3 大学生+官能小説家

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3 大学生+官能小説家

 大学入学を機に一人暮らしをすることになった。千葉の大学だから通えないことはないのだが、一人暮らしがしたかったのも事実。念願の一人利暮らし。官能小説書き放題、エロ解禁。 「寂しい」  と春風はしょんぼり。  結局、父を味方につけることにした。お金のことなども含め、やはり話さないわけにもゆかない。 「官能小説?」  父は絶句というよりも、夢について語りだした。自分は家を捨てられずに夢を諦めたから、若いうちは自由にしていいと言った。でも、家は継いでほしいとも言われた。実直な父がなぜ母を好きになったのかが初めて分かった気がした。真面目な人間でないと務まらない。  父が母と春風を説得してくれて、一人暮らしの物件は家族総出で口を出してうるさかった。引っ越しは一階が便利だけど防犯なら二階以上とか。  決めた部屋は1DKでDKが結構広い。 「料理なんてしないでしょう?」  母が使わない皿などを棚に並べる。  古いアパートで家賃は5万円。それくらい稼げるようになるのだろうか。  引っ越しは家族だけで済ませた。 「あとはネットの契約すればいいだけかな」  家族が帰ってゆくときだけしんみり。  今、必要なものなんてネットにつながっていないパソコンだけだ。つながっていなくても小説は書ける。  早速、進める。一人って寂しいな。当然だけれど春風の足音は聞こえてこない。でももう、誰の目も気にしなくていい。  父から秘蔵の官能小説をいただく。人からもらってばかりの人生であることに気づく。早く与えられる人間になりたい。 『ほら、精子がほしいんだろ?』  父から譲り受けた官能小説はわりとハード。  大学生、一人暮らし、官能小説読み放題、書き放題。風俗にだってもう行ける。それなのにAVは見ないなのだ。  自由にも制限があって、官能小説なんてまさにそれ。エロいのにタブーが多すぎる。描写と比喩に頼るしかない。しかし、湧いてこない。雰囲気で書けるものではない。  生きている実感なんて人それぞれだ。まだ春休み。寝食を忘れて、官能小説を書き続けて搾り取られて死にそうになる。  カップラーメンばかり食べた。楽だし、うまい。  雑念が消える。一人だと、際限ない。親が飯を食えとも言わないし、春風が不用意にも入ってこない。母親が洗濯物を置きに来ることにびくつかなくていい。いつでも寝れるし、書けるし、自慰もできる。開放どころか自由すぎて縛られたい。  クるとか、そそるとか、やはり体験がないからわからない。濃厚なキスの描写すら怪しい。外国映画を見ながら擬音を書く。チュパチュパ、ピチュ。  だめだ。どんどん堕落してゆく。動かないと肩が固まるから気づいたときにストレッチ。実家では緑茶だったけど母が楽だからと粉茶を置いて行ってくれた。水にも溶ける優れもの。  人から遠ざかるのって案外、楽。そう思っていたら電気屋さんが来て洗濯機の設置をしてくれた。 「ありがとうございます」  家族が帰ったとき以来、ようやく言葉を発したことに気づく。一瞬で自堕落。  集中してしまう。これが小説を書くことに吉と出るのか凶と出るのか。それもまた自分の努力次第。アパートは一階だけれどベランダがあるので布団を干す。おひさまの匂いに癒される。  割と環境に影響されやすいらしく、一人暮らしを始めた童貞大学生の部屋に美女が舞い込んでくる話を書いてしまう。願望だ。黙々と書く。時間の経過があっという間。時計を見て、朝なのか夜なのか外を見ないと区別つかない。まだ入学式前からそのざまだ。 「寝なくちゃ」  冷たい布団を取り込んで、自分を抱き締めて眠る。昔から寝相が悪くて、目が覚めて布団がかかっていることは少ない。それでも風邪は引かない。  あっという間に世の中の情報に疎くなる。小説家は情弱でいいのだろうか。  母親が置いて行った食料が切れたから買いに出る。刻み昆布を舐めかじっていたけれど、空腹に襲われて執筆が止まる。でも自分がからっぽになる感じってちょっといい。餓えることがなかった。この極限を楽しんでいる場合ではない。買い物へ出よう。桜がきれいだって理由だけで足を止めて見上げている人のうしろをかすめるように歩いた。  もう吐息が白くない。まだコンビニのおでんはおいしい。  孤独って、じりじり近寄ってきてあっという間に心を埋め尽くす。小説を書いていなかったらホームシックに陥っていただろう。  寂しい夜は公子さんの本を開く。飽きない。毎回、新たな発見がある。しなやかなくびれ、たわわな胸。  大学の入学式、みんなが眩しい顔をしているのに、徹夜明けで、偉い人の話しを聞いてるのも辛い。スーツなのに猫背の大学生なんて他にいない。  こんなことをしているくらいなら、うちで小説を書いているほうがいいと思ってしまってからは、もう思考はエロいことに囚われる。新入生とお母さんばかりに囲まれて、熟女とは何歳から何歳までを指すのかを考えてしまった。  家に帰ってドリップコーヒーを淹れる。まだ昼の1時半。カレーパンにかぶりつく。肉を焼くとか目玉焼きくらいなら作れるのに、しないのだ。料理をすると片づけたり、掃除がセット。放置はできない。ならば、なるたけ執筆が進む方法を模索する。究極は食べないことになってしまう。  大学へは真面目に通った。それが父との約束だったから。まだ出版社との契約前だ。保障されてもいないからやはりバイトをするべきなのだろうか。  学校に行くと女の子ばかりが目につく。だって、かわいい。しかし、僕の小説には出てこない人たちだ。もうすこし育ってから僕の前に現れてください。  女の子同士の会話に耳を傾ける。それも勉強だ。 「私、左の胸だけ大きくて」 「みんなそうらしいよ、心臓があるから」  そうなのか。見た目ではわからないものだ。でも心臓って真ん中なのではないだろうか。  エロいことばかりを考えているせいで精神論や右にも左にも無頓着。今はひたすら官能の世界に没頭している。ようやくリベラルの意味を知る。心が欲しているのは、最上のエロ。それを文字にしたい。本を読む人自体は減ってはいないはず。嫌悪されない文体を目指したい。頂点になりたいとは思わないが、誰かにとっての最高になったら嬉しい。エロでそれを望むのはむつかしいのだろうか。大衆や万人受けという言葉が頭をちらつく。人気者になりたいわけではない。  本郷さんが好む純文学は難しそうって思った。官能小説だって同じ文字だ。