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4 官能小説家の初カノと初ライバル
まだ官能小説家というよりは大学生と名乗ることのほうが圧倒的に多い。もちろん、学生という身分を隠れ蓑にしている自分がいる。
極寒のイベントで恋人ができた。
本好きが集まる書籍関係の販売会で、僕は菅野さんと一緒に出版社のバイトとして参加した。
本人手売りという販売方法があることを知る。
会場の半分以上は同人誌や自作の本を売っているようだった。世の中的にはデビューしていなくても、こういうところで固定客を得て、長蛇の列を作る強者もいる。僕もSNSもやっていないが、世の中に発信するためには大事なツールなのだろう。
顔出しをしている官能小説家さんの脇で僕の本も売ってもらう。サイン本を欲しいと思ったことはない。本は本だ。僕のサインが欲しい人なんているのだろうか。僕の本はたくさんの官能小説の文庫本に埋もれている。買う人はまとめて買うのだ。まるでとうがらしの薬味のひとつのように、あれもこれも選ぶ。まとめて読まれると比較されたりするのだろうか。でも売れることは嬉しい。
初めての恋人の日芽子ちゃんは隣のブースで僕と同じような仕事をしていた。品出し、販売、領収書き。ストッキングに穴が開いているのはそういう服装でもプレイでもなく、単に本をひっかけたらしい。
「取り替えたら?」
という先輩らしき人に対して、
「嫌ですよ。まだ絶対同じことしますもん」
と言って、その日はそのまま過ごした。二日間のイベントだったので、次の日は黒のスキニーパンツ。
顔はきれいなのに性格は男っぽい。しかし、隣のブースが扱っているのは明らかに同業。しかも美少女系というやつだ。
関係者だったら困るなと思ったが、ただの単発バイトだったらしい。
21歳にしては幼い顔立ち。体は薄っぺらい。聞けば子どもの頃はタレント活動をしていたそうだ。
「8歳くらいのときに気づいたんだよね。子どもに群がるおっさんの気持ち悪さと日曜に子どもを水着にさせてイベントに出させるうちの親の異常さに」
今はバイトを掛け持ちしながら将来を決めかねているところと笑った。足はまっすぐできれい。
ぐいぐい来るでも追いかけるでもなく、本当に自然にお付き合いがスタートした。お茶を飲みに行って、ごはんを食べる。互いの家を行き来してお笑いのDVDを見たり映画を観たり。次は水族館に行こうかって話してる。
どうして女の子ってお箸でおにぎりを崩しながら食べるのだろう。どうしてミニスカートで外出ができるのだろう。もう少し自分を守ってください。パンツなんて指一本で下ろせてしまう。
初めては日芽子ちゃんの部屋だった。
体のどこもかしこもが柔らかくて、いい匂いがする。あ、抵抗なく舐められる。
思い描いていた裸よりも凹凸は少ない。想像上の公子さんと比べては失礼だ。
本当のセックスが思っていた以上に気持ちいい。おっぱいは崩れない豆腐のような感触だし、愛液がとめどなく出てくる。見ていたら、
「そんなに見ないで」
って、エロい顔で言わないで。
しかも日芽子ちゃんは、30人越えの経験をお持ちとのこと。口でゴムをつけてくれるし、どんな体位もできる。その名を知らなくても松葉崩しなんて彼女にとっては生易しい。仏壇返しも菊一文字もすんなり。
好きな人だからって、ついこの間まで知らない人だったのに、脇の下もあんなところまで舐めてくれる。
こちとらデートの前日は体位をネットで調べて、まだまだお勉強中。
日芽子ちゃんは僕の背の高いところが好きだと言ってくれた。それだけで二つ巴までしれくれるの?
ああ、セックスってこんな音がするんだ。風俗のときは感じられなかった。生暖かいというより、真冬なのに暑い。汗を拭ってくれる。若いから、服を着てくれないとずっとしちゃう。
どう触ったら気持ちいいのだろう。
少し吸っただけで日芽子ちゃんの肌にはすぐにキスマークがついてしまう。これが征服欲か。高揚よりも、むしろごめん。
「セックスがあんなに気持ちいいなんて」
菅野さんは僕の素人童貞卒業を祝ってはくれない。冷めた目で非童貞の僕を見る。
「そんなに?」
「はい。好きな人との間に隙間がないんですよ。こう、ぴったりくっついて」
しかし、いくら体を重ねても日芽子ちゃんには官能小説を書いていることは話せていなかった。
「ウリが減ったな。童貞作家だからこそよかった」
いつものファミレスで菅野さんは生クリームぐるぐるのパンケーキを食べる。もう全てがエロくは見れなくなった。
「別に公表してるわけでもないのに」
「ねちっこさっていうか、知らないからこその想像力を買ってたんだ。今みたいにタダでやりまくってるとそのうち有難みなくなるぞ。で、その彼女にもすぐに飽きる」
と菅野さんが言い切る。
「菅野さん、前から思ってたけど最低ですね」
「ブログ書く? 『官能小説家なのについこの間まで童貞でした』って。うちも毎日更新のなにか始ろってうるさくて」
「いやですよ」
僕は魚の定食を食べた。菅野さんがため息ばかりつく。このところ、デートといちゃいちゃ三昧でプロットを組み立てられずにいた。無機質な文字よりもぬるっとした恋人の中に興味がゆく。
ともあれ、彼女がいるという生活は本懐だ。デートの約束をする。ドキドキする。どこに出かけてもついメモを取ってしまう。日芽子ちゃんはそんな僕を笑うだけ。
彼女は勉強が大嫌い。本も読まない。でもすぐに足を開いてくれる。彼女の中にずっといたいと思うのは僕だけで、彼女は絶頂を迎えたら終わりにしたいタイプ。
