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6,ゼウスの雷
「そう、芝坂さんの息子の亮君、この学校の校庭で落雷で亡くなったの。今から10年前のことよ」
2年前にこの町に引っ越してきた芳江は、そんな事故があったことを知らなかった。しかし事故の当時は大きな騒ぎになったことだろうと推察した。
「うちのお兄ちゃん、その時校庭で一緒にサッカーしていて、雷が落ちるのを目撃したの。それはもうショックだったらしくて……」
級友が目の前で雷に直撃されて死ぬという壮絶な体験は、きっと今でも彼の心に深い傷となって残っているのだろう。
では、芝坂さんは息子を弔うために今日ここへ来たのか?10年目ということで?
芳江がそのように考えを巡らせた時、招かれざる闖入者のように外から雷鳴が聞こえた。
やはりさっきの入道雲が雷雨をもたらしたのかと思った芳江の視界の中で、何かが素早く動いた。
それは、芝坂美和だった。
彼女は雷鳴に促されたように立ち上がり、足早に体育館の出口へ向かって行った。
「何かしら」
芳江は立ち止まったままの水島と顔を見合わせた。雷に誘発された行動、それは不吉な予兆を孕んでいた。
「私、後を追ってみます」
と芳江が言うと、「私も行くわ」と水島も役目そっちのけでそれに従った。
体育館を出ると、校庭が見渡せた。激しい雷雨のため、校庭にいた生徒たちは蜘蛛の子を散らすように校舎に避難していた。
そんな中、それに逆行するように美和は小走りに校庭の中央へと進んでいく。すでに髪も服もずぶ濡れで、気がふれたように何か大声で叫んでいた。
隣人というだけで一度しか対面していない芳江は、どうすることもできず傘をさして佇んでいた。水島も同様だった。
雷鳴と雨音の合間を縫って、美和の叫び声が芳江に聞き取れた。
「ゼウス!私を亮の所へ連れて行って!」
芳江はその言葉の意味がわからず横に棒立ちになっている水島に問いかけるような眼差しを向けたが、水島にも理解できないことは明白だった。
しかし、美和の哀願の叫びが届いたかのように空が割れ、稲光りと轟音がほぼ同時に重なり合ったかと思うと、美和目がけて閃光が走った。
芳江は狂ったように悲鳴を上げた。
それにシンクロして周囲から沸き起こった悲鳴が、火花を散らすように響き渡った。
黒衣の女性が校庭の真ん中にくずおれるのを見て、芳江も気を失いかけたが、かろうじて水島に寄りかかって耐えた。
保健室のベッドに、美和は放心した表情で横たわっていた。
救急隊員が駆け付けたが、奇跡的に美和は火傷一つしておらず、病院に搬送の必要もないとのことで、保健室に運ばれた。
保健室の先生をはじめ、美和のベッドのまわりには生徒の母親たちが心配そうに見守っていた。
「隣室の若宮です。大丈夫ですか」
「亮君のお母さん、お久しぶり、水島です。大丈夫?」
2人は口々に声をかけたが、美和はうつろな目で虚空を見つめるばかりだった。
目と同じくうつろな口から、異界からのこだまのような呟きが漏れた。
「あの子は、私に、まだこっちに来ちゃいけないって言った……」
雷が落ちた時、美和の横に少年のような人影が現れたと複数の人が証言した。
10年前の落雷事故を知る者はそれが誰であるかと推測し、彼が母親の命を救ったのだと、深い感銘に心を揺さぶられた。
(了)
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