簡単ではない。むしろ、女の人の喘ぎ声とかピストン音とか、ほとばしる汗を文字にするのだ。ダットサンが貸してくれた漫画が擬音の勉強になるので、一人暮らしを始めてすぐに自分でもこっそり購入。精子が出る音がなぜドピュッなのだろう。絶対にしない。新しい音を考えなければ。  メタファーは共通かもしれないが想像力って人による。人間の脳みその半分以上は休んでいるらしい。動いてよ。本人がこんなに細胞をフルに活用したいと思っているのに。あまりにも栄養を摂ることを忘れてぽかぽか陽気なのに小指だけ冷たい。そんなとき、 『知らなかった』  と母からメールが届く。ヨガで呼ばれた神社が男根の形をした木を祀っているからって写真付き。これは、僕が官能小説をかいていることがバレたということではないらしい。ただ単に、そういう神社があることの報告。母さん、返信に困ります。  エロの神様って日本中に結構いるらしい。足りなくなったら補いに行こう。  今日一日に口に入れたものがカレーパンだけでは心もとない。でももう眠くて動けない。土日は大学から解放される。週の3分の1も人は休んでいるのだな。一日の3分の1くらいも寝てる。そこでなんとか帳尻を合わせて、真面目に官能小説を書き続けた。  大学と物書きの生活は頭の切り替えが難しい。講義の場所とか、必要な教科書とかがまだ覚えられない。  しかも放っておくと洗濯が溜まる。洗わないと臭う。食事をしないと痩せてしまう。トイレにも行かなきゃ。  ティッシュだけが減る。  大学入ってよかったなと思うのは人が見れること。ごはんを食べるふりをして観察。やけにきれいな学食だった。システマチックに生かされてきたから食券を買って、食べることに誰も戸惑わない。スムーズだ。 ブスをかわいいと言う男がいた。 「愛嬌があっていいよ」  真に受けるブスを滑稽だとは思わない。それは、人生の一端だ。ああ、きっとその男に処女を取られて終わるのだろう。だから今は笑っていたらいいのだ。  友達を敢えて作らないわけじゃない。だけれど、一人が楽だ。人の顔色を窺うよりも今は頭の中を桃色にしなくては。出かけている時間もないし、もろもろが話せない。  官能小説を書いていることがバレたら一気に異端者だ。それは免れたい。  雑踏に耳を澄ませる。 「そのエナジードリンク見るとエロいこと考える。前に付き合ってたおじさんがやる前に必ず飲むから。その人とね、7年付き合ってた」  学食で昼間からそんな話題を提供してくれてありがとう。肌も露出してくれてありがとう。頭ぐりぐりでお姉さんぽく見えるけど僕と同じ年なら11歳から付き合ってたってこと? それって、あり得るの?  愛だって千差万別だろう。歳の差、同性愛。むしろ普通の愛なんてないのではないだろうか。みんなそれなりに悩むよ。その人のことは好きだけど、その人の家族までは愛せなかったり。  大学生になったからって急にはっちゃけたりはしない。小説家なんてそのうちAIが台頭するんじゃなかろうか。先細り企業に就職を希望する人の気分。そう思うのに、やめられない。いつでも頭が考えてしまう。電車に居合わせた会社員さんのタイトなスーツが似合っていたら、どんな言葉を発したら彼女はそれを脱ぐのか妄想してしまう。卑猥なほうがいいのか、それとも弱みを握って言いなりにしようか。ニットのワンピも体の形がわかっていい。あの人はお尻の形がよさそう。  頭の中はエロでいっぱいなのに行動をするかしないかで犯罪者か否か。今日、尻を触られた気がする。長身なので女性が間違えられることはないだろう。痴女さんだろうか。ちゃんと見て、話しを聞けばよかった。僕が不快だと思えばたとえ相手がJCでも犯罪者になるのだろうか。  官能小説が変態さんの抑止力になるとは思わない。今は専門のお店もあるから自分の趣向がわかったほうが楽だろう。女性のためのお店もあるのだろうか。  昼は大学、夜は執筆のおかげかよく眠れる。官能小説の賞が発表されていた。僕の名前はない。 一人暮らしって窓の掃除の頻度に悩む。母はどうしていただろう。暇な時間が僕にはない。 チーズを割いてもカニカマを割いても、花が咲いているだけでエロい。  また書き上げてしまった。  同じ賞には応募しないほうがいいのだろうか。菅野さんは相談すれば対応してくれるけれど、小説家になるためには賞を取るしか方法はないのだろうか。 部屋の隅でなんだかわからない虫が死んでいる。 「ひぃ」 と言葉を発して、それを久しぶりだなと思った。  官能小説って嬲辱とか、どうして難しい漢字ばかりなんだろう。もっとさらっとしたものがあってもいいのかな。言い換えてみる? 敢えて隠語を使わないでみる?  次回作のネタ探しに散歩に出る。人口減少のせいではなくて、無駄に歩く人が減ったように思う。あっちから人が来たらこっちに避けるのが礼儀で、潔癖っぽい人が増えた。人と関わらなかったら絶対にセックスなんてできない。知らない相手だからそこ寝れる人もいるのかな。愛じゃない行為のほうが楽だったりするのだろうか。こういう相談が誰にもできない。  今って、どういう状況なのだろう。菅野さんは担当さんでいいのだろうか。数回会っただけ。それなのに無茶苦茶信用してしまっている。頭の中も心の中もさらけ出せる人なんていなかった。妹の春風にとってはいいお兄ちゃんでいなくてはならなかったし、親からは優秀な息子でいたかったから、装っていた。  飴を舐めながら、しゃぶるの言い回しを考える。舐め回す。口に含む。ハーレム状態にいたことがないけど女の人から好かれるのはマメな男なのだろう。菅野さんのような。  菅野さんのような人は初めてだ。しかも、いつもごはんやコーヒーを奢ってくれる。それって都合のいい相手ってことだろうか。僕の体目当てということもないだろう。菅野さんも若いけれど、若手の育成と思ってくれているのだろうか。  この前、電車の中で僕のお尻を撫でたのは男性ということも有り得る。BLすら読んだことがない。小説として需要はあるのだろうか。官能小説家になったらいろんな性癖を受け入れられるのだろうか。体験よりも心情だろう。  官能小説は仕事に近いから趣味ではないのだ。素敵な趣味を持ちたいな。仕事も絡めて、拷問グッズの収集とか。部屋にはまだそんなにエロいものは増えていない。菅野さんがくれるものだけ。  たまたま入った店のかわいいフィギアのパンツがどう見ても宙に浮いている。紐はあるのだけれど、実物だったら布はそんなふうに張り付かない。構造に異論を唱えているのは僕だけではなかった。検索して納得。  