髪を巻いたりねじったりするのに時間をかける日芽子ちゃんを僕は無駄だなといつも見ていた。そんなのセックスしたらぐちゃぐちゃにしちゃうのに。
少しの会話、セックス、睡眠、セックス。二人とも一人暮らしだから、食事、セックスの繰り返し。
「清くんのお尻えくぼかわいい」
日芽子ちゃんが舐めてくれる。
「そんなのある?」
「知らなかったの?」
「うん。自分のケツなんて見ないもん」
「かわいいのに」
撫でるなら他の場所にして。
愛しそうに鼻をこすりつけあう。犬とか猫みたい。人間だって動物だ。日芽子ちゃんは食べ物にも物にも執着がない。頓着もない。髪飾りを作ることが趣味。それは仕事にしたくないようだ。僕はどうして官能小説を生業としてしまったのだろう。日芽子ちゃんのように好きなものを作ってたまったら売って、たまにフリマまで出る。接客慣れしているのはそういうことをしているから。バイトも掛け持ちしているし、呼ばれたら舞台の雑用係までしている。知り合いが多いようだ。男との接点も多いのだろう。
エロいことは全部、桃色だと思っていた。鴇色や紅梅色を知る。退紅。
女の人の体って、ちょうど掴めるようになっている。そのためのくびれなのか。男が女の人に惚れる理由にはちゃんと意味があるんだな。反対はどうなのだろう。日芽子ちゃんは僕のどこかを好きになってくれただろうか。大学生だと思っているから割り勘を決め込まれてしまった。
セックスばかりしているなと思っていた。春になって、花見なんかよりもセックスがしたい。
日芽子ちゃんはもううんざりという顔をしていた。僕は君に乳首を舐め回してほしいし、日芽子ちゃんのおっぱいも揉みしだきたい。
僕の小説は彼女のおかげで格段によくなっていた。味を知ったからだと思う。女の子の動きもわかる。匂い、触り心地、挿入の気持ちよさと達成感。あんあんだけだった喘ぎ声のバリエーションも増えました。君を観察しすぎて考えていることまでわかるよ。
しだれた足を抱え込むようにして侵入する。眠って起きるとすぐそこに当然のようにおっぱいがあるから触ってしまう。悪循環。
日芽子ちゃんの部屋に入り浸ってばかりで、ちっとも執筆が進まない。日芽子ちゃんも初めての年下の恋人の僕に甘えて、甘えさせての繰り返し。
彼女の体の奥に逃げ込んでいたのだ。小説も売れなくて、藻掻いていた。描きたいものが見つからない。一瞬だけそれを忘れられた。
まだお酒も飲めないからセックスをするしかないなんて、間違えていたのだ。
恋人の顔が曇ってゆく。忙しくて一瞬付き合いを疎かにした。しかもその補填の仕方も知らないし、真実も晒せない。夢を持っている人間が正しいわけじゃない。だけれど、離れたくない。
世の中ではその年の上半期1位の本が話題になっていた。顔出しをしない人で、筆名からも男女の区別はつかない。
稀に男女の作家で分けている本屋はどうしているのだろうか。ありふれた恋愛小説なのだろう。官能小説がランクインすることなど滅多にないらしい。
『恋心、透明』
若年層を中心に100万部以上売れているらしい。電子版を購入。純粋な恋愛もの。純文とラノベの中間のような、ジャンルで分けるとノベル文芸になるのだろうか。
その筆者は本郷さんだった。菅野さんの出版社の違うレーベルで、彼女のほうが僕に気づいた。根回しをされて会うことになる。
「お久しぶりです」
本郷さんは俺よりいい大学に進学していた。
出版社の会議室で僕らは一年ぶりに再会した。少し化粧をして大人びたけれど、本郷さんだった。
最近よくテレビで見る地味な顔の若い女優さんに似ている。
「久しぶり」
居心地は悪いが菅野さんと本郷さんの担当さんが同席してくれた。
「読みましたよ、新作」
本郷さんが僕の本を指さす。
『妻、発情中』
新妻もので、僕はやっと書きたいものが書けた気がした。読者が熟女を好む傾向にあったとしても、新妻だって人だから、悩んで、性欲があって当然だ。
「いつ僕だって気づいた?」
僕は聞いた。
「前作です。先輩の巧みな言葉遊びで気づきました」
『小島教授のこじんまりとした欲望』
「あのタイトルでバレる?」
「高校生のときの先輩の『わだかまりを抱えたマリちゃん』すごく好きでしたから。掌編以外も書けるんですね」
「うん」
文体でわかるのかもしれない。句読点のつけ方とか言い回しの癖で。本郷さんの小説を読んだときに、さらっと読めたのはそういうことだろう。やけに難解で、ん? と思う読者もいるに違いない。文体にも合う合わないがある。引っかかってしまったり、腑に落ちなかったり。
「二人が同じ文芸部だなんて不思議な偶然だよね」
と菅野さんが感慨深そうに頷く。
そこで本郷さんの担当者が突拍子もないことを言い出す。
「今度、朝川由良も官能小説を出そうと思っています」
朝川由良とは本郷さんの筆名だ。
「それは、うちのレーベルで?」
菅野さんは初耳のようだった。
「いや。新しい部署を創設するそうです。そこで若い二人に活躍してもらいたいと会社では考えています」
「こちらはなにも聞いていません」
菅野さんがはっきりとした口調で答える。
どういうことだろう。僕は菅野さんと仕事を続けたいのに、それは難しくなるのだろうか。
「どうですか? 無花果先生」
そう呼ばれることがこそばゆい。本郷さんの担当のおじさんは剥げていて、頭の形が歪な岩みたいな人。
「勝負しましょう、先輩。私は官能小説を書いたことがない。この勝負、先輩に分があるでしょう」
「知名度なら君のほうが」
