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「はあ、はあ、はあ……」
息を切らして、周囲に目をこらす。どうやら、追っ手はいないようだ。
レオナルドの15歳の誕生日まであと一ヶ月。15歳になると、成人と認められて正式な王位継承権が授けられる。レオナルドの父はまだ生きているが、王位継承権を与えられてからはいつ王になってもおかしくない。しかし、彼はまだそのような心構えを持てないでいた。
「お兄さん、そんな急いでどうしたの」
市場でパンを売っているおばあさんが声をかけて来た。
「いえ、妹が熱を出したもので。薬を急いで買いに来たのです」
フードを深くかぶりながら答える。咄嗟ついた嘘にしては上出来だ。
「あら、大変。薬屋はそこにあるわよ」
おばあさんは心配そうな顔をして教えてくれた。まずい、今お金は持ち合わせていない。
「いや、あの……」
レオナルドが口ごもっていると、通りかかった少女が急に抱きついてきた。黒い髪を揺らしているその少女は、まだ6つくらいに見える。
「お兄ちゃーん、私もう治ったよ」
「え」
驚くレオナルドを、少女は鋭い目つきで睨みつける。
「あら、かわいい妹さんなのね。それにしても大丈夫なの? ついさっきまで熱が出ていたのではないのかしら」
おばあさんが近づいてくるので慌てて口を動かす。
「おい、ダメじゃないか病み上がりなのに。いやでも、治ったならそれでよかったよ。ははは……」
無理があるだろう、と心の中で思いながらも窮地を脱したことに安堵する。パン屋のおばあさんは微笑みながら、それならよかった、と手を振ってくれた。
「ありがとう」
パン屋のおばあさんに手を振りながら、少女はレオナルドの手を引っ張って市場の奥の方へと向かっていく。ひと気のなくなったあたりで、彼女はレオナルドの手を離した。驚く隙も与えず彼女が質問してくる。
「訳ありなの?」
先ほどの甘え声と違う、透き通ったクールな声だった。見た目は6歳なのに、中身はまるで別人だ。
「え、ええ。その通りです。先ほどは、ありがとうございました」
レオナルドは驚きつつも、少女に頭を下げる。少女はその姿を訝し気に見つめる。
「家出?」
まあ家出といえば家でだろう。
「まあ、そんなところです」
「教えてくれないならまあいいけど。じゃあ、私はこれで」
レオナルドの返答に何の関心も示さずに、少女はそのまま立ち去ろうと歩き始めた。まずい、このままではお金を持ち合わせていないままだ。彼女なら助けてくれるかもしれない。レオナルドは再び少女に声をかける。
「あ、待ってください」
少女は嫌そうな顔をして振り向いた。
「なによ」
「ここらへんで、お金を稼ぐ方法はありますか」
少女は、再びレオナルドの方へと向かってきた。そして、ゆっくり顔を近づける。長いまつ毛をぱちくりとさせ、背伸びをしてレオナルドのフードをそっと外した。あまりにも急なことに、レオナルドはフリーズしてしまう。
大丈夫、庶民に王子の顔はばれていないはずだ。だが、レオナルドの顔は王である父親とよく似ている。王の顔は、この国で知らない者はいない。まじまじ見られると、身元がばれてしまう可能性もあるだろう。
「な、なにをするのですか」
レオナルドは再びフードを被った。
「あなた、何者なの。お金の稼ぎ方も知らないなんて」
どうやら、ばれてはいないようだ。レオナルドはほっと胸をなで下ろす。
「僕は……、その」
この少女には嘘が通用しない、レオナルドはそう確信していた。だからといって、易々と真実を話すわけにもいかない。
「親が厳しいのです。ですからこの歳になってもまだ働かせてくれたことがなくて」
これは決して、嘘ではない。レオナルドは以前、父である王に街へ出て働かせてくれと頼み込んだことがある。しかし、父はそれを却下したのだった。王族ともあろう者が”外”で働くなどあり得ない、と。王族の者は国のために宮殿で働くこと、と法律で決められているのであった。
「こんな世の中で、どうしたら子どもが働かずに生きていけるというのよ」
少女は少し怒っているように見えた。庶民の子どもの多くは働いていると知っていた。けれど、今の今までそれはお小遣い稼ぎであると思っていた。今まで街の生活がどのようなものなのか、知ることはできなかった。そのような機会は欲しくても手に入らないものだった。レオナルドは初めて、自分がいかに無知であったのかを思い知った。
「ごめんなさい」
気が付くと、少女に謝罪をしていた。
「あなたが謝ることじゃないわよ」
少女は嫌そうに首を横に振った。そして、レオナルドの肩を叩いた。少女の動作とは思えない。
「いや、僕が不用意な発言をしてしまったのは事実です。それに申し訳なくなってしまって」
続けるレオナルドを見て、少女は意味ありげに眉を上げた。何か疑っているようにもみえる。
「それにしても、あなた何者なの?」
「街のはずれに住んでいまして」
街のはずれなら、少女も知らない可能性がある。詳しく話を聞かれると厄介だが、そんな言い訳しか思いつかなかった。
「ふーん、やっぱり興味が出てきたわ。いいわ、仕事を与えてあげる」
少女は、レオナルドの手を引っ張った。
「私は、リリー。ここから少し離れたサハラン森で、薬草作りをしているの。一人で暮らしているわ」
リリーは南の方角を指さした。国の領地に広い森が存在していることは知っていたが、そこに住んでいる者がいるとは思いもしなかった。
それにしてもこんな小さな子どもが一人で住んでいるなんて。レオナルドは質問攻めしたい気分になったが、自分の話もせずに聞いてばかりというわけにもいかないだろう、との考えから深く触れないことにした。
「リリーか。僕はレオナルドです。よろしくお願いします」
レオナルドが手を差し出すと、リリーは首を横に振った。
「レオナルド、ね。どうしても身の内は明かそうとしないのね」
リリーは呆れた顔で笑った。こちらの手の内を明かさないと本当に信用を得るのは難しそうだ。だが、リリーが信用できる人物であるかもわからない今は話すわけにいかない。
「ごめんなさい」
レオナルドは謝ることしかできなかった。