思考は標準でいたいのだ。いつでもパンチラに胸が躍るべきであるし、足がきれいな女の子を見ていたい。面白いとかエロいの観点がずれたら官能小説家を目指せなくなると思う。 「会田くん、発売日が決まったよ」  それはとても眩しい春の日だった。大学の学食で音楽を聴くふりをして周囲の話に耳をそばだてているときに電話が震えた。 「え、なんで?」  僕は思考が追いつかず、菅野さんにおかしな質問を返してしまった。 「社内で検討してるって話したよね?」  夢っていうのはお金では買えない。希望がなくても人は生きられる。しかし、認められるのはやはり嬉しい。 「はい。どれですか?」  と菅野さんに聞いた。もう幾つも送り付けていたから。 「この前直したやつ」  と言われても、すみれさんか晴海ちゃんか苑子さんかわからない。今書いている瑠依を最も愛でている。どうしてか女性主人公になってしまう。  菅野さんが、 「おめでとう」  と言ってくれた。電話を切った途端、世の中がキラキラ輝いて見えた。官能小説を書き始めたときよりも鮮明に。  よかった、と同時にどうしよう? 廊下を無駄に右往左往。  いいのか? デビューしちゃっていいのか? 顔バレしてしまうかもしれない。うしろ指さされるだろうか。変態の代表格になるのだろうか。  ほっとはしている。  文学部に入学したのにうっかり哲学を専攻してしまって、本ばかり読んでいたい自分と葛藤していたところだ。  僕はサークルにも入らずバイトもしていないちょっと変わった人と周囲からは見られているだろう。官能小説を書いていることは話せないから好都合だ。むしろパーソナルスペースに入り込もうとする人を事前にシャットアウトする技をいつの間にか習得していた。きっと高校時代から僕は自然とそうしていたに違いない。時間を確保できなければ小説は書けない。  小説を書くことよりも大事な人間は少なくていい。本を貸してくれる春風とダットサンがいなくて困っている。新しい情報が入ってこない。ダットサンはハイスペ男子が好きだし、春風は残酷さを僕に教えてくれた。小説の相談が本郷さんにできなくなってしまったが、偉大な菅野さんという協力者を得た。が、菅野さんは官能小説のプロである。スカトロは資料だけで断念。読み込めなかった。人外は2次元でもむつかしい。生徒と先生とか歳の差愛の互いを思いやる感じがとても好きだ。 「デビューか」  当たり前だけれど、人に読まれるのは少し恥ずかしい。本が発売されたら誰かの救いになったりはしないだろうか。  単純に嬉しい。努力が実を結んだ。ずるをしてもいない。春風から決まっていたCMを枕営業した女の子に取られたと嘆きの電話をもらったけど、そんなの実際にあるかもしれないが誰かから吹き込まれただけかもしれない。悪意って簡単に生まれる。 「自分で判断しなさい」  年長者としてはそれしか言えない。 「お兄、冷たい」  劣っていたという言葉は適切でないから、 「その子のほうがイメージに合っていたんだろ?」  としか言いようがない。  無駄な努力などない。春風がいつもしている早口言葉が役に立つこともあるだろう。時には一歩引いて次のために力を蓄えることも必要だ。  今は自分のことに専念しなくては。春風の電話を切って、メールをチェック。菅野さんから直しの指示が届いている。  読み直していたら自分で誤字を発見。発生と派生では大きく違う。冷静に読み直すと自分しかわからない点が多すぎる。間取りに無理がある。矛盾になってしまう。ああ、たるんだ熟女の内腿の柔らかさなんてどれくらいだろう。肉を買ってきたけど鶏の胸肉って硬いな。明太子くらいが近いのではないだろうか。ぷにっとしているから、見た目同様、唇って感じだな。ふわふわのタオルも違うだろうし、ギモーブはどうだろう。  菅野さんは変態だ。設定を変えると、 「それは〇〇という作品に酷似します」  とか、 「名前が名作と同じなので変えてください」  と、すぐさま返信が来る。 「意外とそれ、気持ちよくないんですよね」  知りませんよ。童貞の妄想を弄ばないでください。  官能小説を学べる学部をちゃんと選ぶべきだったろうか。そんなのあるだろうか。 『震えている。好きだった真穂子さんの裸を目前にして…』  実際、どうなるのだろう? 裸の女の人の写真集を開く。違う。これは官能小説だ。想像でいいのだ。妄想、仮想なんでもいい。頭の中の真穂子さんが動いてくれればいい。 『冷たい床の上であなたを押しつぶすように…』  鳥のさえずりがして、朝になっていることに気づく。完徹なんて初めて。楽しいけれど、寝ないと死んじゃう。  デビューなんて、そんな度胸と度量があるのだろうか。指先はまだキーボードの上で踊っている。脳からの指令なのだろうか。僕のエロの知識を今、全て注ぎ込む。出し惜しみなんてしていられない。 『比例してあなたの体温は熱くな…』  はっとして保存だけしてベッドに潜る。アラームをセットして、眠ることにさえ真剣になる。大学へ向かう。授業も知識を増やしているようで楽しい。瞼は重いのに、世界は眩しい。  コーヒーを飲めば若い体は授業にも耐えてくれる。  その日の授業は午前中だけだった。牛丼をかき込んで、パソコンに向かう。特盛にしなければよかった。満腹とぽかぽかの日差しがちょうどいい。 『マグマのように熱い液をしたたらせ…』  完徹なんてしたら、その分眠ってしまうことを知る。高校生のときとは違って文末まで書かなくても眠れてしまう。  だめだ、緊張感が足りていない証拠だ。一人の環境に甘くなる。 「今月中に最終原稿をください」  菅野さんはメールのあとで、必ず電話もくれる。 「はい」  アパートの住民はほとんど大学生。あちこちから喘ぎ声が響く。本物なのだろうか? AV?もうみんな恋人ができたのだろうか。僕だけ出遅れた?  こんな僕とまともに恋愛をしようという女子がいるのだろうか。きっと官能小説を書いていることを隠してしまう。恋愛を勉強と捉えてしまう。  無理だろう。改めるべきなのだろうか。でも官能小説を書くことはやめられそうにない。  今はどうでもいい。セックスって気持ちいいのだろうか。僕はまだその段階だ。それでも官能小説を書いている。  音だけ聞かせてくれる風俗もあるらしい。ぐちょぐちょなのかねちょねちょなのか、納豆をかき混ぜながら思いをはせる。たまに空気が入って泡ができる。セックスはどうなのだろう。あれがああなって、ああなる。理論はわかっている。  あの作家も、あの革命家だって死ぬまで童貞だったらしい。  