同じ大学生だから、執筆の時間もほぼ近いだろう。本郷さんのほうが勉強としては大変かもしれない。あっちの大学なら執筆活動に寛容だったりするのだろうか。
話し合いが終わったあとで、出版社の近くのコーヒーショップで珍しく菅野さんがコーヒーだけを飲む。砂糖も入れない。
「ああいうのは好きじゃないんだ。もともと利益優先の社風だけど、読書を好きな人に本を届けるのが仕事だと思ってる」
とごもっともなことを言う。変人のようで真面目。菅野さんのギャップを初めて感じる。
「本が売れないからただ話題作りって感じじゃないと思います、本郷さんは」
僕が官能小説を書いていることが気に入らないのか、官能小説家になることを相談しなかったことにむくれているのかもしれない。
「あの担当は売れるのが一番っていう考えだから。負けたほうの顔出しを賭けるとか言いかねないよ」
「それは困りますね」
「怒りっぽい女性は苦手だ」
菅野さんからその手の話を聞くのは初めて。
「僕もです。でも本郷さんは純文学の人だから、同じ文芸部だった僕が官能小説を書いていることが気持ち悪いのでしょう」
「会田くんて、女の人の気持ちがよくわかるよね。今までも書いた小説も全部女性が主人公だし」
それは妹がいるからだろうか。
菅野さんは考えといてとだけ言って帰って行った。
勝ちたいとは思う。本郷さんが後輩だからではない。小説家だからだ。でも小説の勝敗なんて販売部数だろうし、一般文芸で名前の知られた本郷さんより無名の僕が売れるとは思えない。
ジャンルが違うとか、異性だからだとか関係ない。本郷さんは僕が官能小説を書いていることを話さなかったから少し怒っているようだった。そういうところはまだ子どもだなと思う。
家に帰ってネタ帳を引っ張り出す。プロットを考えては菅野さんに送る。童貞だった自分を思い出せ。女の人の体を見てぞくっとした瞬間を思い返せ。あの柔らかさを伝える単語を書きだす。
本郷さんに官能小説が書けるとは思えない。苦手だと言ったのは当人だ。この一年で変わったのだろうか。
大学、執筆、打ち合わせ。高校生のときから本郷さんはエロが苦手だった。官能小説だって文学だし、奥が深い。用語を使いこなすのだって初心者には難しいはず。確かに僕に分がある。
忙しかった。
そのごたごたが続き、ほんの少し会わないだけで日芽子ちゃんにフラれてしまった。当然か。女の人は守ってほしいとか、楽しませてほしいとかお金で恋人を決める。日芽子ちゃんにとって僕は退屈だっただろう。ごめんなさい。
でもね、僕もつまらなかったよ。あなたの会話の半分は誰かの悪口で、僕は君のバイトの先輩を知らないから同意はできないよ。それに日芽子ちゃんの都合にばかり合わせていられない。僕には締め切りがある。感謝はしている。女の人の体を教わった。ぬくもりをくれた。
恋って最初だけ楽しいものなのだろうか。すっかり女性恐怖症。
一階の僕の部屋のベランダでカラスが鳴いて目を覚ました。失恋て心よりも別の場所が痛い。寂しいだけだ。そのうち慣れる。カラスに寂しさを見抜かれているのだろうか。本気でうるさい。カァー、カァー。
あんなに一緒にいたのに恋人じゃなくなっただけで触れられない。会わない。一緒にご飯を食べない。誰からも触れられない。大人の男はこれに耐えられるようにできているのだろうか。撫でて、息を吹きかけて、口の中を舐め回して。君が好きなお尻えくぼは健在ですよ。
日芽子ちゃんの忘れ物はマグとサボテンだけ。どちらもしばらくは腐りそうにない。
寂しさは仕事で紛らせることができるのだ。この辛さがいつか心の栄養になる。小説のネタにもなる。
そんなとき春風が親と進路でケンカして逃げてきた。いい機会なので全部話す。
「は? 官能小説家なの? やだ、なにこの表紙」
思っていた通りの反応なのでほっとする。
「でも嫌いになれないだろう?」
「そうだけど…」
僕は真面目に官能小説を書いていること、書くことがいけないことじゃないことを訴えた。それで、
「こんなお兄のところに泊まれないだろ?」
とも言ってみた。
「泊れるよ」
口車には乗ってくれない。
家の近くの定食屋に連れてゆくと春風はオムライスを食べた。
無言で、春風の基準としている摂取カロリーをはるかに超えるそれをもぐもぐと口に運びながら、僕のことを世間にバラしたほうが利点になるのかを考えている。
「顔出しはしていないし、するつもりもない」
僕は鯖味噌定食を食べながら言った。
「そうだよね」
先のことを考えたらリスクが高すぎる。兼業作家が多いらしい。どこかで働いたほうが専門の知識を得られるし、社会勉強にもなる。人間は安定した場所にいたい生き物だ。だから海から陸に上がった。でも海の生物もまだいる。
ざっくばらんな性格の日芽子ちゃんにさえ官能小説を書いていることを話せなかった。彼女は受け入れてくれただろうか。彼女の周囲にはBL作家さんが多いようだった。劇団員さんもいた。でも日芽子ちゃんはなにも目指していない。物を作って売る人。セックスばかりしていないで彼女をもっと見ていればよかった。彼女の不満を笑い話として受け止める度量が僕にはなかった。肉欲に負けたのだ。何度内腿を舐めても、彼女のことは一ミリもわからなかった。
春風は一泊しただけで、次の日にはきちんと学校とレッスンに行った。真面目は遺伝なのかもしれない。
ふしだらな僕ならばもっと小説家として大成できるのだろうか。大学生との二足の草鞋でいるのは逃げられるから。
窓から見える白い雲が線のよう。そういうことを思うと、ふと人間に戻れた気がした。
鮭を焼く。
