1官能小説に出会う

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1官能小説に出会う

 高校3年生の夏休みが何事もなく終わってしまった。バイトもしなかったし、恋もしていない。進路を決めるには遅いはずなのに、僕はまだ文芸部の部長のままだ。  休みが明けても夏服で、クラスメイトも受験から目を逸らしたいのか、音楽やらゲームの話ばかりしている。 「会田ならどこでも大丈夫だ」  と担任からは放置されているけれど、推薦を受けるなら準備は必要だろう。文芸部所属だからって文学部に進学するとも限らないし。 「先輩、部活行きましょう」  言われなくても放課後は自然と足が部室へ向かう。  唯一の後輩の本郷さんは2年生で、髪型のせいか顔のせいなのか、うしろから見ると頭がまんまる。顔のパーツはかわいいのに少し変わった女の子。文芸部に入っている時点で不思議ちゃん。彼女は、すごく難しい小説を好む。だから彼女が書く小説も意味不明。植物の種が主人公だったり、空の気持ちになって世界を見下ろしてみたり。  部員は僕らだけだ。よって、部活と言っても僕は好きな本を読み、本郷さんは小説を書くだけ。僕が入部したときには3年生にプロの小説家になった人がいて、きれいな人だったからその人目当てだったり、はたまた彼女の二番煎じになりたい輩がたくさんいたのだが、彼女が卒業してしまうと急に部は縮小した。人に憧れているだけでは文章力は上がらないのだ。  僕と本郷さんが優秀だから、二人だけでも部として存続できている。部室は有り難い。放置された本もあるし、本郷さんは集中して小説を書けている。僕はプロットをまとめる程度。ここを保持するために僕らは小説以外にもなんとなく俳句を詠んでみたり、それっぽい詩を書いて賞に応募し続けている。若さ故の苦しみを謳って入選を果たし、こうして呑気に部活の時間を持て余している。 「先輩、今月末の文学賞にこれを出そうと思って。もう推敲すんでるので、てにをはだけチェックしてもらえませんか?」  本郷さんがパソコンのモニターを向ける。僕はずっと読んでいる小説の中盤だし、本郷さんが潤んだ瞳でお願いしてきても嫌なものは嫌だ。 「だって本郷さん、『それはわざとです。あえてです』が多すぎ」  小難しいし、受験生の頭を無駄に使いたくない。 「今回は言いません」  本郷さんは大手出版社の新人賞などにも出していて、この前も二次選考を通過していた。自分のペンネームが載った本を部費で買い、 「先輩、見て。ここです」 と目を輝かす。その後の話がないのだからダメだったのだろうか。こんなかわいらしい小柄な女の子があんなに堅苦しい、息が苦しくなるような話を書いているのだ。新人賞の低年齢受賞者は話題になるから本郷さんなんてちょうどいいと思うのだけれど。  そこで僕の電話が震える。 「ごめん本郷さん、妹を駅まで迎えに行かなくちゃ。小説読むよ。データで送ってくれてもいいし、明日以降でもいいから」 「紙出ししてあります。わかりやすいように修正部分に付箋貼ってくださいね」  と犬の付箋まで同封してくれた。 「はい。じゃあ」 「お願いします」  文学賞と名のつくものはたくさんある。ジャンルもたくさんある。同じ文字なのに、不思議だ。出版社の傾向、主催団体が求めるものは違う。賞によって選考も一次から最終まであったり、受賞者以外は公表しないものもあるそうだ。僕は学生の賞以外には出していない。本に乗った本郷さんの選評は僅か二行。そのために彼女が数ヶ月を費やしたことを見ている僕には無理です。前向きな本郷さんはそれだけで嬉しいよう。誰が喋っているのかわからないという辛辣な意見を飲み込んで、最近は小説の中の人物の話し言葉に個性を持たせるようにしている。語尾を変えてみたり、方言を用いたり。  本郷さんの小説を預かって階段を下りる。西日に照らされた校舎が美しい。運動部の掛け声と吹奏楽部の音が響く。ここにいられるのはあと僅か。だから、このみずみずしい感覚を忘れたくないなと思う。  僕には2こ下に妹がいて、高校生になったばかりのときにスカウトされた兄から見てもきれいな女の子。飽きっぽい性格のはずなのにレッスンや仕事を続けている。  校庭を急ぎ足で歩いているとクラスメイトから声をかけられる。 「助さん、今度ライブあるから来て」  軽音部の奴らだ。 「ああ」  断るつもりが、チケットを受け取ってしまった。金を払わなくていいのだろうか。あとから追徴されるのかな。  勉強ができるからクラスのヒエラルキーでは上のほう。高身長と文芸部部長の肩書のおかげもある。いや、根暗だと決めつけられている節もあり、だから面倒事に関わらずに済んでいる。  電車で本を読んでいる人はいても、A4の紙のまま小説を読んでいる人はいない。誰かに読まれでもしたら本郷さんに申し訳ないので、他の人と同じようにスマホをいじる。 「遅い」  妹の春風(はるかぜ)はご立腹だ。その長い脚で仁王立ちをしないでほしい。目立つし、下僕に見える。 「だったら一人で帰れよ」 「だって、お母さんが…」  昔から、勝手に怒ってすぐに涙目になる厄介な奴。芸能界なんて、たぶん春風には無理だろう。容姿がかわいいだけではだめなのだ。要領よく、人から好かれるようなコメントを瞬時に発することなんてできっこない。それでもなにかに打ち込むということが初めての春風は諦めきれずにレッスンを続ける。 「母さんは心配なんだろ? あんなことがあったばっかりだし」  両親は普通の身長なのに子ども二人がデカくなったのは庭の木にぶら下がってばかりいたせいだと思う。  見かけだけは確かに春風はかわいいから、夏に出たイベントでファンになってくれたおっさんに付きまとわれている。 「男はいいわね、自由で」  と制服から細長い脚を出して春風が軽やかに歩く。もっと、ずんずん歩いたらいいのだ。もしくは護身術を習うとか。  