栄養を取ろうと買った夏みかんの汁が目に飛ぶ。缶詰のフタですぱっと指を切る。何事も経験だ。  ヒロインが夢に出てきて僕を試す。映画監督は女優に惚れても抱かないって聞いたけど、抱いちゃった人もいるだろう。夢の中でさえ僕は葛藤するのだ。女の子って柔らかいしいい匂いがする。  ダットサンに借りたマンガでは結構な割合で男から舐めていたけれど、できるのだろうか。女性のほうが完全に排泄器官を口に含むんだよな。考えすぎてこめかみが痛い。  官能小説を書き続けるとしたら、この苦しみは続くのだろうか。  マンガのほうが絵だから体を押し広げるとかわかりやすい。文字って、厄介。触る、つまむ、揉みしだく。余計にエロいのかな。突起の形容が思いつかなくて、緩衝材をプチプチ潰し続けた。こんな乳首の人もいるのだろう。  昔から季節に影響される性質だ。初夏になるにつれ、元気いっぱいの新緑からエナジーを受け取る。授業を受けながら仮眠。女の子を見るだけでは創作意欲を掻き立てられない。むしろ、本物の女の子がどんどん怖くなる。かわいいと卑猥とずるさを持ち合わせた狡猾な生き物に見えてきた。  春風が電話をくれないと、女の子と話さない日々が増えてゆく。きっと学校の女の子たちからは変な奴属性なのだろう。今はそれでいい。  お腹はすくのに女には飢えないのだ。たぶん、まだ知らないから。一度でも知ってしまったら欲してしまう。  今はまだ目の保養で誤魔化せる。たまに電車に乗るといい尻に出くわす。鍛え上げているのだろう。きゅっとしている。素敵だ。そう思う程度で、その尻をどうこうしたいと思えないのだから男としての何かが劣っているのだろう。  キスもしたことないのに、知らぬまま官能小説家としてデビューをしていいのだろうか。急に不安。 「決定稿のチェックお願いします」  菅野さんが追い詰める。淫乱とはなんだろう。  推敲した。熟考した。  知恵を出し切る。次の作品のことは考えない。僕の性の知識を全部さらけ出しても、やっぱり初心者。愛液はスライムに似ているのだろうか? 匂いは? 愛している人の肌触りは?  誰かに読んでもらったほうがいいのだろうか。本郷さんがちらっと頭に浮かんだけれど今年は受験のはず。それに彼女は純文畑の人だから、官能小説をバカにしそう。エロだけど、エロだけじゃないよ。人の心をきちんと描いているよ。君の好きな小説のほうが人を人と扱わず、女の人を傷つけてばかりな気がする。  目の奥がずーんと思い。温めたり、頭をマッサージすると緩和する。  初めて整体に行く。女性が担当だった。細い指が僕の体をほぐしてゆく。 「お尻が凝っていますね。ここ、痛いでしょう?」 「はい」 だめですよ。もう、これ以上僕に新しい風を吹き込まないでください。  悩んだ。迷った。躊躇した。  完璧のはず。完璧ってなんだ?  勢いで、OKを出してしまった。  なんだろう。脱稿とは違うムズムズ感。  少なくとも、誰も傷つけてはいない。それが僕にとっての小説に対しての礼儀だ。一般の小説でさえ不快感が残るものがある。バッドエンドも手法だけれど官能小説でそれは辛いよ。希望ももしかしたら辛いのかもしれない。  菅野さんが読んで、出版社の校正の人が読んでくれるらしい。数ヶ所、直すだけでも確認。『1人』と『一人』なんて明らか変換ミスなのだから勝手に直してくれていいのに。いや、これは仕事だ。甘えてはいけない。  最後の確認だけ出版社で行われた。 「このドアは引き戸でしょうか?」  どっちでもいいとは言えない。すごい細部まで聞かれて、こっちが恥ずかしくなる。そうか、下着の色や柄まで書き込んだほうが想像しやすいか。 「黒じゃなくて薄紫にしましょう。紐パンだったら口でほどけますよ」  校正さんはおじさんだ。かわいい人はいない部署なのだろうか。頑張れるのに、そう思ったらそのおじさんに申し訳ない。きっちり七三の、髪型通りきっちりした方。でも僕の小説を最後に定年だという。筆名も一緒になって考えてくれた。不埒な名前。  最後の仕事が僕でよかったのだろうか。 「若い人と仕事をするのは嬉しいですよ」  と言ってくれた。彼の知能だけでも僕に移植できないだろうか。すごいものが書ける気がする。 「会田くん、表紙決めて」  やっぱりむっちりした女の人がチラっとたわわな胸で誘惑するイラスト。こんな体つきの人いるのだろうか。胸とお尻がスイカみたい。  イラストを描いている人が女性だと聞いてびっくり。自分の体を誇張するのだろうか。  校正さんも加わって、選んだ。清楚な女性のイメージだったけど、こうして表紙が決まると小説の中の自分か作り出した人の顔が固定されるんだなとあらためて実感。だから公子さんは最初から顔も体つきもイメージできたのだ。挿絵まであった。  最終稿を決めたあとで、本屋に行って装丁を見て今更勉強。もっと淫靡な下着姿でもよかったな。あの触りたくなるお尻は秀逸だ。写真ではなく絵なのだ。写実的というか、本当に生きている人みたい。お尻が表紙の本なんて、この本屋にも置かれていない。  翌日にはもう次の作品の続きを書いていた。頭が休まらない。出てきちゃう。文字にしないと忘れてしまう。すっかり普通の小説を読まなくなったし書かなくもなった。官能小説も読みすぎると似たものに例えてしまいそうで怖い。貝とか果物とか。自分でも頭がおかしいのかなと思う。こんなに女を抱くにはどれほどの体力が必要で、たんぱく質を取るべきなのか、他のエキスが必要になるのだろうかと考える。  数日後、菅野さんに呼び出された。資料だと言っておもちゃやら昔の拷問器具の解説本をくれたけれど、そういう無機質な物にはちっとも欲情しない。  やっぱり生温かい女の子がいい。 「ちゃんと恋愛してね」  は余計なアドバイス。  菅野さんは今日はいちごのパフェ。  ついでのように、自分の完成本をもらった。感動。ついこの間まで書いて、直していた小説だ。僕と菅野さんの努力の結晶。いや、菅野さんにとってはただの仕事。僕には処女本。  しばらく部屋に飾ってしまった。  来週には発売になるという。そんなに早いのだ。世の中の流れについてゆけてない。電子版も同日発売。 そもそも、官能小説の体をなしているのだろうか。お金を払ってまで読んでいただけるものなのだろうか。ご都合主義ではなかっただろうか。稚拙ではないだろうか。もっと深く学びたい。今からでも遅くない。本屋をうろうろ。日常にエロは紛れていない。勉強をしなくては。  想像していたよりも急展開。本屋を出たら風が吹いて女の子のパンツが見えたのに動じない。白だったからではない。