「いいわ、そのうち話したいと思った時に話してくれれば」
リリーは市場を抜けて、奥へ奥へと進んでいく。30分ほど歩いただろうか。遠くの方に森が見えてきた。
「あれよ、私のおうち」
「あれが?」
「そう、あの森全部。私は薬草を作っていてね。めったに街へはでないの。普段はずっとあそこで生活しているの」
森に住んでいるなんて何者だろう。レオナルドは考えを巡らせる。
森の中へ入っても家は見当たらない。さらに30分歩いたか、というとき赤い屋根のこじんまりとした家が見えてきた。
「どうぞ」
リリーが扉を開けると、ごちゃごちゃした部屋がそこにあった。椅子と机の後ろには、鍋やらフラスコやら様々な道具が置いてあった。
「街へ出るときはね……」
リリーがそう言って、棚に置いてある粉を全身に振りかけた。その途端、リリーは白い光に包まれてみるみるうちに姿・形が変わっていった。
まだ6つの歳に見えたリリーが、今では同い年か少し年上に見える。まだあどけなかったその顔は、きりっとしていて美しく思わず見入ってしまうほどだ。レオナルドは今まで、こんなに美しい人は見たことがなかった。
「こうやって、変装しているってわけ。こっちが本当の姿ね」
声も先ほどよりさらに、透明感が増している。
「そうなのですね」
「だから、街の人も私のことを知らなかったのよ。私の作っている薬草、魔法薬は街に出していない高級品だし」
魔法薬。レオナルドにとってそれはあまりにも身近で、聞きなれた単語だった。
「そういえば魔法薬って、傷が一瞬で治ったり修行で疲れた時に元気になったりするあの薬のこと……」
レオナルドは話の途中で、喋りすぎたと気づいた。だが、その時にはもう遅かった。
「やっぱり、あなた王族の子でしょ」
「い、いや。王族に仕えている者の息子ですが」
リリーを見ると、まったく信じていないという顔をしていた。
「そんなはずない。魔法薬はすごく高価なものだから、王族にしか使用されていないはずだもの。私も王の使いと直接やり取りしているの。あなたと出会ったとき、まさかとは思っていたけれど……」
王の使いとやり取りしているとはいえ、王子であるレオナルドのことも話す仲だというのか。
「僕のこと知っていたというのですか?」
「あなた、もしかして魔法が使えない王子?」
魔法が使えない王子。一部の召使たちにそう呼ばれていることは知っていた。王族の子は普通、10歳になる頃にはある程度の魔法を扱うことができるようになる。しかし、レオナルドは全く魔法を使うことができなかった。そこで、レオナルドには特別に魔法のレッスンが行われた。王族のなかでも魔法を扱うことに長けている者が講師となり、レオナルドに魔法を教えてくれた。だが、そのレッスンを経ても、レオナルドは魔法を使うことができないままなのであった。
「そんなことまでご存じなのですね」
「知ってるわ。あなたがどんな人であるのかも、少しはね」
レオナルドがどんな人物か知っている者、それはつまりレオナルドの知り合いである可能性が高い。誰なのだろう。考えを巡らせていると、リリーが慌てて付け加える。
「大丈夫、誰にも話したことはないわ」
「そうなのですね……」
どうせ陰口をたたかれていたのだ。あんな王子が王位継承権を握ることになるとは、とか。大方そんなところだろうと、レオナルドは肩を落とす。
「まあいいわ、身の内はバレていることだし事情を教えてちょうだい。大方、予想はつくけれど」
リリーの言葉は鋭いのに、なぜか意地悪には感じなかった。事実を淡々と話している。レオナルドはそう感じた。
「王族の中で、僕だけ魔法が使えなくて」
リリーはその言葉を聞くなり、クスリと笑う。
「知ってる。魔法なんてね、使えなくていいのよ」
リリーはそう言って、ため息をつく。
魔法を使えなくても良いという者がいたとは。今までずっと、庶民は魔法を使いたがっているものだとばかり思っていた。王族が魔法を使えることを羨ましく思っているのだと。まさかそれを否定してくる者がいるとは。
「どうしてですか。僕たち王族は魔法という素晴らしい力で、国を治めているのです。あなたのその発言は、王族に対する侮辱です」
レオナルドは、怒りをにじませた目でリリーをじっと見つめた。自分にはその力が宿っていない。それでも、魔法はレオナルドのなかで王族の誇りなのであった。
「王族がそんなに素晴らしいのなら、あなたはどうして逃げてきたというの」
リリーの言葉がレオナルドを現実へと意識を戻した。そうだ、レオナルドは誇りに思っていた王族という居場所を逃げ出してきたのだ。
「それは……それは、僕なんかには王という仕事は務まらないからです。あと一か月もすれば、僕は王位継承権をもらうことになる。そんな権力、僕にはふさわしくない」
情けのない言葉があふれだしてくる。だが、レオナルドがここまでに他人に素直になれたのは初めてであった。
「あなたが王にならないというのなら、誰が王を継ぐというの? 第二王子?」
「僕が継がないのなら、そうなるでしょうね」
リリーはその言葉を聞くなり、失望したかのような顔になった。
「あなたの弟、第二王子はさぞかし立派な方なのでしょうね。あなたが国を任せるにふさわしいとお考えのようですから」
急に他人行儀になったリリーに、レオナルドは突き放されたような気分になる。第二王子を褒めないとさらに距離をとられてしまう。そう感じたレオナルドは、答えを絞りだした。
「第二王子のロイドは、魔法をうまく使えます」
レオナルドはしどろもどろに答える。実際、第二王子に国を任せようと思えるわけではない。彼は魔法を使える。王族にとって重要なそのスキルを彼は持ち合わせているのだ。レオナルドにとって、彼を推す理由はそれだけだった。それ以外には、なかった。
「魔法が使えるかどうかじゃない。素質の話を聞いているの。王を継ぐにふさわしいお方なの? 私にはそうは思えない」
リリーはどうやらすべてを知っているようだ。魔法薬を王族に届けているとはいえ、王族の内部事情を知っているというのか。このようなことがあっても良いのだろうか。そんな疑念を抱きだながらもレオナルドは答える。
「ロイドは少し横暴なところがあります」