妹の送り迎えに時間を割かれる身にもなってほしい。  それに、自由なのは春風のほうだ。仕事のことだけではない。うちは代々、男は名前に『助』がついていて僕も漏れもなくそうなったわけだが、ネーミングセンスのない父のせいなのか、先祖とかぶらないように悩んだ末なのか『清助(きよすけ)』。小学生ぐらいで周囲がなんとなく気づく。自分としては古風なくらいにしか感じていなかったが、テレビからその名前が発せられ、名前をさかさまに呼ばれないよう足元を固めだした。普通だった成績を良くして、難しい本を読むようになった。今の読書好きはあの頃の苦悩の積み重ねの結果だ。  そんなことくらいと春風はかわいい顔で笑うのだろう。  でも、いつの世も男が女に振り回されていることだけは確かだ。著名な人ほど大変な人生を送っている。そそのかされて自殺してしまった人もいるし、言いくるめられて奥さんと別れた人もいる。そんなにきれいではない人にほだされて心中した人もいる。一緒に死ぬなら知らない人がいい。 「お兄、本屋寄っていい?」  お願いごとをするときだけ春風は甘えっこ。 「いいよ」  新刊のチェックだろう。春風はマンガが好きだ。 女の子だからなのか末っ子の特性なのか、父はずっと春風にデレデレだ。両親に頼みこまれたから妹の送り迎えを買って出ている。ちなみに父の名前は『金助』という。 その金助さんが店に入ってくる。奥へささっと行き、なにも手にせず戻って来たところで僕に気づく。 「清助…」 「春風もいるよ」  父に気づいた春風が駆け寄ってくる。 「お父さん、おかえりさない。偶然だね。あ、これ買って」 「いいよ。いいとも」  ほら、またまた甘えた発動。春風に関してはいつも父の受け皿は準備万端。 「やった」  と喜ぶ顔がかわいいのに、買ったマンガはグロいやつ。  男の影響だったりするのだろうか。それとも精神が病みそう? 話を聞きたいのに、父とくだらない話をして笑っているから、きっと大丈夫。  我が家は母屋と物置きの蔵が文化財に指定された古いだけの家だ。補修もままならず、数年前に庭に景観を損なわない平屋を建て、今はそっちで家族四人暮らしている。古い家は防寒どころか隙間風が目に見えるようだった。家の中にいるのに冬は吐く息が白い。 新しい家は快適だ。コンパクトで生活がしやすいと母はいつも言う。 「ただいま」 「あら、みんな一緒なの?」  母は天ぷらを揚げていた。そんなにたいそうな具ではない。かき揚げとかちくわとか。 「本屋で会ったんだ」  父が冷蔵庫からビールを取り出す。 「着替えてから」 「はーい」  父は飲料メーカーの営業で、母はヨガインストラクター。父はがっちり体形で母もさほどスリムではない。その二人からひょろっとした僕と春風が生まれたのは謎だ。食べるものも同じだし、むしろ現代のほうが飽食。  母屋のほうが自室は広かったが押入れよりもクローゼットのほうが使い勝手はいい。隣が春風で、彼女の部屋のほうが広いのは兄として納得がいかない。  制服から部屋着に着替えると、春風はたいていその長い髪を高い位置で結んでおだんごにする。 「いただきます」  父が仕事で遅いことだってあるし、母が女子会とやらに出かけることも月に一回程度ある。それでもうちは、仲がいいほうなんだと思う。小さいときはケンカもしたけれど、今では春風と言い合いになったりしない。回避方法を学ぶ。  天ぷらにレバニラ。うちの食卓はちょっと高カロリー。玄米ご飯が全部を帳消しにしてくれるわけじゃないよ、母さん。それでも不思議と僕は太らないし、春風はストレッチやトレーニングをして維持している。 「もうお兄の迎えいいよ」  と春風がかぼちゃの天ぷらを食べながら言う。 「だめだめ」 「そうよ、これから日が落ちるのも早いし」  親が娘を心配するのは当然だ。 「でも、お兄だってこれから受験じゃん」  そう言うってことはやっぱり男でもできたのだろうか。遠慮がちに目配せをするから両親はもう騙された。 「登校はいいとして、帰りは時間が合わない日もあるかもな」  うんうんと春風が僕に同意する。 「じゃあ、父さんと駅で待ち合わせしよう」  それはもっと嫌なようだ。 「せめて今からでも芸名にしたらって。身バレも防げるし」  春風が事務所から渡されたA4の紙を出す。入力されている文字は新人マネージャーさんが考えたのだろう。手書きの汚い文字はあの横柄な社長だろうか。 「マチルダ、あひるって、事務所はお前のこと、ちゃんと考えてくれてるのか?」  老眼になりかけの父が目を凝らす。 「鞠子は素敵ね。素(もと)もいいわね。善永素」  母もその紙を覗き込む。 「男か女かわからないじゃないか。苗字まで変える必要があるのか?」  父は春風には春風でいてほしいようだ。今時、素性を隠し通せないことくらいはわかっている。 「女の子は結婚したらどうせ変わるしね」  母の言葉に父が絶句しシイタケの咀嚼を繰り返す。 「これがいいよ」  僕は指をさした。 「新(あらた)ひかり?」  春風にはしっくりこないようだ。 「すぐじゃなくていいんでしょう? ゆっくり考えよう」  母の言葉に、 「うん」  と春風は頷いた。  天ぷらを食べたせいで春風の唇がテカテカだ。  こいつも変わり者で、母が作る水出しのお茶の色が出ているのをずっと見ている。今日はルイボスティーのようだ。天ぷら後だからすぐに飲んで口をすっきりさせたい。僕なら振ってしまう。  そんなのを飲まされているせいで太らないのかもれない。教育というか慣習って恐ろしい。 「春風、お風呂入っちゃいなさい」  母に促されて、 「うーん」  と返事をしたものの、父に買ってもらったマンガを読みたくてうずうずしている。 「先入ろうか?」  僕は言った。 「そうして」  風呂も広くはないが、母屋に比べたらボタン一つでお湯が溜まることに母は涙した。家族の全員が、この狭い家のほうが好きだ。祖父母が亡くなって、母は我慢をする必要がなくなった。  