童貞だけど慣れてしまうことってある。パンツなんて、菅野さんが下着の構造を理解しろと紐パンからフロントホック、ガードル、ベビードールまで山ほど送ってくる。彼は本当におかしな人だ。僕の反応を面白がっている。その気持ちすら作品にしなければならないのだから小説家は変態の気持ちすら上回らないといけないのだ。 初めての母からの宅配物はシャンプーとお茶と芳香剤、父の会社の新商品のジュースと健康食品。どこででも買えるよ、母さん。  なぜかバナナ。いただきます。  小説の発売日は前日からそわそわして、だけれど置いてある書店は限られている。近くにはない。昔はコンビニとかでも普通に官能小説も売っていたような気がするのだけど。  菅野さんの話では購買層は50、60代がメイン。寿命が延びたから70代でも熱心に買ってくれる人もいるらしい。毎月、新刊を買ってくれるお金持ちも少なくないようだ。好きな作家だけを買う人ももちろんいる。  ネットでは20代、30代の女性も買ってくれているらしい。ネットだと誰が買ったとかがすぐにわかる。どういう心境で読むのかだけ教えて欲しい。女性でもムラムラするのだろうか。疼きの違いはあるのだろうか。解消の仕方は?  そういえば、大学生になってからまともに読書を一冊も読んでいない。元文芸部部長の名折れだ。今はどんな本が売れているのか知りたくて本屋に行ったらクラスメイトのバンドマンが音楽雑誌の表紙を飾っていた。  先を越されたとは思っていない。同率でもないか。僕の本はそこには売ってすらいないもの。  彼は一部に熱狂的なファンがいて、チャラいだけの男だったはずなのに男気を無理矢理背負わされて、辛そう。今は音楽にもすぐ星がつく。他人の判断がそんなに大事だろうか?  家に帰って彼のCDと女の子のマンガをポチポチ。本屋さんを廃れさせるつもりはない。でも、書店でTLを買う勇気もない。オタクが己を極めることができるようになったのはネットの力も大きいだろう。  もう僕の本のレビューがあった。 『10代を売りにされても』 『本当に10代? ペンネームがジジくさい』 『同じ日に発売された巨匠と設定がもろかぶり』  がくーんと首が下がる。確かに無花果文蔵は校正さんと安易につけた名前だ。しかし、批判をしてくれている人は確実に買って読んでくださったのだ。有難い。この感謝を伝えるには次回作をもっとよく書くしかない。  数日たっても星は変わらず、レビューも減る。こんなことが辛いなんて幸せなほうだ。  菅野さんは、 「評価は気にしなくていい」  と言うが、だったらなにを気にしたらいいのだろう。  帯がまずかったのではないだろうか。 『10代にして、圧巻の描写』 なんて、期待が大きすぎる。 「落ち込んでいる暇があったら次を書く」  という本郷さんの声が耳の奥で聞こえた。JKに会いたいな。たった数ヶ月前までほぼ毎日一緒にいたのに、突然会えなくなる。縁てそういうものだ。  次のテーマは縁にしよう。  誘惑をされたことがないから誘惑系は書けない。いや、どのジャンルも想像にすぎない。  どんどん気持ちが落ちるのは梅雨のせいではない。本の発売については誰にも話せなかった。父にも言ってない。気にかけられたら困るし、知られたくもない。  一人暮らしには慣れたけれど、小説ばかり書いているせいなのか、料理に目覚めなかった。コンビニにもスーパーにもカット野菜はあるし、缶詰の魚は骨ごと食べられるし、レンチンか湯せんですこぶるうまいハンバーグが食べられる。  たまに春風が母の料理を持って来てくれたりする。母親って意外と料理が好きだったんだなと思う。一緒に暮らしているときには感じなかったけど、自分で作ると肉を焼くか大根を煮るなど単品になってしまうので、料理の才能はないようだ。父はなぜか手紙。文章を書くのは父の血なのかもしれない。 『焦らず、気負わないこと』  青年の悩みをよくわかっていらっしゃる。そして達筆。  悩む時間があったら執筆に回さなくては。葛藤だ。書き続けてばかりいると人間から遠ざかる。食べない、寝ない、笑わない。  タッパーが増えてゆくのが恐ろしくて、すぐに春風を呼ぶ。 「高2で中だるみするなよ」 「あれ以上、成績の落ちようがありません。でもね、英語の発音はいいって。今の担任の先生好きなんだ」  と先生の写真を見せてくれた。きれいな女の人。はかなげで、今まで周りにいないタイプ。  春風がうちでお菓子ばかり食べるから注意する。かと思えば、実家にいるときと同じように開脚をするから困る。  春風は演技の仕事を増やしたいようだが、まだ揺れている。親は高校卒業を絶対条件にするし、事務所はモデルの仕事ばかり入れる。演技よりもダンスレッスンばかりさせられると辟易。 「演技を学びに留学しようかな」  とまで言い出す。 「英語喋れないじゃん」 「まず語学学校行く。向こうって国立の学校にも演技のコースがあって入学金も授業料も安いんだよ」 「日本でも学べることはあるだろう」  と言うと春風は黙った。  ちょっと顔がいいだけ、スタイルがいいだけでは生き残れないことはわかっているようだ。どこに伸びしろがあるかなんて自分でもわからなかったりする。僕だって文芸部に所属していた三年間の最後で官能小説に出会えたことがラッキーなのだ。  春風のように藻掻いている時間が持てなかったことがむしろ惜しい。JKを観察するべきだった。習性、制服、会話。好きなお菓子、読んでいる雑誌。人と違うことを好きだと言わないと気が済まない性格の春風は一般的ではない。  タッパーを大量に抱えて帰る春風を駅まで見送る。霧雨のような雨が降っていて、駅に着いた女性が折りたたみ傘を傘と同じ色の小さな袋に無理矢理つっこむ様子が至極エロかった。ああ、帰ってまた僕は小説を書くだろう。改札を通って振り返った春風はちょっと大人に見えた。家族と別れるときはまだしんみり。と同時に、秘密を抱えているからほっとする。家に戻り、パソコンを立ち上げて、妄想の続きをする。  苦悩はしている。毎日、毎分。今は会社員のななみさんに寄り添っている。こんなにコロコロと趣向の違う女の人を描いていたら、現実でも浮気性になってしまうのではないだろうか。おかげさまでまだ童貞。  出会いはむしろ、ない。婚活しようかな。もう大好きな女性一人いてくれたらいい。ちょっとエロかったら尚良し。触発してほしい。そこの陽だまりで膝枕をしてくれないだろうか。  音楽は雑食系というけれど男や女はなんていうのだろうか。大学でもなんとかさんは片っ端から男を食っているとかなんとかくんはヤリチンだとか、そんな話題ばかり。