今までと大きく変わらない生活なのに、恋が生活から消えて、色欲も減って、恋心ってどうやったら生まれるのだろうと真剣に考える。
菅野さんには寂しさのレーダーがついているのかもしれない。すぐに探知して連絡をくれる。
人にせっつかれても小説は書けないし、まして誰かと競うようなものでもない。自分との闘いだ。
僕と本郷さんの知らないところでいろんなことが決まっていた。それは本郷さんが望んでいたものとも大きくかけ離れていた。なぜか僕らは交互に同じ小説を雑誌で連載することになる。
これでは勝負ではなく協力だ。
大人の事情で僕らの気持ちも頭も右往左往。
本郷さんと出版社で再会したのが7月、今はもう12月。秋を堪能したのは鮭だけになってしまう。紅葉が見たい。焼き芋が食べたい。勘弁してくれと一番に思っているのは勤め人である菅野さんだ。振り回されて仕事が倍増。抜け毛を気にしているわりに髭は伸び放題。このところ、会うといつも緑のセーターだから、おこがましいとは思ったけれどフリースをプレゼントした。
「サンキュー」
お礼に慣れてない人なんだな。その言葉だけで俯いてしまった。僕はいつも感謝している。知り合いの男の人の中では断然に好きだ。恋心とは違うけど。次に会うときも、その次も僕があげたフリース。そんなに忙しいのだろうか。
結局、僕と本郷さんは同日に別のレーベルからそれぞれの小説を発売はしたけれど、僕は普段通りの、期待の新鋭作家の本郷さんは初の官能小説ということで、当たり前だが大敗。
確かに、本郷さんの小説を読んでみたらすごくよかった。女性なのに、女性をきれいに描く。本郷さんと同じ年齢の主人公だから、こんなに辛い恋を彼女自身が体験したのかもしれない。だが、官能的ではあるけれど官能小説ではない。履き違えないでほしい。それを理解したのか、
「ごめんなさい」
と僕あてに伝言を残したまま、担当さんも本郷さんと連絡が取れなくなったそうだ。
毎年、幾人もの人が新人賞をもらう。僕のように拾い上げでデビューする人もいるし、ネット投稿から書籍化される人もいる。著名な作家の訃報を聞きながら、この業界に生き残る厳しさを知る。晩年まで書き続ける小説家は数パーセントだろう。
維持ではだめなのだ。破天荒を貫いて、新しい溝に飛び込まなければならない。喪女の意味を間違っていて、すっかり官能小説に染まりつつある自分に笑えた。古い本にも多い。本の数年前まで登場人物の年齢の規制もなかったようだ。この数年で厳しくなった。図書館の本が汚い。ちょっと羨ましい。
病気になったら書けない。ネタが尽きても書けない。頭と目と指先だけ健康であればいいけれど、人間は皮膚一枚だ。骨もつながっている。
いいネタが思いつかないから煮物を作る。ぐつぐつ茹る具を見ていると映像が見えてくる。流れるように抱きたいのに、思うように脱がせられない。小説の冒頭のクイーンサイズのベッドをキングサイズに修正する。手をすり抜ける。
むしろ、どうして今まで矛盾なく書けていたのだろう。今更、日芽子ちゃんが恋しい。実体験が足りない。彼女の笑顔が見たい。きっともう他の誰かに笑いかけているのだろう。おでこを撫でてくれる人なんて誰もいやしない。
それよりも繊細な本郷さんが死なないかのほうが心配。小説家っていうのは自殺をしたがる。でもね、たぶんあっちの世界に行っても新しい小説を書いてしまうと思うんだ。だっていつも頭の中は空想で満ちている。君ならわかるだろう。
大敗を喫したことにショックはないと思っていたのに、体がおかしい。
耳鳴りがする。大好きな音楽が聴けない。頭の中の女の人まで中途半端に動くだけ。指がパソコンの上で制止する。
周囲が既に就職活動を始めているからではないが、焦る。
「卒業したら出版社に就職させてもらえませんか? 僕、即戦力で働けますよ」
と菅野さんに伝えたら激怒された。
「編集者を育てているつもりはありません。そんなつもりで書いてるならやめちまえ」
菅野さんの言うことは正しい。
書けと尻を叩かれても、想像力が湧かない。無理なときは無理なのだ。不埒な女の人を思い描けない。苦しい。他人からはバカなことって思われそうなことに真剣に悩んでいる。
ミルクティーばかり飲んでいたらベルトがきつい。
久しぶりに公子さんを読み返す。文章に厚みがある。僕のは薄い。誤魔化せない。
体の薄い人を抱いたせいだろうか。厚みのある人とまぐわえばいいのだろうか。交接、接合、性愛、情愛、セックス。全てすることは同じ。交尾だ。しかし、気持ちや情景、雰囲気は異なる。
人生経験が少なくても、大学でも出かけた先でも人は見ている。足りないのだろうか。己で全てを体験するのは不可能だ。
菅野さんに勧められるまま短編を書いてはネットで公開した。楽なのだけれどプロとしてはどうなのだろう。どれくらい読まれたのか毎日気にしてしまう。PV数やレビューが気になる。自分の本の宣伝のつもりだったのに、それにどんどん溜めたネタをつぎ込んでしまって本末転倒。
ネットってすごいよな。読者が嘘をついていなければ、ユーザー登録から年齢や性別までわかってしまう。どうしてエピソードの2まで読んで3を読まなかったのか聞きたい。
万人に読まれる官能小説を書かなくては。それってどんなのだろう。祖母が好きだった黒飴を口に放り込む。
浣腸を買って、使えなくて、我に返る。官能小説に旬はあるのだろうか。美人、妖艶、人妻。普通のことしか思いつかない。誰も考えついていないことを書かなくては。
ミステリーでもないのにトリックを欲する。突飛と異常は違う。官能はどっちだ? セオリーは必要なのか? 王道って?