落ちぶれた旧家なのだろうが、あまり話をきちんと聞かされていない。父の姉が来ると曽祖父の偉大さを語るけれど、ってことは祖父が財を食いつぶし、父がしがないサラリーマンという構図しか思いつかない。  風呂から上がると父はL字のソファにほどよく体を曲げて眠っていた。母はどんなにうるさい中でも瞑想ができる達人。その横で春風が親を惨殺するマンガを読んでいる。滑稽というよりは、むしろ平和。 「お兄も読む?」  春風が目線もくれずに言う。 「今日は本郷さんの小説読まないと。英語の宿題もあるし」 「私もだ」 「おやすみなさい」 「おやすみ」  とだけ母も強く息を吐きながら言った。  英語の受動態に辟易した脳に、本郷さんの小説はきつい。  グロいマンガは絵のインパクトで気持ちが折れそうになるが、本郷さんの小説は精神を抉られる。  それを読んだ直後に疲れて眠ったせいで棘に雁字搦めにされる長い夢を見た。逃げられず、じりじりと成長する棘に殺されるのを待つしかない。発狂しそうになる手前で、 「人生ってそんなものよ」  と足元で瞑想しながら母が言った。 「宙づりになって植物に殺されそうな息子を助けないの?」 「瞑想が終わったらね」  と言うのが夢の中でも母らしかった。  寝汗が気持ち悪くて目を覚ました。暑いせいなのか、小説のせいだろうか。こういうことは頻発する。感性が豊かというよりは小心者なのだろうと冷たい水で顔を洗った。  ぐったりしたまま学校に行く。登校は当然、春風と一緒だ。 「シャゼリンだ。じゃあね」  と友達のところへ駆けてゆく。シャゼリンとかほくそとか、妹の友達はだいたいあだ名が珍妙。春風と比べてしまったら見劣りはするけれど、同じような趣味がある子が多いようだ。昨日手に入れた新刊の話題で盛り上がっている。同じことで笑い合える友達が羨ましい。今まで一人もいないのだ。本について語り合う友達。青春ものが好きな子に出会えない。 「先輩、おはようございます」  本郷さんだった。本郷さんは友達ではなく後輩。しかも好きな本の傾向が違うし、知識が僕を上回ってくる。 「おはよう」 「今日も妹さんと一緒ですか? 仲いいですね」  表面上はそう見えるのだろう。実際にはかわいいだけの妹と、その妹を心の中だけでかわいがるだけの兄だ。 「本郷さんのほうがかわいいよ」 「はい?」 「いや、フォルムが。頭の形とか髪とか」 「頭しか褒めてくれないんですね」 「そうだ、読んだよ」  小説を取り出そうとして、 「部活のときに」  と言われてしまった。クラスの子が周囲にいたのだろう。  人前ではその手の話はしたくないみたい。筆名があるのは春風のように素性を隠すためではない。恥ずかしいのだ。部長の僕と顧問の先生には仕方なく教えてくれた。しかし、本当に受賞したら嫌でもバレてしまう世の中だ。 「じゃあ本郷さん、あとで」 「はい」  うちのクラスはほぼ全員が大学へ進学すると思われる。このピリピリした空気に耐え兼ねでドロップアウトする人がいたりするものだ。まだ夏休みを勝手に延長している輩もいる。 「農業をする」 「旅に出る」 「自分を見つめる」  どれも素晴らしいことだと思う。でも、今じゃなくてもできる。目障りだ。ここから抜け出して成長している奴、ずるいと感じて当然。僕らは窮屈な教室でこの先の人生で使わないような古文を頭に入れているふりをしている。  普通に受験をするのか、推薦を受けるられるのか。同じクラスの中にも将来に夢を抱いてその道に進みたい者、とりあえず自分の頭で入れるところに進学を希望する人、さまざまだ。  文系でも男女比は半々くらい。気になる女の子はいない。進学クラスだから地味な子が多い。小説を読む子もいなければアニメ好きもいない。みんな、なにに興味があるのだろう。隣の席の小沢さんはボランティア部の部長。ボランティアが好きというよりも進学に有利だからという偽善者。彼女が悪いわけじゃない。世の中の風潮がおかしい。全てが一方通行でないと許されない。逆方向に進んだら叱られる。だから流されたほうが楽という人が多すぎる。そうかと思えば自我爆発のアーティストがもてはやされ、迷走する人間も増殖中。  頭のいい人ほど趣味を持っていたり、自分を癒す方法を知っているような気がする。音楽と両立をしたり、絵を描いて心を落ち着かせたり。春風のマンガ好きもそれに近いのだろう。  僕にとって文芸部はそれに値しない。青春は本の中だけ。放課後、本郷さんは部室で自由詩を書いていた。 「本藤さん、はい」  と小説を返す。 「付箋だらけですね。どうでした?」 「今までのよりは、おもしろかったよ。なんとか最後まで苦しまずに読めたし。本郷さんは自分で書いてるから気づかないだろうけど、どういう場所にいるのか情景がわからないのと誰の台詞かわからない点が数ヶ所。緑の付箋のところね。あと、ここの感情がわからない。犬の付箋は文章が長いなって思ったところで、それと…」 「もういいです。この前もらった選評と全く同じようなこと言わないでください。ヘコみます」 「ごめん」 「いいえ、ありがとうございます。これからじっくり直しますね」  本郷さんは大事そうに小説を抱えた。  そこで春風が、 「一緒に帰ろう」  とやってきた。 「これから部活を始めるところなんだが…」 「待ってる」  と言われても、本郷さんは気が散るだろう。集中してしまえば多少の物音は気にならないそうだけど、春風のことは苦手のようだ。足が細いから、顔が小さいから見てしまうらしい。  同じ女性なのに? 本郷さんのほうが好きな男子もいるよ。春風なんて細長いだけだ。薄っぺらくて胸もない。夏休みに水着の撮影があって、愕然とした。細いというより色気が皆無。木の板から枝が伸びているような体だ。普通が好きだな。本郷さんのほうが女性としては好きだ。隠れ巨乳を気にしているところもかわいらしい。部室の長机に乗せているのを見ると、机からその体温が机から伝わればいいのにと思って頬杖をついてしまう。