そろそろ本性が露わになる頃だ。僕はうまく隠せている。  僕がくだらないことに頭を悩ませている間に季節がどんどん変わる。これが大人の時間の流れなのだろう。  年に3から4本出すことを菅野さんと口約束。契約書はないが、それが守れなかったらお払い箱なのだろうと察する。大人って大変。  僕の最初の本も本来出す人が原稿を落としたから繰り上げられたとゲロった。書けなくなることを考えるだけで恐ろしい。悪夢まで見てしまった。  書きたいものを菅野さんに送る、菅野さんが選出の中からプロットを練る、書き上げる、添削してくれる、直す、校正、また直し、決定稿、タイトル決め、表紙決め。  多忙である。執筆の合間に大学に行っているようだ。息つく暇もない。矢継ぎ早に次の作品の話題を振られる。世の中の流れ、データを吟味。 大人は忙しいのだ。だからおじさんはベンチで寝ているし、お姉さんも鬼の形相で人の肩にぶつかって歩いてゆく。 もう夏休み。女の子たちの服装は薄くなるし、海に行かなくてもフェスで水着の女の子に遭遇。友達もいないのにそんなところに出向いたのはバンドマンを見たかったから。頑張っているのは自分だけではない。僕の苦悩は苦痛ではない。それらを体感したかった。あわよくばネタの補充。外に出たのはそれきりだ。  酷暑であるが、涼しい部屋に籠っているので辛くない。パソコンが熱を帯びる。たまに肩を回さないと固まっている。  書く、目が痛い。ロックを聴く。マンガを読む。映画を見る。菅野さんを真似て糖分を摂取する。煮豆が栄養価が高そうだ。それだけで食事を終える。  夏休みは世の中を知るためにバイトをしたかった。しかし、書き終わらない。時間に余裕があるとだめだ。追い込まれないと集中できない。やっと汗が邪魔になる。タオルを頭に巻いて、間接に汗が溜まるから腕と膝にも巻く。  上書き保存を押しながら、ちょっとエロいなと思ったりした。  お盆に実家に帰らないことを親から咎められたが、ご先祖様すいません。官能小説が書き終わらないんです。こんなことをしている子孫が嫌でなかったら応援してください。  こんな僕にもファンレターが届いた。 『次回作を期待してます』  僕はスマホがなくても生きてゆける人間だ。でもパソコンは必要。仕事のためではあるけれど、もはや生活の一部。生きる希望でもある。  秋には二作目を発売。それも売れない。熟女に知り合いもいないのに、想像だけで書いたせい? 『お互いに優しすぎる』『前戯が足りない』『夏に発売の本が冬の設定って季節感おかしい』  という感想が寄せられる。ごもっとも。  そういうものか。だって寒くないと女の人だって触りたくない。でも開放的になるのは夏なのか。季節を先取りしないといけないなんて春風みたいなモデルじゃあるまいし。  フェスで思いついた夏のネタは来年に持ち越しだな。  すごく暑いのは一週間ほど。恋や愛はどうして持続するのだろう。  百合の花が重そうにしなだれて、己の重さに耐えきれずすごく淫靡に花弁が首を垂れているものもいる。自然界にもエロは存在する。  このままだったらどうしようと慌てて神頼み。お彼岸には家族と墓参り。ご先祖様はご立腹かもしれない。久々に家族とごはんを食べたら胃がほっとしたのがわかった。 「痩せた?」  母がまた大量のお惣菜を持たせてくれる。  妥協はしていない。守りに入ってもいない。一人暮らしの部屋が乱れてゆく。  ちゃんとするってむつかしい。それでも自分で決めたことだ。菅野さんの期待に応えたいだけではない。 布の少ない下着に囲まれているだけでは良作は書けないのだろうか。こんなの、何に使うのだろう。こんな角度で隠せるの? フィギアならまだしも、菅野さんが持ってきたどでかい人形が邪魔。ラブドールというものなのだろう。きれいすぎて触れない。調べたら無茶苦茶高い。幼女趣味はないからぺたんこ胸の写真集もいらない。趣向を知るほど受け入れられないものだ。こんなまともな人間が官能小説を書いていいのだろうか。戻る方法もわからない。  少し部屋を片付けた。パソコンから目を離すだけ鈍痛からで解放される。たらこパスタを作った。うまい。文字と対峙してばかりいると匂いに鈍感になる。気を紛らわすのに料理は適している。主婦の気分も味わえる。またスーパーに行こう。あ、指を切っちゃった。血が垂れる。こんなことで生きている実感味わいたくない。  秋晴れの空を見上げながら、普通にエロいと普通じゃないエロを考えている自分は普通ではないのだろうか。大学にも文芸部はあるようだったが今更だ。仲間を得たいとは思わない。蔑みあうのも慰め合うのも探り合いもご免だ。 僕の正体はバレずにいた。たぶん、官能小説を書いている人間になんて誰も興味がないだろう。書いている人間も身バレしたくない。表紙を描いている方に会うこともない。 こんなにも自分の仕事を話せない職業ってあるのだろうか。妻に話せても子どもには無理だろう。父親がエロいことを考えて得たお金で育ったと知ったらグレてしまうのではないだろうか。いや、今の子は逞しい。まして春風のような子だったら自分を売るために僕のことも公表するのだろう。餌巻きの小エビくらいにしか思ってくれない。だから春風には話さない。 どうしたら大作が書けるようになるのだろうか。疲労と収入は比例しない。  菅野さんが励ますから余計に辛い。メンタルが弱いのかもしれない。自殺が頭をよぎる。  おいしいおにぎりを食べたら吹っ切れた。生きているのだから死んじゃうのなんてもったいないとバンドマンも歌っている。  真面目な性分のせいか僕は授業もサボらないし、菅野さんの厳しい締め切りも守る。一癖ありそうな喫茶店のマスターを眺めていると僕の悩みなんて小さそう。昼に行列ができるから入ってみたら、喋ってばかりで手が止まる人だった。人のイライラを気にせず我が道を行く。僕もそうしよう。そこには、男子マンガとか青年誌があった。こういうのを通ってこなかったから勉強。男本位で、女性をいたぶる残酷な描写が気に入らない。  伸ばしているつもりはないのだけれど、髪がすっかりぼさぼさ。括ってしまったほうが楽だ。春風はその髪型を嫌がる。  隣りの部屋に女の子が訪ねて来ていた。足を開く心づもりで来ているのだろうか。小説のためとはいえ、その質問をぶつけたら通報されるのだろう。  後ろ姿美人だった。普通に生きているだけでは甘美なことなど滅多にない。誘惑されないし、歩き回っていると変質者に間違えられる。職質されたら大学生と答える。  