気づくと歯を磨いている。奥歯を治したこととは無関係。
大切なことを忘れているような気がしたら失禁していた。猛烈に、臭い。出始めたら止まらないのだ。タオルを手にするとか考えられないまま垂れ流す。ちょっと気持ちいい。そしてそれを片づける自分の情けなさ。
とりあえず拭く。パンツを洗う。椅子の上の円座は諦めて捨てる。周辺に消臭剤をふりかける。
友達でも作ろうかなと思って失敗。プロレスにも将棋にも釣りにも興味が持てそうにない。官能小説に通じるものが好きそうな輩がいない。こういうのは本当に運というか風向きだ。
認められたい、愛されたい、必要とされたい。それらは全部、似ている。本郷さんの処女作がまだ売れているようで、ランキングを見ながら彼女が戻ってくることを祈った。
精神的におかしくなりそうだった。僕は菅野さんが予約してくれた山間の秘湯の民宿に連泊、というか完全に湯治だ。努力が無駄になると人は弱くなる。
癒さなければ。傷ついてもいないのに?
冷静になって自問自答を繰り返す。
面白いってどういうことだろう。人を陥れずに面白みだけを掬うことなどできるのだろうか。技量が問われる。
小説の勝ち負けって部数になるのだろうけれど、誰かに届いたもん勝ち。
この先も一定数売れなければ切られることもあるのだろうか?
どうすれば士気を高めることができるのだろう。
美しいって? 気高いって? 誰が決めるのだろう。
美しい人が出る映画が流行るとは限らない。
だけれども、人は辻褄を合わせて生きるものでしょう。
悩んだら湯に沈む。
エロの世界がこんなに広いとは。どんなことも仕事に選んだら深いし、正解もわからないものなのかもしれない。自信を失い、己も見失う。
パソコンの電源を入れずに数日が経過。
こんなことなかった。囚われていたのは僕だ。書けないときだってある。無理くり想像しても行き詰まる。
白濁でもなく赤褐色でもない、ただまろやかな温泉に浸かる。それはまるで女の人に抱かれているようだった。これを味わって、創作意欲を湧かせろと思っているのだろう。
セックスなんて抱いていると思っても抱かれているものだ。寂しさを紛らせるものじゃない。でも冬は寒いから、やっぱり人肌が恋しい。君の輪郭に触れるように無邪気に尻を触っていた日々から遠ざかる。心にもヒビが入る。からっからの心は酒でも潤わない。
客が僕しかいない廃れた温泉宿で天井を眺める。古い畳、座布団と机しかない部屋、外から元気なおばさんたちの笑い声。このまま朽ちたくなる。
これって逆に怠惰に引きずり込まれている気がする。上げ膳、据え膳。一日、浴衣のままでだらだらしてしまう。こんなにしっかりとテレビを見るのは久しぶりだ。自分の街で、しっかりと地に足つけて執筆をしたほうがいいのだろう。傍らに愛する人はいなくても、官能小説なら書ける。
どうしてそんなふうに断言できるのだろう。
朝と昼は粗食で、夜はいつも小さい鍋。味噌、出汁、キムチ味。宿のご主人が工夫をしてくれるから飽きない。
静かすぎる夜、雪の降る音が聞こえた。しんしんとというよりは、カサカサ。時折、バサッと落ちて木の枝を揺らす。そういう自然な音に癒される。身構えていたのだ。小説を書かなくてはいけなくて、大学にも行かなくてはいけない。食事をして、恋人の機嫌を取る。売り上げを気にする。いろんな自分を抱えていた。
実家にいたときは庭の草木が、母の作る料理が、春風の服が季節の移ろいを教えてくれていた。実家に戻ったら体調は戻るだろう。しかし、もう官能小説は書けなくなる気がした。ぬるま湯にだって、ずっと浸かってはいられないものだ。
卑しい人間なのだ。本当は、本郷さんとの歴然の差を気にして、もう少しで彼女を陥れる書き込みをしてしまいそうだった。世の中ではまだ本郷さんの性別も判明していない。彼女がいなくなっても、僕が彼女のポジションに滑り込むことはない。
大事なことは続けることと結果だ。通常運転で進もう。
そう思いながら温泉に浸かる。包まれる。癒される。ああ、こういう気持ちを忘れていた。
突飛な発想よりも、ドキドキさせたい。読んでくれた人が高揚する小説を書きたいのだ、僕は。
雪見風呂が初めてで、嬉しいのだけれど雪のせいで露天風呂がぬるい。降ってきた雪が温泉に溶けてしまう。その光景はちょっと官能的だった。一瞬で、ほどける。
この歳で悩まないほうがおかしい。責任感が強いとか夢の大きさではなく、人は何歳だろうと迷子になる。決定事項はひとつ。どうしたって、書く。
名作を書きたい気持ちと、書き続けたい気持ちのせめぎ合い。完全燃焼してしまったら、文芸部の先輩のように消えてしまうかもしれない。本郷さんのように逃亡してしまうかもしれない。余力を残すほどの実力もない。
多くの作家が自死を選ぶ理由が見えてくる。自分で自分を越えられなくなるときが必ず来る。人間はそれに耐えられないようにできている。
人間というのは笑ってしまうくらい単純だ。元気がないと性欲も湧かない。性欲が湧かなければ僕は仕事ができない。直結している。
ヘルプミーと叫んでも助けてくれる人はいなくて、もう大人だから自分のことは自分でやらなければならない。
久々に飲んだラムネとか民宿のびっくりするほどおいしいきのこの天ぷらに、人に戻される。戻れなかった人たちはタイミングが悪かったのだろう。
足先が冷えたら温泉に入る。
ごくたまに廊下ですれ違う女の人にも癒される。山が近いけど、真冬に登山? 土曜はそこそこ賑わう。浴衣って、わりとお尻の形がわかりやすいな。小さなことを積み重ねて物語を紡ぐ。官能小説だって簡単なわけじゃない。容易に書いているわけじゃない。