むっつりではない。きっと世の中の男の子の標準だ。  さりとて妹を家まで送り届けるのは家族としての任務なので、そちらを優先する。 「部室に毎日二人きりでいて本郷さんとおかしなことにならないの?」  と春風が帰り道で聞く。 「ならないよ」 「だって、お兄と本郷さんが読んでる昔の小説ってだいたいエロいんでしょ?」  僕が恋をしないのは真顔でそういうことを聞いてくる妹のせいだ。春風や母を見ていると女性に幻想は抱かない。 「ものによるけど、本郷さんはエロ苦手だから」  とかわす。 「そうなんだ」  一度も意識をしたことがないと言えば嘘になるが、それ以上に同志に近い。フィクションであっても僕らの年齢で小説を書いていたらそれなりに自分を掘り返さないと書けっこない。憧れ、妬み、脆さ。僕らは互いに小説を書いたら読んでもらっている。頭の中、心の中までさらけ出せないと書けるはずがない。だから、たぶん僕は自分が思っている以上に本郷さんの過去やら記憶を垣間見てしまっているだろうし、反対に僕もだだ洩れだ。  たかだか17、8歳の高校生が10万文字も書くのだから、想像力だけでは足りない。ある程度、体験したこと、己が感じた下地がなければそれに到達しない。だから僕の小説には必然的にかわいい妹が存在してしまうし、名前のコンプレックスだったり様々なことを自ら引っ張り出して文字にしている。小さい頃から人が家に出入りするのが当たり前の境遇だったのできっと動物園の檻の中の動物の気持ちならわかる。その点では客観視することで自分の嫌な部分をそれ以上どす黒くせずに済んだ。  僕は高校生限定の賞で入選したことがあり、本郷さんは有名な賞の二次選考通過が知り得る限りでは最高だ。 電車の中で僕と春風を見て、 「あの二人、美男美女のカップルね」  と言われても、 「兄妹です」  なんていちいち否定しない。  春風も素知らぬ顔を貫く。小さい顔、長い手足を持っていても、どうしてか幸せそうじゃない。今だって、同じ事務所の女の子がアップした飼い猫の写真を見て苛ついている。小さな不満をたくさん抱えているように見えてしまうのはなぜなのだろう。  みんなそうだ。  この電車の中、笑っている人が一人もいないことに気づいてぞっとした。本郷さんはいつも自分の妄想ににやついている。そっちのほうが楽しそうでいい。気楽に生きることがいけない世の中なんて辛すぎる。  翌日、本郷さんは髪を切っていた。ショートだから切っても短いのだが、前髪がななめ。破天荒に憧れたのだろうか。  朝、髪型を変えた本郷さんを見つけてしまったから、部活に行く勇気がなかった。心機一転のつもりだろうか? 僕は頭を褒めたから? 考え過ぎだろう。春風なんて毎月のように美容室に行く。たいして切らないのに一万円もかかるのに自分で稼いだ金だから湯水のように使う。  本郷さんからなにか言われたら嫌だな。こういうときは逃亡だ。春風を教室に迎えに行くと友達のヒューマンと呼ばれているいかつい女子が気づいて春風の肩を叩く。 「もう、お兄ってば教室まで迎えに来ないでよ。はずかしいなあ」  春風は友達に手を振って、ついでにマンガ本を借りていた。春風は普通クラスの真ん中くらいの成績だ。友達はきちんと選んでいるよう。 「本郷さんの髪型を褒めたら次の日変えてくるってことは嫌われてる?」  真面目に相談をしているのに春風に笑われた。 「気になられてることは確かじゃん」  と肩を叩いた。 「お兄ちゃんをからかうんじゃありません」  本郷さんをそういう目で見たくないのだ。友達ではないし、まして妹でもない。同じ部活の後輩なだけなのに、互いを深く知ってしまっている。不思議な関係だ。好き合ったりしないと到達してはいけない彼女の奥底を安易に知ってしまっている。女の子ときちんと付き合ったためしもないのでわからないが。  一年生の校舎は別棟だから、懐かしい。短いスカートの女の子たちとすれ違う。 「あ、会田兄妹だ。やっぱり目を引くね」 「でもあの噂、本当かな?」 「近親…」 「聞こえるって」 「きゃはははっ」  世の中、どうかしてる。噂話をしている時間があるなら真実を聞いたらどうだろう。きちんと答えるから。  春風だって自分が少しばかりかわいいからってそれを妬まれるのはお門違い。彼女たちのように廊下でまでお菓子を食べ歩いたりしないから体型を維持している。文句を言ったっていいのに、面倒臭いが勝ってしまったのだろう。目を逸らしたり聞き流すことは簡単だ。狭い学校という中でいざこざを起こしたって厄介なだけ。僕はあと半年しかここにいないけれど、春風はあと二年半。16歳には長い時間だ。  ふっと春風は窓外を見た。そうだね。青空を見ているほうがいい。もしかしたら、妹は僕が思っているよりもとてつもなくでかい夢を抱いているのかもしれない。  本郷さんのことを静観しているうちに、すっかり忘れていたクラスメイトのライブ当日になってしまった。  チケットは2枚。さて、誰を誘おうか。春風? 本郷さん? 文芸部の顧問の橋爪先生はたまに部室に来て古書を書き写している。先生なのにワインレッドのネイル。書道部の顧問も兼ねているのだから、そちらでやってくれたほうが部室が墨臭くならない。 「だってみんな真剣なんだもん。ほら、書道って集中力必要でしょう?」  僕と本郷さんだって真剣だ。読書の間に、俳句を投稿している。 『背の高い あなたのうなじ 眺めてる』  本郷さんの俳句に匂いを感じるようになった。色香というよりも欲望。 「季語がないわよ」  と橋爪先生がしれっとつっこむ。 「本郷さん、クラスメイトのライブに行きませんか?」  先生の前で誘うくらいだから色恋なしと思ってくれたのだろう。 「いいですよ、いつですか?」 「金曜の夜です」 「了解です」  詩に俳句、短歌ならまだしも、どうしても随筆は書けない。エッセイも選択肢にない。どうしてか日常だけは書けない。悪口になったり陰湿になるからではない。