小説を書き終えたら次回作の案を菅野さんに添付。孤島か廃墟もの、ブサイク兄弟の美女狩り、やっぱり溺愛。ひたすら新妻を愛でていたい。なぜか菅野さんとはそこだけが食い違う。受け入れてもらえない。もしかして愛を知らない人なのではないだろうか。仕事ばかりしている寂しい人。  大雨の日だって冷凍ピザを食べながら、小説を書いている。たまに腕立て伏せ。  これからずっと、書く、本を出す、批判される日々だったら嫌だなとはぼんやり思っていた。授業で思想を選択した自分を褒めてあげたい。世の中にはもっとおかしなことに苦悩して死んじゃう人すらいるのだ。  官能小説を書いていても苦しい。エロいことは楽しいことばかりではない。でも、死ぬほどじゃない。  ドラマだって音楽だって男と女のあれこれだ。官能小説はちょっと濃厚なだけ。チョコもチーズも濃厚が流行っている。もったりと描いてやる。  塞ぎ込みそうな僕を菅野さんが風俗に連れて行ってくれた。すごい。世界が激変。女の人ってすごい。骨があるのかなっていうくらい柔らかい。 「いいのよ、もっと触って」 ああ、メモが取りたい。 あれをああしてくれて、あんなことまでしてくれて、キスはオプションだからしなかった。  それでも、 「素人童貞」  と菅野さんが笑う。  いいのだ。素人童貞でなければ書けないこともある。今のこの感覚を失いたくない。  VRのエロ動画がすごいと菅野さんが絶賛する。それって商売敵ではないのだろうか。戦うために向こうの弱点を見つけたいのだろう。山のようなDVDよりも激甘TLマンガが読みたい。  春風経由でおすすめを教えてもらう。溺愛のこめかみ撫で撫で、うなじキス。そういうほうがぞわっとする。それを文字で伝えなくては。  大事なのは想像力だ。金持ちになりたい人はたくさんいるだろう。でも実際になったらこうしたいというのがないから宝くじに当たった人の多くが我を忘れる。春風もそうだ。有名になりたい。やりたくもないレッスンに耐える写真やおいしそうなデザートをマメにアップしてフォロワーを増やす。しかし有名になってなにがしたいのか見えてこない。よって、応援する気にもならない。 僕はどうなりたいのだろう。大成したい。でも顔バレはしたくない。読んでくれた人が明日まで生きようと思うことはないだろう。少しばかり心と股間を温めてくれたらいい。  釦という漢字をしばらく眺めていた。覗きの趣味はないし、下着泥棒をしたいと思ったこともない。僕は官能小説家に向いているのだろうか。  自分でも自分が面倒な奴だってわかってきた。高校時代のつながりが一切ない。そういう人間なのだ、僕は。  それでも秋は好き。官能小説に出会った季節だから。古本を売っていたおじさんに感謝をする季節だ。彼は断捨離でもしていたのだろうか。残り少ない人生であの本の処分に困った。おまけでもらった本で僕は人生を決めてしまいましたよ。  まだわからない。逃げ出すかもしれない。就職することも考えられる。専業作家は少ないと菅野さんからも聞かされた。 今はゆで卵を食べながら小説を書く。塩、マヨネーズ、意外と顆粒の出汁で食べるとおいしい。 やっと最初の本の印税が入った。お金を稼ぐということがほぼ初めてだから、びっくりしてしまう。自分にとっては大金だ。最初の収入は親になにかをプレゼントするらしいので、母が欲しがっていた無水鍋と父に髭剃り。それくらいは買える。 「突然なあに?」  と母は不安がる。 「バイト代が入ったから」 「そう」  その鍋で作ったカレーは甘い味がした。  父にこっそり、 「売れてるのか?」  と聞かれた。 「あんまり。でも生活できるくらいには」 「そうか」  住民票を移しているから収入について知られることはないだろう。 「あ、お兄が来てる」  冬服の制服の春風がかわいい。資料用に写真が撮りたいほどだ。スカートの丈がちょうどいい。 「夕飯カレーよ。着替えていらっしゃい」 「お母さん、私の分のごはん極小ね」 「はいはい」  僕の送り迎えがなくなっても春風は問題なく登校しているようだ。趣味と実益を兼ねてキックボクシングを始めたとプロフに乗せておけばおかしな輩は近づくまい。ダンベルを軽々持っているように写真なんていくらでも偽装できる。細腕で10キロ持てるわけがなかろうに。  家に帰るといろいろ持たされて帰る羽目になる。今日は巨大な梨。もう寒いのに。勝手に尻みたいな形しやがって。  アウターを買う。少しいいものが欲しくなる年頃だ。財布とかマフラーとか。パソコンは買い替える気にならない。タブレットも持たない。外に出てまで仕事をしたくないし、息抜きができなくなる。  寒くなってきたのに花はきれい。蕾はピンクで咲いている花は白。こんなふうに人の家の庭木を眺めているだけで今は不審者だ。  きれいだったら目を止めてしまう。美しい人には華があるって言うではないか。そうだ、隠喩を考えなくてはいけないのだ。〇〇のような乳房、何々を彷彿とさせる美尻。雲かシュークリームしか思いつかない。一生、こんなことを考えて生きるのだろう。ドーナツの穴ですらエロい。  夕日に匂いはない。夕餉の香りが漂う住宅街を彷徨う。寂しい人ってどこにいるのだろう。その人を癒す方法が僕の官能小説だったりしないだろうか?  いつも見えない誰かの輪郭を探している。それが僕の仕事だ。心のきれいな、体の汚れた人を創造する。  まだ大学に入学して一年も経っていないのに、僕と同じ未成年なのに、もう死んでしまった同級生がいるらしい。生きる意味なんて誰にもわからないよ。でも生きているからおいしいものが食べたい。そのために稼ぐ。きれいな景色が見たい。楽しいの反動は誰にだってある。  テーブルにパソコンを置いて円座に座っているけれどもう限界。ネットで安い机と椅子を買う。が、寒くてすぐにこたつに戻る。自分しかいない部屋の中でうろうろ。  ネットで人を傷つけることは容易い。しかし、文字は本来そういう使い方ではない。大切なことを伝えるためのものだ。愛とか明日の予定とか。僕は文字を使って官能小説を紡ぐ。心と体に気持ちいい文字に悩む。  木枯らしが吹く寒い日、春風と映画を観に行った。我が家で撮影したもので、それにかこつけて春風も出演している。 「これの撮影、去年だろう?」 「うん」  出演者に問題があったわけでもないのに映画って公開までにそんなに時間を要するのだ。僕の小説は決定稿から出版まで一ヶ月ほどなのに。それだけ映画には多くの人が携わっているのだろう。 「私、知らなかったんだけどこの頃のウエイトレスって体を売るのが当然なのよ。