降り積もる雪を見ていた。怠惰な生活に飽きて、腹筋。
そんなことをしている間に書けるようになっていた。パソコンに向かって、いやらしい妄想を文字にする。
『浴衣の帯をしゅるっと解くと見事な双丘がお目見えした。その柔肌に指が吸い付いて離れない』
ちょっと書く、温泉で安堵、恐怖心を払拭、疲れたらまた温泉。
近所の家の老犬が亡くなってしまって、民宿のおばさんが言った言葉がしばらく頭に残った。
「お金で解決できないことのほうが大きいね」
そうかもしれない。僕はお金が欲しくて小説を書いていたけれど、最初は違ったし、今もまた違う。お金を払って病院に通ってもきっと書けるようにはならない。本郷さんのことが頭をよぎった。大丈夫。彼女は安易に死を選んだりしない。生きていると誰だって死が美しく見える瞬間がある。実際は違う。終わってしまう。あの世で名作を書いても自分のためにはならない。本郷さんももう、次回作で頭や心がふつふつと煮えたぎっているに違いない。
秘湯、宿。小説のネタとしても悪くない。登山で迷っていたら宿の女将に誘われるなんて童話っぽいかな。ファンタジーエロも新しいジャンルではないだろう。
美人女将はいないけれど、人の優しい夫婦が僕のくだらない悩みを笑い飛ばしてくれる。
「頭が硬いんだな」
どうして僕は官能小説を書くんでしょうね? と哲学めいたことを聞いた僕も悪い。
おじさんの下駄が歩きづらい。おかげで頭が少し柔らかくなった気がした。
雪が降り積もっても、陽が登れば溶ける。そういうのを当たり前を目の当たりにするのは体にいい。雪かきを手伝うと近所の人が甘酒を御馳走してくれた。玉こんにゃくの日もあれば、官能小説だったり。
ああ、これは文化なのかもしれない。年長者から若造へ。その本がいつか僕のものだったりするのだろうか。そう考えると武者震いがした。
意欲が湧く。書こうと思えた。
エンタメ、喜劇、悲劇。官能小説は全部だ。
三助さんとかマッサージとか無知な自分を笑いながら知ってゆく。いつか大金持ちになったらこの地で暮らしたい。旅館に暮らすことは無理だろうから共同浴場でいい。それくらい、ここのお湯が肌に馴染んだ。
数日の滞在のはずが伸びて、僕を心配した菅野さんが迎えに来てくれた。賞の投稿原稿をわざわざ宅配便で送って読み耽る。人が少ないから選考まで菅野さんが担当しているらしい。
「手伝いますよ」
僕の申し出を菅野さんは断る。
「自分の仕事して」
僕は編集者には向かないだろう。人が信用できないし、売り方も知らない。ツボみたいなのもわからないし、判断力もない。迷う。悩む。
菅野さんは正しい大人だ。そういう人って初めて。会社のやり方に文句を言わない。それでいて弱虫じゃない。
すっかり自分の誕生日を忘れていてもうお酒が飲める。数日前の自分とそんなには変わっていないのに世の中的にはもう大人だ。
「乾杯」
菅野さんと熱燗。
18歳から20歳まで早かった。官能小説のおかげだ。生き急いではいない。充実しているだけ。時間配分は大事だ。この先、体を壊す恐れもあるし、精神を病むかもしれない。だから、書けることは書いておきたい。
菅野さんは会社にいるときは柄シャツなのに、ここに来てからは特徴的な模様のトレーナーばかり着ている。二面性がある人なのだろう。仕事はエロくても人間的にはそうではないのかもしれない。徹しているのだから立派だ。もう目の下にクマができている。ほろ酔いの人に読まれて選考外にされる原稿がかわいそう。
数枚ぱらっと。頷いたり、眉間に皺を寄せる。苦悩が顔に滲み出ている役者さんに似ている。
「菅野さん、男前ですね」
「イケメンでも鼻毛が濃くなったなとかしょうもないことで悩んでるよ」
人間はいつでもなにかに悩んでしまうものなのだ。
僕は、ラッキーなほう。神経質ですぐに気弱になるけれど体は健康で音楽を聴きに行ったりアニメを観に行ったりできる。次からは病みそうになったらここへも来れる。大人にこそ逃げ場が必要なのかもしれない。官能小説が逃避の場所の人に読んでもらうなら、やっぱりエロく、そして心が苦しくないほうがいい。
菅野さんと温泉に入ることに全く抵抗がない。もう既にさらけ出しているからだろう。菅野さんはあばらの下が凹むほどガリガリ。足は筋肉質だから学生時代にスポーツをやっていたのだろうと推測する。
「本郷さんとまだ連絡が取れないって担当が珍しく弱腰です」
露天風呂で素っ裸の菅野さんが心配そうに漏らした。同じ社内にも純文の部署がある。アニメの部署もある。たくさんの人が働いているのに菅野さんの部署はいつも人が足りてない。人気がないのだ。
「あとで連絡とってみます」
「そうしてください。映画化の話があるそうです」
「いいなあ」
「先生もいつかありますよ、きっと」
呼び名がいつからか会田くんから先生へ変わった。一人前じゃない。でも、お金を得ているから、もう仕事なのだ。本郷さんもそれはわかっているだろう。
「はい」
もし映像になったら本当に嬉しい。絶対に映画館へ足を運ぶ。テレビでもいいな。ならなくても、人生こんなもんだと思いながら死ぬだけだ。
怖いことと妖艶が僕の中では一致しない。宿の中で人じゃない人とすれ違う。弱っているから見えてしまう。まだ少し、人の形。人間に心地いい場所は人間以外にもそうなのだろう。