昔のロイドはそんな子ではなかった。彼が変わったのはいつからだろう。母が死んでしまって、レオナルドとロイドそれぞれに教育係が付いたころ、そうロイドの近くにザフロスがうろつくようになってからだ。
この世の邪悪を詰め込んだような男。レオナルドは彼にそんな印象を抱いていた。彼が悪事を働いたという噂を直接聞いたことはない。しかし、レオナルドの直感がザフロスを受け入れないでいたのだ。
「あなたが逃げるということは、彼に王を継がせることになるのよ。わかっているの?」
リリーの言葉は、レオナルドの不安をあおぎたてる。魔法を使える以外の素質。レオナルドはロイドに対して、そのようなものを感じたことがなかった。
「ただ、ロイドは決して悪い者ではないのですよ。ロイドの教育係が、彼をそそのかしていて」
最近はロイドと廊下ですれ違っても、挨拶を返してくれなくなった。しかし、レオナルドにとってロイドはいつまでも最愛の弟なのだ。
「ザフロスね」
間髪入れずにリリーがその名を口にしたものだから、レオナルドは驚いてしまった。
「なぜその名を知っているのですか」
「私のことを殺そうとしている者の名前だから」
ザフロスが? どうして王族でもない森に住む少女を殺そうと……。彼女はザフロスにとって何か不都合な存在であるのだろうか。レオナルドは必死に記憶を探り始めるが、思い当たる節は見当たらない。何よりザフロスは謎の多い男だ。
「リリーのことを? どうして……」
「私が、邪魔だからよ」
リリーはそれ以上、多くを語ろうとしなかった。聞いてはいけない気がした。
さあさあ、とリリーは手を叩く。
「今日からあなたには、魔法薬作りの手伝いをしてもらうわ。その代わり、ごはんを作ってあげる。それでいい?」
リリーはてきぱきと喋った。さっきまでの暗い話題が吹き飛ぶように、明るい声だ。
「わかりました」
「手伝いをしている間に、あなたの気が変わることを願うわ。いつまでもここにいてばれないわけもない。兵士が街を探し始めてどこにもいなかったら、きっとここを疑うでしょう」
森のなかまで? さすがにこんなところまでは探しに来ないのではないか。レオナルドは少し疑っていた。
「本当にこんなところまで探しにくるのですか」
「まあ、探しにくるときに見つかるとは限らない。王族の血を引く上級兵士のなかには、気配を感じ取るのがとても上手い者もいるから」
リリーの言うことはもっともだ。ロイドの教育係、ザフロスはその代表格だ。広い宮殿のなかでも、レオナルドがどこにいるのか全て把握しているように感じることが多かった。
「レオナルド、草むしりさえしたことないでしょ」
リリーは馬鹿にしたようにそう言った。王族が草むしりをすることなどあるわけがない。
「もちろん、ありませんが」
レオナルドはむすっとして答える。
「草むしりをするときは普通、植物の根元から引っこ抜くの。もう生えてこないようにって」
なるほど、理にかなっている。レオナルドはうなずいた。
「だけど薬草の場合は、また生えてくるように根本より上から抜いてね。今回、あなたにはこれと同じものを探してもらいます」
リリーはそう言うと、ポケットの中から10cmほどある緑色の草を取り出した。なんの変哲もない、ただの雑草に見える。そんなものを見分けて探し出すなんてできるわけがない、そう思いながらもレオナルドは聞いてみる。
「これはどうやって見分けたら良いのですか?」
「よく見て。この草の先っぽ少し白くなっているのがわかる?」
言われてみれば、草の先端部分が少し白く光っていた。
「本当ですね」
「ここが薬になる部分なの。これを取ってきてほしくて」
「この草はどこにあるのですか?」
「木の根元に生えていることが多いわ。でも、よく目を凝らさないと見えないものだから、頑張ってね。10本は欲しいところね」
リリーはそう言って、レオナルドの背中を押した。いきなりひとりで探しにいけというのか。けれど、弱音を吐くのはいやだった。レオナルドは何も言わずにうなずく。扉を開けて出ていこうとするレオナルドの背中に、リリーがつぶやくのが聞こえた。
「意外と、やるのね王子様」
馬鹿にされているようで、褒められている。怒っていいのか喜んでいいのかわからないが、レオナルドはなぜだか嬉しい気持ちに満たされていた。早く集めてもっと見直してもらおう。
改めて森の中を見渡してみると草がぎっしりと生えている。これならすぐ見つかるのではないか、と考えたレオナルドの想いは20分もあれば打ち砕かれた。休みなく探し続けているのに、まだ見つからないのだ。もうこんなことはやめてしまいたい。レオナルドは投げ出しそうになったが、リリーの言葉を思い出した。この国に働かずに生きていける子どもなんていない、か。レオナルドは第一王子というだけあって、今までずいぶんと甘やかされて育ってきた。もちろん、知識や教養、剣術に魔法、と覚えることはたくさんあったが、生活に困ったことは一度もなく、叱ってくる大人も王以外にはいなかった。
きっと、庶民はそうではないのだろう。そんなことにはとっくに気づいていたものの、実際に仕事を体験してみるとそれがどれほど大変なことなのか、以前よりもたやすく想像がついた。
「僕がここで諦めては示しがつかない」
王族から逃げてきたレオナルドにも、王族としてのプライドは残されていた。それから30分が経過し、レオナルドはようやく木の根元に先端の白い草が生えているのを目にした。
「やっと1本だ」
たったの1本。あと9本も見つけないといけない。それでもレオナルドの心には、明るい光が宿っていた。
「もっと急ごう」
その後もレオナルドは休みもせずに探し続けたが、10本目を見つけたころにはほとんど日が落ちてしまっていた。しまった、家に帰る道がわからない。レオナルドはそんな絶望的な状況に気づいて頭を抱え込む。もう7時間以上はこうしていた。どうやって、帰れというのだろう。
「レオナルド」
リリーの声が聞こえてきた。リリーはレオナルドのすぐ側に立っていた。
「あなた、私の想像以上だったわ。初めての労働にしては過酷だったでしょう。よく頑張りました」
リリーはそう言うと、レオナルドの頭をポンポン、と優しく叩いた。懐かしい感じがした。母はかつて、レオナルドをこのように褒めてくれていたものだった。