その心構えが私にはなかった」  映画館に入る手前で春風が言った。 「映画を観る前に言わないでくれよ」 「ごめんなさい」  確かに春風はそういうのに向かない。きれいで華がある。でも、そういう子ほど引く手あまたのはずだ。風俗だって、あれきり行っていないけどきれいな人が多かった。  映画はお金を得たい女給と彼女の心まで欲しい男の物語。時代のせいなのだろうが、そんな言葉づかいでは女心は動かないよ。現代の俺様とも違う。命令口調の参考にはなる。録音は禁止だから春風にあとで台本を見せてもらおう。キスは接吻ではなく口吸いとも言うのだ。  着物姿の春風が映ったのは一瞬だった。家が使われることと春風の事務所の先輩が出るついでなのだろう。そういう積み重ねが大事だ。いつか誰かの目に留まる。化粧すると春風はインコみたいな顔になる。  僕の小説はどうなのだろう。出し続けたら評価されるのだろうか。誰かの心に残るのだろうか。 帰りのカフェで隣の席の女性が文庫本を取り出す。僕の本ではない。そんなふうに誰かに持ち歩いてもらえる本をいつか書けるのだろうか。ただ羨ましくて、春風と食べたビーフシチューの味が全く舌に残らなかった。映画の良かった点も衣装の裾のエロさだけ。あれはキレイと表現したほうが正しい。和装男子も人気らしいとダットサンが教えてくれた。時代物ならある程度の折檻はありなのだろうか。  後悔には誰にだってある。今まで出した本が売れないのは菅野さんのせいじゃない。彼は一生懸命やってくれた。僕の力量のせい。  筆力を上げるにはやはり読書。やっと一人暮らしのアパートの近くの図書館でカードを作って本を借りた。もう誰の目も気にならない。本屋にはない官能小説が普通に置いてある。僕の小説はない。とりあえず、ここに置かれることを当面の目標にしよう。  一人暮らしの部屋は一階だけれど、周囲の音はさほど気にならない。部屋にいない人が多いようだ。僕も気を使って音楽はイヤホンで聞いている。隣の住民は男性だ。上はわからない。あまり入れ替えがないからきっと同じ大学の学生が多いのだろう。あまり人をランク付けしない。ただ童貞か否かで分類わけはしたい。その中で、変態の割合のパーセンテージを知りたい。官能小説を読むのは変態なのだろうか、それともまともさんなのだろうか。  本郷さんが恋しい。分かち合って、喜びあえる同志がいない。菅野さんは同業と会うことを勧めてくれるが、人見知りだし、馴れ合いは避けたい。  寂しいのは寒いからだ。こたつに潜ってゆで卵を剥く。女の子の服を脱がすのとはまるで違うのだろう。恋愛をして、イチから学びたい。変なところから始めてしまった。  確かに、このままでは頭でっかちになってしまうかもしれない。どうしたらいいのだろう。  割り切って、小説のモデルになることを想定してくれる女の子と付き合おうか。そんな人、きっといない。お金を払ったら恋じゃない。  執筆の途中で口の中に違和感。なんだろう。奥歯が大破していた。洗面台の鏡で見たら、欠けているというよりも割れている。触れたら白い粒や欠片がぼろぼろ取れる。慌てて歯医者に電話をする。 「噛み癖があるんですかね?」  歯医者さん、僕は犬ではありませんよ。  レントゲンを撮る。神経は生きているようだ。酷使してごめん。たぶん、無意識に食いしばっていたようだ。  保険内の治療にするか白い詰め物にするか問われる。 「どう違うんですか?」  僕は聞いた。 「奥歯ですから銀でも気にならなければ。要は素材の値段ですよ」 「どっちがいいんですか?」 「器に例えると金属が瀬戸物かって感じですかね」  若い先生で軽い感じがした。職業を言わない僕に問題があるのだろうか。官能小説を一生懸命書いていると話したらそれなりの処理をしてくれるのだろうか。  小説を書いていたらまた同じことになるだろう。  金属と瀬戸物ってだいぶ違う。瀬戸物は割れる。もう口の中であんなびっくり体験は嫌だな。  5千円と10万円なんて天と地ほどの差があるではないか。  今後、稼ぐあてもないのに10万円を支払うことを選択したのは自分の尻を叩くためだ。しかも一括払い。他の歯を大切にもしたい。 書くのだ。新作を書かなくては。売れてやる。さすがに時代を築こうとまでは思わない。 奮い立つほど奥歯を噛んでしまうようなので、マウスピースを先生が勧めてくれた。初見では嫌な人だと感じてしまってごめんなさい。人って付き合ってみないとわからない。  大学の試験があって、ほっとする。勉強に向き合う。人間に戻れる。適度な睡眠、食事、緊張は大事だ。こっちが本来過ごすべき時間なのだろう。  小さいときにいじめとか非行とか宗教に悩まなかったから、官能小説を書くことが僕にとっての苦行なのかもしれない。挫折、向上心、愛欲。自分を労わり、今まで受けていた親の愛も知る。全部を教わる。  料理はすぐに上達するのに小説の腕は上がる気がしない。すごく時間のかかる作業だ。人間力の深みを知らないといけない。いいところも悪いところもあるのが人間だ。裏切ったり優しかったり柔らかかったり。猫をかぶれるし、一皮剥ける。  試験から解放されても締め切りが待っている。ため息をついても本当に一人だ。  歯の治療にも時間を取られる。でも歯医者の本棚にある普段手にしない週刊誌から知識を得られたから、トントン。大好きなパン屋がいつ行っても売り切れになってしまった。残念な気持ちで家に帰っているときれいな夕焼けが見えた。電車からだから一瞬だけ。  次は女性の歯科医を主人公にしよう。いつもは隠れている部分を食い入るように見るのはちょっとエロい。歯フェチの人っているのだろうか。その次はパン屋さんの未亡人。旦那さんの店を継いだものの、金策に困る。  まだ小説家の自覚はないけれど、せっかく思いついたネタを忘れて、思いついた駅までの道を往復したりした。なんだっけ? 童貞と高飛車みたいな、それでいて純粋な恋の話。そんなの官能小説になるのだろうか。  記憶力には自信があったのに、すっと抜けてしまうことなんて初めて。次からは絶対にメモに残そう。  コーヒーのマグが汚れているから人生で初の漂白。真っ白だ。心や頭もこんなふうになったらいいな。  売れないことが悩みなんて贅沢なことだ。一年前には自分が官能小説家になっているなんて思いもしなかった。この一年で飛躍した。だから、次の一年でヒット作を出そう。スタートはいつも思い立った瞬間だみたいな歌もあったはず。
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