想像が好きなのだ。  本郷さんは眉間に皺を寄せながら文字を打つ。本郷さんのタイピングは耳障りではない。橋爪先生の筆ペンのさらさらも好きな音。知り合いに頼まれてボランティアでやっている作業らしい。僕らにも書道部の生徒にも押しつけないところが先生の良さだ。 「二人とも、10月頭の文化祭はどうするの?」  橋爪先生が聞く。 「書道部はまたパフォーマンスするんですか?」  本郷さんはイベントごとが大嫌いな女の子。去年はひたすら俳句を考えて筆ペンで書いては壁に張った。それを剥がすのは苦痛だった。努力がゴミになる。 「今の部員は引っ込み思案の子が多くて、悩み中。去年は誰がセンターをやるかで揉めたのにね」  吹奏楽とか演劇部が文化祭の花形だろう。他校に恋人がいたら招いたり。無関係の人間には無駄に日常をかき乱されて迷惑だ。本郷さんはいつも小説を書いている。僕は決めた賞を定めないと書けない。今は書きあぐねている。プロットをまとめて書き始めては頓挫が続いている。続いているといっても2回だけ。それなのに、挫折に近い。 「今年は本を置いて読んでもらいます? あ、喫茶やりましょう。読書喫茶」  本郷さんの提案は疑問でしかない。 「回転率悪そう」  僕は言った。 「いいじゃないですか。文化祭のときだって居場所のない子はいます。そういう人に来てもらえれば。それに忙しくないほうがいいですよね」 「うちのクラスの奴らが集まりそう」  と僕は言った。ここに来てまで参考書の問題を解いていたら迷惑だ。 「あ、頭のいい人たちにトリックを考えてもらうのもいいですね。あとは、漢字クイズとか」  橋爪先生は口を出さず、自分の書き写しに時間を割いている。  部室には古い文庫本がたくさんある。同じ本でも時代で口語が変わっていたりするが、そんなことが楽しいのは文字に偏愛の人だけだろう。  文化祭のことは持ち帰って検討することになった。なにがいいだろうか。僕が引退をしたら本郷さんが一人になってしまうから、今更ながら部員を集める方法をさぐってみようか。  ライブの当日、困った。実は本郷さんの私服を見るのも、私服を見せるのも初めてだ。  風春に選んでもらいながら、そこまでする必要があるのかと首をひねる。 「お兄にとって初デートじゃない?」  バカにしたように春風が言う。絶対に面白がっている。 「小学生のときにグループデートとかしたよ」 「二人きりは初めて? 会話、大丈夫?」 「本郷さんだから」  やけに上から目線だけど春風は経験済みなのだろうか。どこまで?  今は事務所から恋愛禁止を言い渡されているらしい。大人数でのレッスン中で、それが終われば選抜組がグループでデビューできるらしいが、春風は女優志望。選ばれたいような、それでデビューしたくないようなと葛藤しているようだ。  駅で待ち合わせをした本郷さんが駆けてくる。前髪ももう伸びで、少し前と変わらない髪型に戻った。 「先輩、待たせしました」 「ううん、行こうか?」 「はい」  僕は友達だらけのライブだったけれど本郷さんは違う。少し大人っぽい、袖が透けたワンピースで、片腕を上げている。  ワンドリンク500円だけは奢る。 「ライブは文化祭の練習ですかね?」  本郷さんが聞く。 「さあ」  印象が変わった。大人しいタイプだと思い込んでいたから。拳を突き上げるタイプだったとは。確かに、小説を書いているときもイヤホンで音楽を聴いていたから、よもやロック好き? 「音楽聞くの?」  演奏の合間に本郷さん聞いた。 「はい。父がヘビメタ好きで」  そのときにイヤリングがサックスの形であることに気づいた。なぜかちょっときゅんとした。こんなに女の子らしいと感じたことは今までになかった。服装のせいだろうか。童貞は単純なのだ。  一時間にも満たないうちに友達のバンドは疲れ果てる。あれだけ叫んでいたら喉に悪いだろう。ボーカルだけが同じクラス。  次は大学生のジャズバンド。ガラリと空気が変わる。 「こういうのも好き」  と本藤さんが笑った顔にまたまたきゅんとする。  慌てて作っただろうと思われるクラスメイトのバンドのグッズまで買い込んでいた。バッチとリストバンド。 「先輩、見て見て。かわいい」  どうしてバンドをする人はドクロが好きなんだろう。死人の骨だ。あばらまでは結構骨があるけれど、その下は背骨だけなのだ。見ているだけで腰が痛くなる。 「かわいい?」  疑問だ。 「ママが好きそう」  本日の同行を快諾してくれた理由はそれなのかもしれない。両親に促されたとか、ライブの生の音を浴びてみたかったとか。  耳の奥がビーンとする感覚は久しい。うちの親も祖父母が生きていたときはよく連れ出してくれたが、今は家の見学者のために土日は家に縛られている。古い家の天井とか壁を見て楽しいのだろうか。母屋で好きなのは欄間くらい。  ライブハウスにクラスの人はちらほら。もうすぐ受験だし、本来足を踏み入れてはいけない場所だと生徒手帳に書いてあった気がする。フェスはいいのかな。ゆるっとしたものに子どものときに連れて行ってもらった記憶がある。春風とシャボン玉を追いかけてばかりいた。  気づけば本郷さんは真っ暗な中にしゃがみこんでメモを殴り書きしている。思ったこと、感じたことを書き残しておきたいのだろう。すごいな。  バンドの彼らもすごかった。若いエネルギーを放出して、羨ましい。僕は悩んでいるふりをしながら小説を書いているけれど、実は悩んでいる風味を醸し出しているだけなのだ。だから、薄っぺらな物語しか書けない。小さな背を向ける本郷さんのほうがきっと物書きとしては既に苦悩が大きい。 駅に向かいながらの道すがらにあるアパレルショップのポスターにはなぜか春風。大人数の中の一人だけれど妹の骨格を間違えるわけない。仕事だったのだろうか。今日はやけに自分以外の人が楽しいそうに思える。なぜだろう。 「家まで送るよ」  と言ったのに、 「大丈夫です」  と本郷さんは一人で電車に乗ってしまった。