「どうしてここが?」
「何となくわかったの」
リリーはごまかすようにそう言った。
「帰りましょう、家に」
家までは意外と近かった。いや、近く感じたのかもしれない。リリーと横に並んで何を話したわけでもない、その時間は幸せに包まれていた。
「ただいまー」
リリーが家の扉を開けた瞬間、おいしそうなにおいが鼻に入り込んだ。
「どうぞ、召し上がれ」
食卓には、色とりどりの食材が並んでいた。宮殿の料理では見たことのないものばかりだった。
「いただきます」
レオナルドは料理を恐る恐る口へいれた。ふわっと広がる甘い香りに、スパイスが効いている。食べたことのない味だった。だが、今まで食べたどの料理よりもおいしい。
「どう? 働いた後に食べる料理は?」
リリーが得意げにそう聞いてきた。
「おいしい。働いた後でなくてもきっと、おいしいことに変わりないはずです。リリー、君は天才なのかもしれません」
「作ったごはんを誰かに食べさせたのって、久しぶりよ」
リリーは嬉しそうに見えた。今まで大人びていたその顔にも、笑うとえくぼができることに気づいた。そんなところもあるんだ。気づくとレオナルドは声を上げて笑っていた。
「なによ」
リリーに少しにらまれる。
「いいじゃない、笑っても」
「君はもっと、笑っていた方が良いと思います」
レオナルドがそう言うと、リリーは複雑な顔をしていた。
「ひとりだと笑わないもの」
リリーのつぶやきが聞こえてきた。
夜は、リリーが木にかけてくれたハンモックで寝ることになった。リリーはいつもこうして寝ているのだという。空を見上げると、満点の星空が広がっていた。
「リリー」
隣の木のハンモックで寝ているリリーに話しかける。寝るのを邪魔されたのが嫌だったのだろう。なに、とリリーは少し不機嫌な返事をする。
「君はこんな毎日を送っていたのですね」
「そうよ」
こんな毎日も悪くないですね、その言葉を飲み込んだ。一人でこの生活をしているのと、二人いるのとではまた大きく違うのかもしれない。そう思ったからだ。二人いるから? リリーが一緒だから? そんなことを考えているうちに、レオナルドは眠りについていた。
次の日もその次の日も、レオナルドは同じような日々を過ごした。暗くならないうちに家に帰ることもできるようになっていた。そして二週間が経った頃には、仕事に少しずつ慣れてきて、前よりも指定された草を見つけるのが上手くなっていた。
「レオナルド、上達したわね」
「おかげさまで」
レオナルドが笑うと、リリーも声を上げて笑った。
「ついこの間まで、働いたこともなかったのに」
「また馬鹿にして」
レオナルドは、そんな冗談を言うこともできるようになっていた。
ふと、リリーが真剣な表情になった。
「森に誰かが入ってくる」
「なぜそんなことがわかるの?」
「気配でわかるの」
森の入り口はここから離れているのに。やはり、初日にレオナルドの居場所がわかったのはきっと何となくなどではなかったのだろう。
「何者なんだろう?」
「きっとザフロスよ。彼、魔法薬をいつもここへ取りに来るの。それにしても、おかしい。いつもは事前に伝達バトが飛んでくるのだけれど」
ザフロスは第二王子の教育係に指名されるほどの上級兵だ。なぜザフロスほどの上級兵が、ここへ来るのだろう。レオナルドは顔をしかめた。
「なぜ他の者ではなくザフロスが?」
「彼、私のことを監視しているのよ。まだ、レオナルドがいることはばれていないはず。大丈夫、隠れていて」
リリーは家の物置を指さした。
「わかった」
レオナルドは言われた通り、物置に身を隠した。リリーが何かの粉を振りかける。
「これで、あなたの匂いや存在がわからなくなるはず」
しばらくすると、扉をがちゃがちゃといじる音が聞こえてきた。
がちゃ、とリリーが鍵を開けるや否や乱暴に扉を開ける音がした。思わず、身が強張る。リリーは大丈夫なのだろうか。
「鍵はかけるなと言ってあるはずだ」
ザフロスの低くて重い声が家中に響き渡る。
「そのくらい好きにさせてよ」
「相変わらず生意気な小娘だ。わかっているのだろうな、お前の命は私が握っているということを」
前から嫌いだったザフロスのことを、ますます憎く感じた。
「もちろんわかっているわ。魔法薬のレシピが私のなかにしかない限り、あなたは私のことを殺せない、ということもね」
ははは、とザフロスの笑い声が聞こえる。がちゃん、と鍋が落ちる音がした。うぅ、とリリーが苦しそうにうめく声が聞こえてくる。まさか暴力を振るわれているのだろうか。助けに行くべきか。
「離しなさい、ザフロス。約束通り、新薬が完成すれば私はあなたに全てのレシピを教えてお望み通り死んであげる」
約束通り、死んであげるだと? レオナルドは耳を疑った。そんな話、リリーは一度もしたことがなかった。止めなければ、そう思うのに身体が動かない。どうやらリリーの粉には身体の動きを止める力も入っているらしかった。
「ははは、人聞きの悪いことを言うじゃないか。君が処刑される代わりに、第一王子を守ってあげるという約束だ」
なんだその約束は。
「あなたが第一王子の悪口をずっと言っているからその腹いせよ。でも、約束は約束よ」
リリーの声はいつにもまして真剣だった。何がどうなっているのだろう。訳がわからない。
「当たり前じゃないか。僕は約束を破ったことは一度だってない。君のこともこうやって生かし続けてあげているんだ」
ザフロスはさも愉快そうに笑い声をあげた。
「生かし続けてくれている、のね。ありがたいこと」
「それはそうと、リリー。お前は知っているか。レオナルド王子が宮殿からいなくなったことを」
ザフロスはリリーを試すかのごとく、ゆっくりとそう口にした。
「そんな、彼がいなくなったの?」
リリーは初めて聞いたというような口ぶりだった。
「ああ、そうだ。私は彼のことが本当に嫌いでね。彼の気配はすぐにわかるんだ。それに、あいつからは庶民のにおいが漂っている」
がたん、と近くで音がする。物置のそばまで来ているのだろう。レオナルドは、息をするのが苦しくなってきた。ここにいるのがばれているのではないか。そう思えば思うほど、心臓の音がドクドクと音を立てて早まっていく。
