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「……んーっ」
イーゼルの前、筆を持ったまま両手で伸びをする。肩や背中の筋が思った以上に張っていて、自分が知らないうちに長い時間集中していたことを教えられた。
どれくらいの間、没頭していたのか……。
唯一夢中になれることはこれで、家での時間は絵を描くことに使うのが俺のルーティン。
特に今は力を入れている作品がある。
新しい高校に入って迎えた二度目の夏休み。
今日もキャンバスに向かう傍らにもう一人――。
せっかくの時間なのに、一緒に過ごしていることを忘れて制作に取り組んでしまう俺。
いつもこんなで大丈夫なのかと、そこに座っているだろう姿を振り返る。
テーブルの上、広げたノートに乗せた両腕にうつぶせて、うたた寝している湊がいた。
俺が絵を描く間、決して邪魔しないようにと、まるで気配を消すみたいにいつもそこで勉強している。
だから俺も知らないうちに作品に集中してしまって、気づいたら結構時間が経っていることもしばしば。
毎週水曜日の二人の時間。
一人暮らしのこの部屋へ時々来てもいいかと、恥ずかしそうに聞いてきた君。
この場所に来るとき湊はいつも、初めて訪れるみたいに少し緊張しながら、そして初めて呼んでもらえたみたいに嬉しそうにしながらやって来るのを知っている。
そんなこいつを、たまらなく愛しく感じる。
俺がそんなふうに思ってること、きっと知らねんだろな……。
棚から一冊のスケッチブックを取り、静かに眠るその寝顔を描き写した。
細く艶のある黒髪。
綺麗なラインの輪郭。
穏やかで優しい眦。
少し開いた柔らかい唇。
目の前にある存在を、まるで捕まえるように手元のスケッチブックに残していく。
デッサン用の鉛筆は大切な人を撫でているみたいに優しく紙の上を滑った。
スケッチを終えパタンとページを閉じると、椅子から立ち上がり湊の脇に座る。
「あ……、ここ間違えてんじゃん」
後ろから覗き込むようにして、問題集に書き込んであるチェックを見ながら笑った俺の息がかかったのか、ピクッとくすぐったそうに首をすくめた。
間近にある無防備で安らかな寝顔。
「……襲うぞ、こら」
苦笑混じりにそうつぶやいて、そっと髪にキスをした――。
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