でももう夜の9時近い。夕飯に誘うべきだったかな。  たぶん、 「ありがとうございます。おやすみなさい」  的なことを言いながら窓の向こうで手を振ってくれている。本郷さんとは星を見ても月を見ても感想を述べあわない間柄。  かわいいと思うことと好きは大きく違うのだろう。電車が遠ざかってゆくのが悔しくもない。これはアイドルが好きでも本気の恋とは違うというような気持ちなのだろうか。最近は自分の感情すらコントロールできない人間が増えてしまった。金曜の夜だから、この時間の電車は酒臭い。酔ったお姉さんに寄りかかられて嬉しそうなおじさんと、座席の向かいで開きそうな足を凝視するおじさん。そんな人たちを見ていたら将来が不安になって当然じゃないか。 「大丈夫ですか?」  とお姉さんの前に立つ人がいてくれてよかった。制服ってことは高校生だろうか。ヒーローみたいな奴って本当にいる。対面のおじさんを威嚇して追っ払って、隣の席のおじさんを困り顔にさせた。彼のようには努力してもなれない。ヘタレなのだ。  次の日は妹とアニメの映画を観に行った。ロボットが延々と死体を解体する未来都市。人の体を再利用がテーマらしいが、首がぴんっと飛んだり、グロい。これこそ年齢制限が必要なのではないだろうか。小学生が笑いながら見ている。それが気持ち悪くて、終わったときはちょうどお昼だというのに腹が空かない。 「ごめんね。ハチマキと行くはずだったんだけど急にお葬式になっちゃって。お兄にはグロかった?」  グロいアニメも友達のあだ名がおかしいのも春風にとっては通常のこと。  土日は家に見学者が来るから両親のどちらかが残っていることが多い。僕らはよく、 「いいわね。税金の補助もあるんでしょう?」  と言われたりするけれど、そんなのは微々たるものだし、なによりも家族全員で出かけられない。先々月、僕と春風が大きくなったから両親を親戚の結婚式に送り出せたけれど、小さいときは片方しか行けなかった。普通の家のほうが気楽でいい。体裁を整えなければならないし、掃除にも気を配る。  春風はハンバーガーショップを横目で見ているが、今は水分さえ喉を通りそうにない。 「ごめん、しばらく無理そう」  靴先を見ながら僕は言った。特に肉は目にしたくない。 「お腹すいたよう。お兄の根性なし」  女の子は秋に差し掛かると急に茶色の服を着だすのはなぜなのだろう。キャメルとかマスタードもよく目にする。みんな似たような服装。  多分に漏れず、春風も。そしてスカウトされ、 「事務所に入っています」 と丁寧に断るのもいつものこと。  駅前では弾き語りの女の子。  知ってるよ。ロックはかっこよくて、アニメも楽しいのに、俺の世界は窮屈だ。それは蹉跌という言葉には収まりきらない。  足掻いてもいない。苦しまなくても成功している人間はいる。面倒なことはロボットやAIに任せれればいいの?  世の中が気持ち悪い。  だけれど、簡単にやめられないし、病まない。小さく息をしているだけ。  いきなり人生は変わらないだろうから、大人になったら酔っぱらったお姉さんの向かいで足が開くのを見ていたい。僕はヒーロー側じゃない。  匂いに我慢できなくなった春風にせがまれてカレー屋に入った。南インドの本格派。チャパティがおいしい。食べられるものだなと思ったりした。いつのまにか強くなっている部分もあるのだ。  帰り道で昨日見たポスターの話を春風にした。 「あんな小指の先位の顔の私、よくわかったわね」 「お兄ちゃんだからね」 「知り合いのショップだったから軽い気持ちで引き受けたの。まだ事務所に入る前よ。そうしたらカメラマンが怖いおじさんで。プロって厳しいよね。それで、それが当たり前なんだよね。仕事なんだもん。私よりかわいい子もいたけどあのとき撮影に呼ばれた子はおじさんに圧倒されて誰もモデルになろうって思わなかったんじゃないかな」  春風にまともなことを言われると、大人との関わり合いを持つことで嫌でも成長しているのかなと感じる。  羨ましかった。春風も本郷さんもバンドマンも、さっき駅前で歌っていた女の子も。  夕日がきれいだなとは思う。だけれど、僕の世界はモノクロームだ。  9月の後半は連休が続いた。学校、祝日、学校、学校、三連休。逆に体が疲れる。うちの周辺も数年で新しい家が増えた。徒歩圏内にわりと大きな公園がある。休日、勉強の合間に足を向けた。  公園では古本市が開催されていた。  0円の本はもらって部室に置こう。あ、これ先輩のやつだ。時代小説ばかり書く人で、デビュー作とそのあとに一冊出しただけで、もう書くことをやめてしまったらしい。普通に生きることが幸せな人もいる。小説を書かなくても生きてゆける人が大多数だ。本郷さんだって筆を折るかもしれない。僕は、どうだろう。なぜ小説を書いているのか考えたこともない。どちらかというと読むほうが好きなのかもしれない。楽しい青春ものばかり読むのに、書くのは陰湿なものになってしまってバランスが取れない。  先輩のおかげで文芸部に入ったので、恩は感じている。同じ高校生が賞を取って、賞金をもらって羨ましいなと強く思った。美人だったけれどそれだけでは生き残れない世界なのだろう。高校生デビューだったからテレビや新聞に取り上げられたこともあったが、それで本が売れるということはないのだ。残念なことに、こういうところで彼女の50円の値札が貼られた本と再会してしまう。家にも部室にもあるから10円でも買いません、ごめんなさい。  戯曲集に足が止まる。こういうのって読んだことがない。本郷さんは興味ないだろうか。一行目から放送禁止用語。古い本だからまだそういうことがちゃんをしていなかったのだろう。映画やドラマの脚本は戯曲とは別なのだ。形式は似ている。物語を作るうえで役に立つかもしれない。本郷さんも読むかもしれない。そう思って重たい本をいくつも手にしてしまった。  読みたかったミステリーが100円。 