「けれど、第一王子と第二王子のお母さまはお妃さまただひとり。違いなんてないでしょう」
リリーは冷静にザフロスの言葉を交わしていた。
「ああ、その血は間違いなく王族のものだ。だが、あいつは魔法がほとんど使えない。庶民になるべくして生まれてきた男だよ」
「王族の血を引いているのに教育係どまりのあなたには、王子の立場がよほどうらやましいのでしょうね」
「黙れ!」
ザフロスの怒鳴り声に思わず鳥肌が立ってしまう。彼がこのように怒鳴っているのは初めて聞いた。いつも冷静で冷酷そうな彼の、内面を見たような気がした。
「まあよい、もう少しの辛抱だ。もしも、もしもだ。お前が彼をかくまっているなどというけしからんことがあれば、新薬の完成も待たずお前を拘束するかもしれん。それだけは心に留めておけ」
ええ、とリリーの同意をする声が聞こえてくる。自分がここにいるとリリーが危なくなる。レオナルドはようやくそのことに気が付いた。
「それに、彼がいなくなればお前との交渉は成立しなくなる。その時は、すぐにお前を宮殿に招待して牢獄にぶち込んでやる。レシピはゆっくりと聞き出してやるぞ、苦しみが伴うかもしれないがな。ははは」
不気味な笑い声を残し、扉を乱暴に閉める音が聞こえる。彼はリリーを拷問にでも書けるつもりなのだろうか。はぁ、とレオナルドはようやく深く息を吐くことができた。それでもまだ粉のせいで、力が入らず動けない。
「レオナルド、出てきて」
リリーが扉を開ける。その姿を見ると、なぜだか安心した。リリーはさっきとは違う粉をレオナルドに振りかける。レオナルドの硬直が少しずつ、溶けていく。レオナルドは物置からゆっくりと出ていった。
「リリー、きみは」
リリーは、レオナルドから目をそらした。
「そうよ、私はそのうち処刑されるの」
「なぜ僕のことを守るの? 事情を詳しく話して。僕にできることがあれば何でもするから」
「さっきも言った通り、あなたを処刑の交換条件にしたのは彼があなたを敵視していたからよ」
レオナルドがリリーの手を握ると、さっと振りほどかれた。
「できることがあるとすれば、私はあなたに帰ってほしい。魔法が上手く使えなくたって、王によりふさわしいのはあなたなのだから」
リリーはそう言ったと同時に、はっとした顔をした。
「森のなかに人が大量に入ってくるのを感じる」
「今度は、何者なの?」
「きっと、ザフロスが兵士を森の外に待機させていたのよ。そして、ここへきて確信したんだわ。レオナルドがいるということを」
いくよ、そう言ってリリーが再びレオナルドの手を引いて家の扉を乱暴に開けた。周囲を見渡すが、まだ家の近くに侵入者の気配は感じない。
「まだ遠い」
リリーはそう言うと走りだした。森のなかをふたりで駆けていく。こんなときでも風が通りぬけていくのは気持ちが良い。
「なぜザフロスは兵士を連れてここへ?」
走りながら精一杯に声を絞り出す。
「今は、それどころじゃない! 捕まったらあなたも一緒に消されるかもしれないわ。それを私のせいにして処刑することだって考えられる!」
さっきの会話を聞いている限り彼ならやりかねない。なるほど、レオナルドのことを消すために兵士をたくさん連れてきたのだろう。
元々、ザフロスがレオナルドのことを嫌っていて、ロイドを王子にしたがっていることは知っていた。彼は、レオナルドを見かける度冷酷な顔をして話しかけてきた。内容は他愛もない話。けれど、その言葉尻からはレオナルドを蹴落としたがっているということが十分に感じられた。リリーのせいにしてレオナルドを殺すことができたなら万々歳なのだろう。レオナルドが宮殿に戻る前に、ザフロス側でない兵士がレオナルドを見つける前に何としてでもそれを実行したいのだろう。
「いたっ」
リリーが突然、レオナルドの目の前でつまづいて転んでしまった。
「リリー、大丈夫?」
「このくらい何ともないわよ」
リリーはそのまま走りだそうとしたが、今度はレオナルドがリリーの手を引いて止めた。
「まだ敵は遠いんだ。治療してからでも遅くはないはず」
「いいのよ。このくらいの傷……」
レオナルドはリリーの手を引いたまま、もう片方の手でかばんに入れていた魔法薬を取り出した。リリーの膝からは血が流れていた。
「こんなまま走っては、傷口が余計に開いてしまうではないですか」
レオナルドはしゃがみこんで、リリーの膝にたっぷりと魔法薬を塗りこんだ。
「あ、ありがとう」
リリーは困っているようでどこか嬉しそうな表情を浮かべた。
「ほらいくよ」
リリーはまた走りだす。しばらく走ったか、というところで息を切らしてリリーが立ち止まった。
「はぁ、はぁ……。知りたい? 私のこと」
「もちろんだ」
レオナルドは即答した。
「私は、王族の血を引いているの」
走り疲れて苦悶の表情を見せていたが、彼女の顔は決してうそをついているような顔ではなかった。それでもレオナルドは聞かずにはいられない。
「リリーが? まさかそんな……」
「嘘だと思うなら信じなくても良い」
リリーはそっぽを向いてしまった。やはり、レオナルドには彼女が嘘をついているとは思えなかった。それに、さっきのザフロスとのやり取りを聞いている限り彼女がザフロスにとってかなりの重要人物であることもわかった。
「信じるよ。リリーのことを信じる」
リリーは、レオナルドの目をじっと見つめる。レオナルドも彼女の目をじっと見つめた。本気だ、と察したのだろう。彼女は再び口を開く。
「この国で初めて魔法薬を作ったのは、私の祖母だった。彼女は王族の出でとても頭の良い人だったの」
あの魔法薬を作ったのがリリーの祖母だっただなんて。それが本当だとすると、今の国があるのはリリーの祖母のおかげだといえる。なぜなら、50年前にこの国が建国された当時、敵に殺されかけた当時の王を救ったのは魔法薬だったからだ。
「君の祖母は素晴らしい人だったんだね」
「ええ、私の誇りよ。彼女は王族の誇りでもあった。だけど王族にとって予想外だったことは、母が”外”で恋をしてしまったこと」
”外”は王族とは別世界だ。王族が守る対象が”外”なのであり、決して交わることは許されない。
