分を指摘される。直す。菅野さんは忙しいだろうに、読んでくれる。
部室でも家でもパソコンに向かい、受験のときよりも肩こりに悩まされる。こういうときは炭酸だ。それで解消される健康な体に感謝する。
春風に借りてマンガを読んだり、映画に行って気持ちを切り替える。洗濯物をたたんでパソコンの画面から目を離すだけで頭痛が軽減。自分の整え方がわかってくる。
息を吐いてばかりいたって苦しい。たっぷり空気を吸って吐くのがいいらしい。母は今度、神社でヨガをやるそうだ。ついて行きたいけれど、今は官能小説を優先しなければいけないときだ。
なんとか大学入学とデビューが決まりそう。
卒業式、バンドマンたちはサボった。小さいけれどフェスに呼ばれたらしい。仕事を優先して当然だ。
「卒業おめでとうございます」
本郷さんには最後まで官能小説を書いていることを言えなかった。ごめん。
「部員集めてね」
部長として言えることはそれだけ。彼女が頑張っていることは知っている。僕は官能小説に応募して一発目で目をかけてもらえた。それが珍しいのだろう。投稿し続ける労力は素晴らしい。落ち込んで、這い上がれない人もいる。壁の高さや、打ちのめされることに慣れているとかではなくて、固執して次にいけない人もいる。
文芸部の橋爪先生には卒業式より前に話した。
「本当に? すごい、おめでとう」
橋爪先生はハプニングバーとか夫婦交換モノが好きそう。結婚が決まって仕事は辞めるらしい。だから、新婚家庭には持ち込めない書籍を引き取った。
高校3年の真ん中くらいで夢らしものを初めて見つけて、急に努力して、少し報われた。まだ人生が楽しいとは断言できない。もしかしたら、これは悪いほうに転んでいるのかもしれない。でも、今日の晴天のように気持ちはすがすがしい。山に向かって人間は登りたがるものなのだ。
部室から見える景色が好きだった。バイバイ。
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