「まとめて2500円でいいよ」  店主のおじさんはカブトムシに似ていた。 「ありがとうございます」 「紙袋じゃ破れちゃうかな。ビニール紐でくくるね。その大きいのは袋に入れるしかないかな」  新聞を捨てるときに使う紙袋に戯曲全集などの大きい本、小説の文庫はビニール紐で縛ってくれた。 「これ、おまけね」  とビニール紐のほうに追加された。  本が重いということを忘れていた。両手が痛い。まだ公園を出れていない。紙袋を抱えた右手は既に筋肉痛、左手の甲にはビニール紐が食い込んでいる。  暑いし。  戯曲集の表紙が厚紙で硬いせいか、振動と比重で紙袋に穴が開いて来た。この中の本は括られていないだろうから崩壊したらどれかを諦めることになるだろう。  慎重に持ち帰った。苦行ではない。浅ましさのしっぺ返し。安いからって買いすぎだ。もっと慎重に選べばよかった。おじさんがおまけまでしてくれるし。  家の門をくぐったら普通は私有地なのだろうけれど、連休だから見学者さんがたくさん来ていた。父と母はその対応。妹まで、駆り出されるのは珍しい。外国の方のようだ。かわいい春風の笑顔でも通じないものもある。 「いつ建てられたものですか?」 「えっと…」 「およそ、120年前になります。数年前まで僕ら家族が暮らしていました」  助け舟のつもりが、敷地内をくまなく見て回ることになってしまった。 「ワンダフル」  さすがに屋敷稲荷はどう訳していいのかわからないので、屋敷祭りのことを説明する。うちには馬頭観音もあるし、祠がいくつも点在している。井戸はわかってくれた。どこの国にもあったのだろう。  蔵には古い人形とか、大皿が展示してある。父にも価値がわからないそうだ。春風だって階段で頭をぶつける。僕らの先祖は小柄だったのだろうと推測する。  受付に置きっぱなしにした本が心配だった。母のことだから床に置いただろう。買ったばかりで盗まれることはないだろうか。  見学は3時までと決まっている。家だから、こちらの事情も慮ってくれるのだ。  春風は事務所に所属する前は着物で写真を撮られることを喜んでいたが、それがだめになったのでこっそりお手伝い。  母はうちの一角でカフェをやりたいようだが、手続きや話し合いにげんなりして諦めた人。 「疲れた。お茶にしましょう」  今日はお手製のとうもろこし茶だった。ヒゲと実が少し浮いている。雑な母らしい。家ではこれでいいけれど、お店となったらクレームものだ。  父が住まいの平屋に本を運ぶのを手伝ってくれた。 「お兄、また本買ったの?」  春風が袋の中を気にする。マンガは読むのに小説を読んでいるのは見たことすらない。 「公園で古本市やってた。初めて見た」 「数年前からやってるよ」  と父が言う。じゃあどうして教えてくれないのだろう。うちにも古い文献らしきものはあるが、見てもちんぷんかんぷん。 「邪魔だから自分の部屋に置いてくる」 「手伝おうか?」  春風が持とうとするが、その白魚のような手に痣を作りたくない。 「大丈夫だよ」  自分の部屋の床に置いた途端、袋の底が破れ、本が散らばる。あのおじさん、これを見越していたわけではあるまい。  本棚もいっぱいだ。本の上に横に重ねるのは見栄えが悪い。さて、どうしよう。受験が終わればその関連本やら参考書がいらない。しかしまた、必要な本が増えるのだろう。これ以上本棚も増やせない。僕の部屋は6帖だ。図書館のような書架移動棚が夢だが、それは自分でお金が稼げるようになってからにしよう。  小説は著者名で並べる派。戯曲集は専門書のコーナーに。文庫本の紐を解く。一番上にカバーのかかった本。なんだろう。買った覚えがない。 開いてみてびっくり。 『お戯れ』  というタイトルで、お尻の大きな女の人が描かれた黒い表紙だ。  一行読んで、ひゃっとした。  これは、官能小説だ。  どくどくする。  存在は知っていたが、目の当たりにするのは初めてである。高校生が読んでいいのだろうか。私服だったから、おじさんが僕を大学生と間違えたのかもしれない。  おまけでもらっていいものなのだろうか。  二行目で生唾が出て、三行目で冷や汗。  でも、止まらない。  文字で勃起するなんて、初めてのことだ。  意外と難しい漢字の羅列。辞書を開くが該当する言葉がない。隠語なのだろうか。ネットで検索。お尻か。臀部と聞いたことはある。双臀が下なのだから双丘は上なのだろうか。わからない。聞ける相手もいない。本郷さんは卒倒してしまうだろう。  読んでいいのだろうかと本を閉じ、続きが気になって、また開くの繰り返し。  インモラルに弱いほうではない。フェチズムの気持ちもわからなくもない。  セックスの気持ちよさも知らない男が読んでいいのだろうか。  一章で、退散。  本を閉じた。文字を目で追っていただけなのに、その匂いを知らないはずなのに、香しい。さて、この本をどこへ隠すべきか。カバーのしてある本はいくつかある。緑のブックカバーと黄色のブックカバーの店に行くことが多いが、本の置いてある場所や厚さでわかる。この本だけはなんとしても家族に見られるわけにはいかない。  今まで培ってきた息子として、兄としての尊厳を失ったら、生きてゆけないことはないだろうけれど家にいるのが辛くなってしまう。  それでなくても春風が部屋に入り浸るからエロ本すら置けないのに。  エッチなDVDだって友達の家でしか見たことがない。鍵付きの机の一段目に入れたら、いつもは鍵をかけていないのだから母が不審がるだろうか。  ああ、困った。  とりあえず、他の本の間に挟むという、そのカバー代わりにした先輩の本には誠に申し訳ないことをした。  翌日、10時にまた公園に行ってみたが、もう市はやっていなかった。白昼夢ではないだろう。どうして連休の最終日までやってくれないのだ。売れ残りだったからくれたのかもしれない。本が重いことは承知している。昨日も味わった。手の痛みが真実だと教えてくれる。  