「王族ではない者と結婚したというの?」
「そう。母は周囲の反対を押し切って、庶民だった父と結婚した。当時の王は、祖母に命を救われたこともあり母を許してほしい、という祖母の願いを聞き入れ結婚を許した」
レオナルドは今まで、法律に例外はないと聞いていた。つまり、リリーの両親の結婚はレオナルドが聞いた初めての例外だ。王を救ったという功績がそれほどに大きいものであることも、レオナルドはまた感じ取っていた。
「その代わり、王族が保有していた森で魔法薬を作り続けるという約束で」
それで、彼女はこの森に住んでいたのか。それなら、彼女の両親はどこにいるのだろう。
「リリーのご両親は……」
レオナルドが言いかけたのをリリーが遮る。
「私の両親は、すでに殺されたわ。ザフロスの一味にね」
レオナルドは、血の気がざっと引いていくのを感じた。リリーの目の前で殺した男と彼女はずっと、魔法薬の取引をさせられていたのか。彼女がどんな思いでいたのか、考えるだけで胸が引き裂かれそうになる。
「目の前で私の両親が殺され、私だけが取り残された。彼は私の顔を見て、恐ろしい顔で笑っていたわ」
「どうしてザフロスはきみの両親を殺したの……? 王が許した結婚だったのに」
法律に反しているとはいえ、王の決定は絶対だ。王の決定は基本的に法律にのっとるべきだ、ということも法律で定められてはいるものの、王の決定と法律が相反していた場合、優先されるのは王の下した決定だ。
「彼は純潔主義者よ。王族に庶民の血が混ざっていることが許せないの。魔力がなくなってしまうから、と彼は主張しているみたいだけど」
リリーが魔法なんて使えなくてよいのに、と発言した理由が今になってようやく理解できた。王族の血が入っていなければ、リリーはあんな目に遭うこともなかっただろう。
「本当は彼が王族の純血なのに、権力を持っていないことを根に持っているのでしょうね」
なるほど、そういうわけか。今までのザフロスの冷たさがどこに起因しているのか、ようやく理解できた。
「ザフロスが僕のことを目の敵にしている理由もわかる気がする。それにしても、元とはいえ王族の血を引いている者を殺して無罪放免なわけがない。どうしてザフロスは罪に問われていないの?」
「この国では15歳にならないと成人だと認められない。まだ当時12歳だった私の発言は認められなかった。ザフロスが殺した、と私は主張したのだけど、真実は闇に葬り去られたまま」
レオナルドはやりきれない気持ちになった。12歳で両親が殺され、しかもその犯人が目の前に野放しにされたまま、それがどれほど辛いことだったのか。想像することさえ困難だ。
「12歳の発言なら、真実だと受け止めるのが正常の判断だろう」
「この国では法律がなによりも優先されるの。あなただって、それは知っているでしょう」
それは事実だ。レオナルドは小さな頃から嫌というほど、法律の大切さを叩きこまれてきた。この国では何よりも、法律が一番だ。
「ああ、だから僕が生きている限り第二王子ではなく僕に王位継承権が授けられるんだ」
ザフロスがもっとも嫌がっているシナリオだ。
「私の両親が森に追いやられたのだってそう。まあ、ここでの暮らしは楽しかったけれど」
リリーの笑った顔があまりにも悲しくて、レオナルドは思わず目をそらしてしまった。
「申し訳ない」
「だから、あなたの謝ることではないのよ。でも、これからのこの国の未来はあなたが責任を負うことができる。あなたが自分の手で変えられるのよ。それがどれだけ素晴らしいことかわかる?」
リリーの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。いつも強そうな彼女の顔が、少し弱々しく見えた。強くならざるを得なかったのだろう。彼女は本来、誰かが守ってあげないといけない人だ。それでも、レオナルドの口からついた言葉は情けのないものだった。
「でも僕には……」
「そもそも、魔法が使えるかどうかなんて王の必須条件などではないのよ。法律で定められているのは王族であるか否か、という点についてのみ。王族であると魔力を持っているものだから、と勝手に皆が思い込んでいるだけよ。魔力すらなくても素晴らしい王様だって、他国にはいるのにね」
この国はおかしいのだろうか。今までそんな疑問を抱いたことすらなかった。けれど、彼女の言葉を聞くと少しずつもやもやとしたものが生まれてきた。
「レオナルド、あなたが王位を継承したくない理由は魔法が上手く扱えないから、それだけなの?」
「それだけでは、ないよ。これは王子としてあるまじき発言だけど、僕は皆の命や生活に対する責任を負うのが怖いんだ」
レオナルドは恐る恐る自分の想いを口にした。誰かにこの話をしたのは初めてだった。
「それは、当たり前の感情ではないかしら」
リリーの反応は予想外のものだった。てっきり、情けない、と叱咤されるものだと思っていた。
「どうして? 王はそのために存在しているものなのに。こんな弱音を吐いている者に王なんて勤まるはずがない」
「あなたが国民の命や生活に対する責任を負うのが重荷であると感じているということは、それだけあなたに王として使命を全うする責任感があるってことよ。私は、その重責を感じない人に王にはなってほしくないわ」
リリーの言葉は、レオナルドの胸にがつんと響いた。責任を感じるのは当たり前のことであるというのか。
「きみの言う通り、僕はその責任をいやというほど感じている。そんな意味では王に向いているのかもしれない。でも、その責任を負うことを怖がっていたとしても、立派な王になれると思う?」
「じゃあ、私があなたに質問するわ。怖がることが悪いことだと思う?」
え、とレオナルドは言葉を失ってしまう。王たるものこうあるべきだ、それが父である王の口癖だった。王とはどんな事態にもどっしりと構えるべきで、誰よりも強いメンタルを兼ね備えていないといけない。今までずっと、そう思ってきた。
「私は今、あなたの命を握っていると言っても良いかもしれない。私が上手いこと逃げ回る手助けをしないと、あなたは殺されるかもしれない。もちろんそれが怖いわけない。だからといって私があなたを置いて逃げると思う?」
