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2,田園交響曲
芳江が夕立のきそうな空模様を気にして洗濯物を取り込もうとベランダの扉を開けると、隣室からまたあの曲が聞えてきた。
それはクラシックをあまり聞かない芳江でも知っている、ベートーヴェンの田園交響曲だった。
標題通りに都会のど真ん中にも緑あふれる田園風景を音楽で現出させるその曲は、世界中の人が共有する田園の原風景と言える。
その田園交響曲が、隣室から毎日のように聞こえてくるのだった。
芳江が住んでいる賃貸マンションの入居者は転勤族の家庭が多く、芳江の一家も2年前に他県から越してきた。芳江の部屋は角部屋で、隣室は1年ぐらい空き部屋になっていたが、今年の5月のゴールデンウイークの時に入居した。
それは40代くらいの夫婦で、あいさつに来た奥さんは容貌は美人なのだが黒いヴェールのような沈鬱な雰囲気を身にまとっていて、骨が浮き出そうな細い体は痛々しく見えた。
その時以外、隣人と出会ったことはなかった。
芳江は週3日、近所のクリーニング店でパートの仕事をしていて、午後3時に終わってスーパーで買い物をして帰ることが多かった。仕事のない日は夕方に買い物に出かけたりした。
一方隣人は仕事をしていないようで、芳江が知る限りほとんど部屋にこもっていた。外出は大抵午前中の1時間程度らしかった。
マンションの4階のベランダからは、家々やビル、木々と空が眺められた。それは、市街に住むものにささやかだがほっと息をつける安堵感を与える景色だった。
その景色が今は、夏の覇者、入道雲に呑み込まれようとしている。
見る見るうちに膨れ上がって行く入道雲は、危険な雷雨の前兆だ。
洗濯物を両手に抱えた芳江は、室内に戻ろうとして隣室から聞こえる「田園交響曲」が途絶えていることに気付いた。
曲が終了したのか、あるいは自分がベランダに出ている物音を聞いて音量を下げたのか。
隣人は日中ほとんど在宅していたが、子供がいないのでひっそりしていた。ただ、一日の内数時間、音楽、主にクラシックをかけた。音の強弱の差が大きいクラシックだからなのか、隣に十分聞こえるほどの大音量だったが、芳江はそれが迷惑というより、隣人のあの消え入りそうな脆弱な雰囲気を思うと、意外だと感じた。
大音量で音楽を聴くのは昼間に限られていることだし、別に問題はなかった。
それより、唯一「田園交響曲」でその存在を伝えてくる謎めいた隣人への好奇心がふつふつと湧いてくるのを、芳江は抑えられなかった。
突っ込んだ好奇心など浅ましいと、常日頃節度を重んじている芳江だったが、そんな彼女でさえ、隣室のはかなげな麗人に対して必要以上に心のアンテナが向かうのだった。
なぜ彼女は毎日「田園交響曲」を大音量で聴くのか。単に好きだから?
途中で急に音が小さくなって聞こえなくなるのはどうして?
もうすぐ、小学5年の一人娘、亜矢が小学校から帰ってくる。降り出す前に帰ってくればいいが。置き傘があるので大丈夫か?
ガラス扉を閉めた芳江の関心は、娘の亜矢へと方向転換した。
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