あの本をバッグに忍ばせてきた。いらないと返すつもりはない。ただ、聞きたかった。  気の抜けた足で家に帰る。  おじさんはどうして僕にあの本をくれたのだろう。試した? 若者に指南? 恋人がいないという哀れみかもしれない。  あの類の本、小さいときは本屋でも目にした記憶があるけれど、最近はすっかり見なくなっていた。帰り道に本屋を一周したけれどやはりない。廃れた文化なのか、この清潔すぎる時代の風潮なのか。卒業した一つ上の映研の先輩にポルノ好きがいた。教室で上映会をして、謹慎処分をくらっていた。そんなに悪いことなのだろうか。スマホがあればAVは見れてしまう。  連休が終わり、学校が始まっても本郷さんにも橋爪先生にも相談できない。  第二章を読んでしまった。ドキドキする。しかし、またもや読めない漢字に遭遇。今の時代、スマホで写真に撮ったら変換してくれるアプリはあるが、写真は消しても完全削除にならないし、バグる可能性も無きにしも非ず。  このドキドキは背徳感とも謎解きとも違う。屈折しているようでしていない。人間の本能とも言い難い。  翌日から、電車の中でカバーをかけた本を読んでいるおじさんが全て官能小説を読んでいるように見えた。漢字の読み方と意味を教えてください。できれば、体位の名称と性技も。  基礎知識がないことを知る。  放課後、春風とコーヒーショップでココアに生クリームがてんこ盛りの甘いだけの飲料を飲み干す。すらりとした女の人の脚に目が行って、 『その枝のような細い脚を開かせ』  という官能小説の一節が蘇り、席を立つ。 「お兄?」 「帰ろう」 「えっ? ちょっと…」  すれ違う人全てがエロく見える。  うちに帰って出迎えてくれた母でさえ、僕と春風がいるということは、最低2回は中出しされた人に見えてしまう。  いつもの、いい子を演じられない。 「清助、夕飯いらないそうよ」 「受験のイライラ?」 「そういうタイプじゃないだろう?」  家族の声がうっすら聞こえる部屋で第三章に突入。 「公子さん」  僕は思わず声を上げてしまった。だって、第一章でも二章でも、あんなに頑なだった公子さんが自ら快楽に溺れてしまう。  そんな女じゃないはずだ。あなたはしとやかで、可憐な未亡人。足を開いて、身を沈めて、腰を振るような人ではないはず。  受験絡みで恋人と別れるクラスメイトの気持ちはわからないが、 「女なんて、もう信用しない」  という言葉には同意。  架空の公子さんに振り回されていると話したら本郷さんは笑うのだろうか。  本郷さんは推敲を重ねて、あとはエンターを押して応募するだけなのに躊躇している。 「名前間違ってない。電話番号、合ってる。よしっ」  押してしまった後で深いため息。まだ直せる時間はたくさんあったのにという後悔に襲われる。  同時にやりきった達成感にも覆われている。一度それを体験してしまうと最高に気持ちいい。脱稿とセックスは似ているのかもしれない。  僕は渡された栗羊かんさえもエロく感じてしまって重症だ。それを咀嚼しながらくちゃくちゃ、ぬちゃぬちゃという淫靡な音が耳に抜けて公子さんを思い描いてしまう。小説にはない喘ぎ声やら擬音が官能小説には多用されている。  初恋などではない。公子さんのようなふしだらな女性は嫌いだ。  それなのに、世界がやけに鮮やかだ。地味な同じのクラスの小沢さんまで女に見えてくる。いや、一見こういう人のほうが変態だったりするのだろうか。処女信仰はないけれど、女の子をわけてしまう。どんな下着なのか、エロいのか否か、妄想してしまう。  第四章、第五章。ちっとも終わる気配がない。中だるみを感じながら、それでも読んでしまう筆力がある。  公子さんに翻弄され、彼女の態度や行動に一喜一憂。彼女自身も官能小説の中で淫らに男に振り回される。  官能小説って、ただエロいものだと思っていた。これは、本だ。小説だ。  受験ノイローゼでもないのにごはんが喉を通らない。公子さんのせいなのか、官能小説のせいなのだろうか。  公子さんが愚かな自分に気づく。愚行だったと自分を責める。違う。あなたをたぶらかした義兄が悪いのだ。無知なあなたにつけ込んだ弁護士はずるい。力で押し切った近所のおじさんはぶっ飛ばしたい。  本郷さんは僕が官能小説と一緒に買った戯曲集を読んで、人間を学んでいる。金がなかったら奪うのが普通。古い本だから簡単に殺人や強盗が起こるらしい。 「怖い」  と言いながらも、人を知ってゆく。今は、核家族のせいか多くの人と関わらずに育ってしまう。そのせいか雑になっているような気がする。祖父母と過ごした時間は短かった。でも、本当に感謝している。祖父母のおかげで近所に知り合いが多いし、塩飴も好きだ。  当然のことながら、本郷さんに官能小説を読んでいることを打ち明けられない。彼女に秘密を持ったことはない。いつも心を温める小説を書いている。そんな僕がこんな本を読んでいると知ったら本郷さんはがっかりするだろう。しかし、これはこれで本当にひとつの小説だ。  9月の最後の週末、僕は一人公園のベンチに座っている。何度もやめようとして、読了しまった。公子さん、人生もそうですか? あなたの人生をこっそり覗き込んでしまった少年を咎めても構いませんよ。  実際には風が吹いただけだった。  落ち葉の音がする。なんて贅沢な時間なのだろう。枯れて落ちてゆく葉の音をこうして無心で聞いている。飢えていないし、体に痛みもない。  少しばかり満たされている。  本を閉じたら公子さんはただの活字に戻った。もう体温も感じない。  一週間前、この場所で僕は官能小説に出会ってしまった。出会うべくして出会ったのだ。だから、官能小説家を目指してみようと思う。そのとき急に目の前が鮮やかになった。  自信があるわけじゃない。ただ、書かずにはいられない。
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