今までのリリーの行動を思い返す。リリーは強く優しい子だ。彼女の身に何か起ころうとも、レオナルドの身を案ずるだろう。
「リリーは僕のことを置いて逃げることはしない」
「そうよ、そういうこと。怖いことと何もできないことはイコールじゃないの」
何もできない、その言葉はレオナルドにとっては痛い言葉だった。何でもできる王位の継承という権力から逃げたばかりに、何もできないまま処刑されるかもしれない。リリーだって、助けられたかもしれないのに。
「それにね。怖がっているから、危険が迫ったときの対処も考えることができるの」
リリーの発言はどこか意味ありげに聞こえた。
「ああ、兵士たちが四方八方に散っているわ。森のなかに逃げ場所がなくなっている。もう時間の問題よ」
リリーは息をひそめながらそう言った。リリーが今危険な目にさらされているのは、レオナルドがここに逃げてきたからに他ならない。レオナルドが宮殿から逃げてこなければ、たくさんの兵士が森に入ってくることなどなかったのだ。レオナルドは固く拳を握り締めた。
「そんな、僕のせいだ」
「あなたのせいだなんて」
リリーは慰めるようにそう言った。彼女の優しさに甘えてばかりいてはだめだ。
「リリーは逃げて。僕がおとりになるから」
「言ったでしょう? あなたは王になるべき人なの。その権利だって持っている。だからそうはさせない」
再びレオナルドが反論しようとすると、リリーがそれを手で制した。
「聞こえる? 足音が」
気配のわからないレオナルドにも、足音は聞こえる。少しずつ着実に、こちらへ近づいてくるのがわかる。レオナルドとリリーは息をひそめる。リリーは、レオナルドを突然、突き放した。
「私、ザフロスに捕まることにするわ。おとりになるからその間に逃げるの、わかった?」
「な、なにを言っているの? そんなことをしたらきみは……」
「私はもう殺されてもいいのよ。私は元からそういう運命だったの。もうずっと前から覚悟していたことよ。今さら惜しくなんて」
リリーは微笑んだ。今にも壊れそうなものを必死に隠して、つくろった笑顔なのだろう。こんな悲しそうな顔を、レオナルドは見ていることができなくなった。意を決して彼は言う。
「そういう運命だって? リリーは言ったはずだ。あなたにはこの国の未来が変えられる、と。もしもそうだとしたら、僕はリリーを殺させない」
「レオナルド、あなた……」
リリーは驚いて目をぱちくりとさせた。
「僕は、城に戻って王位を継ぐ。そして、リリーを守る。だから一緒に何とかして生き延びよう」
レオナルドは、リリーの手を取った。しばらくの沈黙が流れる。
「私のためにというのならそれは……」
「君のためだけじゃないよ! 君のおかげで僕は大切なことに気づかされたんだ。王となれば、権力が手に入る。権力が手に入れば、たくさんの人を救える。法律を変えることも、ザフロスが犯したような間違いをただすことだって、できる」
「そうね」
リリーは嬉しそうに笑った。
「けれど、僕はやっぱり責任を負うのが怖いんだ。リリーの力が必要なんだ。君がいれば僕は何でもできる気がする。だから、君を助けたい」
「わかったわ」
リリーはそう言うと、杖を取り出し振り下ろした。辺りが白い光に包まれた。気が付くと、リリーとレオナルドは宮殿のなかにいた。
「こんな魔法使えたの? 移動魔法なんて、上級魔法を。それに、こんな移動魔法が使えたのなら最初から……」
「最初から使えばよかった、と? この魔法は、王族出身の母が教えてくれた数少ない魔法のうちのひとつよ。宮殿に飛ぶための魔法。いざとなったら使うように、と。私は移動魔法が使えるわけじゃない。宮殿に飛ぶことしかできないの」
なるほど、レオナルドが王になる覚悟もないままに宮殿へと帰すわけにはいかなかったのだろう。もっと早くから宮殿に飛べば命は助かったかもしれないのに、逃げてきたレオナルドの気持ちを優先してくれたのだ。レオナルドの覚悟が固まるまでは、この魔法を使わないでいてくれたのだ。
「レオナルド王子?」
振り向くとそこには、レオナルドの教育係であるディールがいた。小柄で目のくりっとした優しい男だ。
「ディールではないですか」
「王子! 何てことをしてくれたのですか。心配しました本当に」
ディールは涙ぐんでいた。そして、何かに気づいたようにふと顔を上げる。
「待ってください、そのお方はどなたなのですか」
どのような説明をすれば良いのだろう。いろいろと考えてみるが、ディールに嘘をつくという選択肢はない。
「彼女は魔法薬を作っているリリーです。僕のことを助けてくれました」
「レオナルド王子のことを? それはそれは……」
ディールはそれ以上の事情を聴かず、ただただリリーに感謝を述べた。ディールが感極まってリリーの手を握ろうとしたその時、雷鳴のように大きな怒鳴り声が聞こえてきた。
「レオナルド!!!」
それが父の声であることは、明白だった。恐る恐る振り向くと、鬼のような形相をした王が立っていた。レオナルドは膝をつく。リリーもレオナルドに見習い膝をついて下を向いた。
「父上。申し訳ございませんでした」
レオナルドが言い終わるやいなや、王はレオナルドの頬をひっぱたいた。
「何てことをしてくれた! お前は、王族の恥だ。ディールにお前が王位継承を恐れているのではないか、ということを聞いた。お前は王位を継承することが怖くて、逃げ出したのだな」
ディールが申し訳なさそうにうつむく。きっと悪気があって言ったわけではないのだろう。レオナルドにはわかっていた。
「申し訳ございません父上。しかし、私にはもうその決心がつきました」
「本当なのかそれは」
王の声から怒りが消えた。
「はい。王位継承権、ありがたく頂戴したいと存じます」
「それなら良いのだが。忘れるな、二度とこのような真似はするな」
王の怒りがあっさりと収まったのは意外だった。
「もちろんです」
「ところでそこの小娘はどこの者だ。王族のなかにそのような顔を見たことは……」
王は言いかけて、口を閉じた。そして、何かを考えたあとで再び口を開く。
「まさか、彼女は魔法薬を作っているものではあるまいな」