僕がパソコンに向かうだけで菅野さんは嬉しそう。正直な人だな。顔に感情が出るから仕事はやりづらいのかもしれない。たまに言葉もきつい。的を射ているから小説家側は辛くなる。菅野さんの部署は菅野さんと上司と後輩だけで回しているそうだ。板挟みが好きってことは、どMなのだろう。そういう作風を好む理由が分かった気がした。
僕が変わらずに定期的に出版をしてもドカンと売れた本郷さんには太刀打ちできない。だけれど、大金持ちにはならなくても生きてゆくことはできる。現に、生活費はまかなえている。
反対に本郷さんは自分越えができずに苦しんでいると電話越しで泣いていた。
僕らは、生きるために書くのではない。書いてしまう生き物なのだ。しかし、より多くの金は得たい。貪欲だねって笑い合う。
会う約束をして本郷さんに温泉饅頭を買って帰った。僕からの電話にはあっさり出る。いつまでたっても彼女が僕を、
「先輩」
と呼ぶから、僕にとっても後輩。収入は本郷さんのほうがずっと上だろう。立派なマンションに暮らしていた。
僕から執筆やネタの相談をすることはあるが、先輩と後輩の図式は変わらない。再会した本郷さんは、ミノムシみたいにひざ掛けを体に巻き付けて、少しやつれていた。
キスは誰としても気持ちいい。そして僕は本郷さんを女性としては好きになれないことを悟った。馴れ合いではなく適度なエロをまだ求めたい。
彼女の乳は僕の片手には収まらない。揉みながら持ち上げてしまう。
「痛いです」
と本郷さんが制止する。
「ごめん」
「ううん」
本人もずっと胸が高い位置にないことがコンプレックスだと笑った。やったのはそこまで。それ以上したら惚れてしまいますと本郷さんはきちんと断ってくれた。僕も彼女の気持ちには応えられない。自分の仕事で手一杯なのに不安定な本郷さんの恋人にはなれないよ。彼女の才能に、箱書きに、文体に嫉妬もしてしまうだろう。
僕は旅館での湯治の話をした。あれは、本当に湯治だ。心を整えて、体を癒す。生きる力を養う。この歳で、そんなことをしないといけない状態だったけれど、自分を癒す方法を知っている人間のほうが長生きするような気がする。
「いいなあ」
「行ったらいいよ。宿を紹介する」
「はい」
あそこなら女性一人でも問題ないだろう。宿のご主人はむっつり助平だろうけど、元気すぎる奥さんがうるさそう。おいしいごはんが勝手に用意されるだけで本郷さんを癒すだろう。部屋の掃除になんて時間を費やしてなんていられない。
僕と一緒にいる間も本郷さんの電話は幾度か鳴った。
「担当さん?」
「はい」
すごく嫌そうに頷いた。なぜだろう。僕は菅野さんのことを信頼して尊敬している。呼び出されたらうきうきしながら会いに行ってしまう。他にもたくさんの小説家を抱え、新人発掘も任されても菅野さんは仕事を放り出さない。僕以外の人にもきっと真摯な対応なのだろう。本郷さんの担当は違うのだろうか。
「嫌なところがあるなら言ったら?」
僕は言った。
「全部です。だから担当を変えてほしいってお願いしたらもううちでは書かせないみたいなことを言われて」
てっきり売れ線ばかり書かされることが嫌なのだと思っていたが違った。
「書かなければ?」
「大手ですよ」
「じゃあ彼が定年になるまで待つ。あと10年やそこらでしょ?」
「ははっ。先輩と話していると気が楽です」
「そう?」
饅頭とコーヒーは合う。本郷さんが出してくれたナッツの味のお菓子も美味。
「図太いと逞しいはちょっと違うんじゃないかなって思うんですよ」
本郷さんが言った。
むつかしいことはわからない。考えなければ楽なこともある。
本郷さんの家で借りたトイレでウォシュレットに出会ってしまった。実家では素通り、一人暮らしのアパートでも未体験。
「うわ」
新しい体験とていうのは自分を成長させる。冷たい水が出てくるのだと思ったら、人肌よりややぬるめ。心地いい。ずっと座っていたい。強さを変えられるようだが弱いのがいい。
人の家のトイレで長居はできない。
本郷さんはもう僕との再会にわだかまりはないようだ。部屋着でノーメイクの彼女は高校生のときとそう変わらない。
「最初は、自分のデビューが決まって先輩に話したくて、どうしようって思ってたら先輩のほうが先にデビューしていたから苛ついたんです。先輩と官能小説って私の中で結びつかなかったし」
「高校生でデビューしたの?」
「はい。橋爪先生もいなくなってしまったから誰にも話せなくて。辛かったんですよ、私」
「橋爪先生か、懐かしいな」
結婚をして、30代の艶っぽい女性に急変していてくれないだろうか。
本郷さんは次は恋愛ものを書くという。
「悲しいやつ要求されちゃって。号泣ものだけど病気じゃないほうがいいって。指示が雑なんですよ、私の担当」
人から求められるものを書くことができるのも技だ。僕にはできないから、初心に戻ってきゅんとする話が書きたいと思った。
本郷さんの部屋を出てエレベーターで降りながらもう頬が筋肉痛。普段、ほとんど笑うことのない生活なのだ。本郷さんはライバルではあるがやはり後輩。気心知れた人と笑い合えただけで妙に嬉しい。
青空がきれい。
もう一度、焦がれてみる。
菅野さんが言うには、
「人間は股間で物事を考えてはいない。頭で考えている。だけどその頭は起きている3分の1の時間もエロいことを考えている」
らしい。
僕が小説家になったことは気の迷いでも使命感でもない。選択をしてもいない。運命はキザかな。
大学の授業に似ていて疲れる。
なぜ生きるのか、考えるのか。堂々巡り。
気づくとトイレに座ってお尻を洗っている。これでもまだ変態の入り口にも立っていないのだろう。
