野辺の花

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 海辺へ通じる急な下り坂に足がすくんだ美世子だったが、大きく開けた視界に爽快な風を感じて背中を押される気分であった。慎重に足を運ぶうちに海が匂うようになり、代わりに蝉しぐれが遠ざかる。遠浅の内海では泳ぐ人の姿も見えて、長く暮らしてきた東京では味わうことのなかった風景ののどかさに安らいだ。  台地に囲まれた海沿いは根岸といい、隣の本牧には及ばないものの、一年中よく獲れる貝をはじめとした海幸で暮らす豊かな漁師町である。横浜が開港された後、山手に居留地ができると、海に惹き付けられた外国人がよく足を運ぶ行楽地となっていった。魚を売る女たちの視線を受けながら海辺の道を歩くと外国人とすれ違うことが多く、澄んだ眼差しで風景を眺める者からどこか濁った眼で日本人の女と連れ立って歩く者まで様々であった。  強い日差しが照り付ける道は海岸線に沿ってまっすぐ伸びていて、本牧の方へ少し歩いただけでも汗が噴き出してくる。たまらず手ぬぐいで額を拭ったが、日差しの下にいる限りきりがない。日陰になりそうな大木もない道を歩くのは辛いが、戻ったところで手入れされた庭しか眺めるものがないので、美世子は熱気に喘ぎながら歩いていった。
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