彼女もまた彼女の母親に似ているのだろうか。王族で同い年くらいだとすると、彼女はきっと父上の知り合いだったのだろう。
「左様でございます」
「王族から出たものの血を引いている娘だぞ。この国始まって以来、王族で法律を破ったのは彼女が最初で最後だ」
レオナルドはまた、王からふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じていた。しかし、リリーのことをそんな風に言われて黙ってなどいられない。
「彼女の何が悪いというのですか、父上」
「何という口の利き方を! 法律の大切さは昔からあれほど説いていたはず。この娘のせいか!」
王は怒りのあまり、目を充血させていた。
「違います、一度でよいですから僕の話をきいてください」
「なんだと」
「彼女は、僕に大切なことを教えてくれました。僕が再び城に戻って王位継承権をいただく気になったのも、彼女のおかげです」
リリーに出会っていなかったらきっと、レオナルドは宮殿に戻ることはなかっただろう。もしかすると、ザフロスに捕まって殺されていたかもしれない。
「彼女に何が分かると言うのだ!」
王の怒りは一向に収まらない。
「王族に虐げられた彼女だからこそ、知っていたのです。この国が変わる必要があるということを」
王は激昂したかのように見えたが、その直後に少し表情がゆるんだ。
「政治に口を出そうというのか」
言葉とは裏腹に、その口調は少し落ち着いたものになっていた。
「私は父上のことを尊敬しております。しかし、この国が変わるべきであることも事実です。それは街へ出たからこそ、彼女と過ごしたからこそわかったことなのです」
再び、王の顔が平常に戻ってきた。その顔には、普段見られない優しささえ感じる。
「お前がようやく政治に興味を持ったというのか」
「左様でございます」
王はようやく納得したように、大きくうなずいた。
「お前が変えたいと思うのならば、その信念に基づいて法律を変えるとよい。もちろん議会の承認を得て、だ。そうやって、お前の正しいと思う方向に国を導いていくのだ。それがお前の役目だからな」
彼はやはりこの国の王なのだ。きっと、国民の命や生活を握っているという重責を感じながら仕事に当たっているのだろう。レオナルドはそれを実感した。
「ありがたきお言葉です」
レオナルドは深く深くお辞儀をした。王のなかから、彼女を今すぐにでも追い出そうとするような圧は消え去ったようだ。
レオナルドが少し安堵したところで、王がレオナルドを再び問いただす。
「彼女をどうしたいのだ」
レオナルドは大きく息を吸う。そして息を吐きだすようにその言葉を口にした。
「王位を継承した暁には、僕の妻に」
横でリリーがこちらを見ているのがわかる。彼女にもこのことは伝えていなかった。彼女は今、どう思っているのだろうか。
「王族でない者を王の妻に、だと?」
「彼女は僕に足りない魔力だって、存分に持っています。それに彼女は、王族の血だって引いています。役不足ではないはずです」
王は、リリーに向かって手を伸ばした。そしてそのまま目を閉じる。彼女の魔力を確かめているのだろう。
「たしかに、彼女の魔力は相当なものだ。だからといってそんなことが許されると思うのか」
「それに、彼女はこのままでは殺されてしまうのです」
「何を言っている?」
やはり王は何も知らないようであった。
「ザフロスが、彼女を処刑しようとしているのです」
「ザフロスが? なぜそのようなことを?」
レオナルドは、王に今まで見聞きしたザフロスの悪事をすべて話した。もちろん、彼がレオナルドをも殺そうとしていたことも。王の顔はみるみるうちに血相を変えていった。
「罪なき者に、罪をかぶせようとしただと? この国に存在している法律のなかでも最も重い罪のひとつだ。それに第一王子であるお前を殺そうとしていただなんて、王族としてだけでなくこの国の民としても許されざることだ」
「本当です。私がこの耳で聞いた話です。彼女はそれをずっと魔法薬の取引によって止めようとしてくれていました」
初めてリリーが面を上げて、静かにうなずいた。
「ザフロスの処分は後でただちに言い渡す。そして、レオナルド彼女との結婚についてだが、ひとつ条件がある」
父上が条件付きとはいえ、結婚を認めてくれたというのか。あまりの嬉しさにレオナルドの胸が高鳴った。
「何でしょう、父上」
レオナルドの声は少し上ずっていた。
「彼女と結婚をするのなら、お前が王位を継承した後に法律を先に変えることだ。法律が議会の承認を得てから、結婚しろ」
レオナルドは父がなぜそこまで法律に執着しているのかを知っていた。王族が法を破ってしまえば、民がそれを守るわけがない。王族は常に民の見本であるべきだという信念を持っているからだ。
「わかりました」
「だが、それまで宮殿に彼女の身を置くことは許可しよう。それは法律で定められているところではない」
王はそう言い残すと、その場を後にした。父が初めて、自分のことを一人前として扱ってくれた。レオナルドの意志を尊重してくれた。レオナルドにとってそれは、言い表せないほど大きな喜びであった。
「ザフロスを探せ!」
遠くの方から、王の怒鳴り声が聞こえてくる。
「レオナルド、さっきの話って」
リリーが隣で下を向いたまま、話しかけてきた。
「返事、聞かせてもらえるかな」
リリーはしばらくそのまま黙っていた。その時間はとてつもなく長く感じた。心臓が今にもはちきれそうだ。
「私、あなたより二つも年上よ。いいの?」
やはりリリーは年上だったのか。そんなこと、今さら気になるわけがない。レオナルドは声をあげて笑う。何はともあれ、プロポーズは承諾された。
「大丈夫。それでもこれからは僕がきみを守るから」
リリーは幸せそうな顔をして笑った。
「君には僕の横で、そうして笑っていてほしい」
レオナルドが言うと、リリーは彼の肩に顔を乗せてきた。その顔にレオナルドは顔を乗せる。
「これからはこうして支え合おう」
どんな困難が待ち受けているのかはわからない。それでも二人なら乗り越えられる。二人はそう確信していた。
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