冬の大雪も小説家には無関係だ。電車が動かなくて世の中は混乱しているようだが、僕はパソコンに向かっている。お腹がすいたら湯豆腐を食べて、疲れたら首を回す。配信のアニメを見て、アイスを食べる。こたつだけでは背中が冷えるからホッカイロを貼る。筋トレもする。カップラーメンを待っている間にプランク。プランクをしていると床の埃が気になって掃除をしてしまう。伸びたラーメンをすすりながら、己のだめさを痛感。
小説だけは書けるのだ。
本郷さんは短編を雑誌に書いているらしい。また少しずつ、長いのが書けるようになるだろう。
『チートでニートのハートは熱い』
そんなタイトルだった。少なくとも僕は選ばない。
僕は最初にタイトルを決めて、出版時には改題することが多い。菅野さんの意見を取り入れたり、読み直したら違うなと自分で思ったり。
本郷さんの小説の映画化の話は春風の耳にも届いていた。
ファミレスで、サラダしか食べない妹が不憫だ。
「お兄、私を押すように本郷さんに言ってよ」
と無茶を言う。
「キャスティングには口出さないだろう?」
「原作者が最初からイメージが私って言ってくれたら違うと思うよ」
とブツブツ。
このところ、同じグループの女の子のとび抜けた歌唱力が話題になったり、一人は脱退したりと、春風はヤキモキしているよう。春風以外はアイドルっぽい子ばかりで、早く抜けたいようだ。そのグループに入って喜んでいたのはもう昔のこと。
春風はすっかり嫌な子。打算的というか、
「話してくれないならお兄のこと公表するから」
などと言い出し、
「そんなのお前にはマイナスだよ」
と伝えても理解してくれない。
売れたいという欲が強すぎる。突っ走って、おかしな男にでも引っかからなければいいが。
どこの世界だって実力がものをいう。運以上に大事なものだ。そのうち気づくだろう。
次回作はかわいい妻にそっけなくしてしまう夫の話。『あなたは、名もない花』というタイトルにした。少し前の春風だったらイメージしてあげてもいい。
溺愛系は菅野さんが嫌がるだろうなとは思っていた。そうしたら違う部署の人に回されて、その人と仕事をすることになって初めてここまで合わない人がいるんだなと痛感した。思考が斜め上どころか、もう別世界の住民だ。不思議な縁で僕と同じ学部を卒業したというのに、まるで噛み合わない。調子はいいのだけれど、心がない。学べなかったのだろう。どこかに置いてきてしまったのかもしれない。確かに社会人には辛いことが多い。感情が薄いということは仕事上では利点になるのかもしれない。だけれど、僕は彼とは共有ができなかった。
思いやるとかって、生い立ちは関係ないと思う。約束の時間にいつも数分遅れるとか、自分の意見ではなく、
「世相はこうですよね」
という話し方、全てが不信感。菅野さんよりも年上なのにそう感じない。彼が悪いのではないのだろうが、努力はしてほしかった。
最初はいい印象だった。
「小気味のいい話し方ですね」
と言ったら、
「どういう意味ですか?」
と聞き返してきた。そこから一気に会話の調子がおかしくなった。僕らの不協和音を感じ取ったのか菅野さんが打ち合わせに同席してくれるようになる。そしたら僕は、菅野さんと話しているほうがスムース。
「二人でそんなにぽんぽん話さないでくださいよ」
メモを取りながら会話を止める。
「話の腰を折らないでください」
と僕はお願いした。
「話に腰なんてありますか?」
もう、お互いにぽかんだ。
菅野さんがそれとなく上に話してくれたのだと思う。空回りの会話を録音していたに違いない。僕がつっこみだったらよかったのだろうが、残念ながら小説家だ。いちいち苛ついて、僕が暴力的だったら数発殴っていただろう。
よりによって、彼の後任は本郷さんの担当だった大男だ。溺愛系が不似合い。でも前任者に比べれば全然いい。なによりも、
「売りましょう」
と馬場さんは言ってくれた。資料の準備はいいし、ちょっと押しつけがましいけれど悪くない。知識量がすごい。僕は頭のいい人が好きなんだと思う。尊敬してしまう。
「あんまりいやらしくしないでください」
と官能小説家に無理難題を突き付ける。擬音を減らして、ヒロインの名前も今風に変えた。官能小説は女性の名前を古風にしがちだ。新しい世界が広がってゆく。なんだろう、この感覚も初めてだ。行きつけの喫茶店がアイスにコーヒーを浸したものを出し始めたが、そんな感じだ。びっくり、でもおいしい。甘いと苦いは真逆なのに、口の中で一体になる両方ともずっと存在していたそれをなぜ急に合わせようと思ったのだろう。
馬場さんは頭はつるつるで岩みたいだし体を鍛えているからムキムキで、会うときはいつも緊張する。眉間に皺を寄せるとおでこと頭頂部にまで線が入る。強面で、時間に正確。僕の倍以上生きているのに好きな本が同じだった。そういう共通項ってちょっと嬉しい。ファミスレに行ったら菅野さんと同じパンケーキを食べた。編集者さんは甘いものが好きらしい。
「このページいらないと思います」
意見が辛辣なのは誰にも似ていない。
季節が春に向かっているだけで気持ちが前向きになる。知らないうちに本郷さんは顔出ししてテレビに出ていた。映画化の話を有名俳優としている。きっと彼が主役に抜擢されるのだろう。本郷さんには少し前を歩いていてもらいたいなんて勝手だな。
まだ僕に代表作と呼べるものはない。
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