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「……片岡?」
俺が勤める会社の後輩である、片岡がそこにたたずんでいた。こんな辺境の地で出逢えるとは、何という偶然だろうか。しかし、彼がここに縁があるという話は今まで聞いたことがないし、俺の小さい頃のあだ名を話した覚えもない。相当の物好きでない限り、こんな状態の村に観光に来るということもないだろう。――それに雰囲気が何となく違う。彼はいつもチャームポイントの八重歯を見せながら大口を開けて笑う、朗らかな人だった。一方で眼前の男性は、口をきゅっと引き結び、落ち着き払った瞳で俺のことを見つめていた。この人は片岡というよりむしろ――。
「……ちーちゃん?」
ひとりでに言葉がぽろりと口からこぼれ落ちた。すると彼はにこりと微笑んで歩み寄ってきた。花が綻ぶような儚げで色っぽいその表情は、片岡であったらおそらくしないだろう。あるいは俺に見せない表情だ。片岡の顔でそんな表情をされることへの物珍しさか純粋に表情に惹かれているのかどちらなのかはわからないが、俺の心臓は高鳴った。
「良かった。覚えていてくれた」
「ちょうど君のことを思い出していたところだったんだ。また会いたいなって。……久しぶりだね」
「うん、会いたかったよ。会えて良かった」
「……それにしても、びっくりした。ずっと女の子だと思っていたけどちーちゃんって男の人だったんだね。俺の知り合いにもそっくりだから余計びっくりしちゃった」
「……。キミがそう見えるのなら、そうなのだろうな」
ちーちゃんはふっと笑みを消して、悲しそうな表情をした。それを見て、もしかしたら昔は何か訳があって女の子の格好をしていたとか、あるいは逆に現在は意図的に男性の格好をしなければならない状況だとか、はたまた性自認のあれこれとか、そういう性にまつわるいろいろな事情の可能性が頭を駆け巡った。不躾なことを言ってしまったかもしれないということに気づき、俺は即座に謝る。
「ご、ごめん! 無神経なこと言っちゃったかな」
「いいや。キミは何も悪くないよ」
「あ……うん? とにかくごめんね。ちーちゃん……って呼ぶのもお互いいい年だから変か。名前、何ていうんだっけ。覚えていなくて申し訳ない」
「ワタシはちーちゃんだよ。他に名前なんてない。キミが名付けてくれたんじゃないか」
はて、そうだったかと記憶をたぐり寄せると、確かに事実だと思われる。はじめてちーちゃんに会ったときに名前を尋ねたら「わからない」と言うので俺が命名したのだった。由来は小さいから……といっても自分の身長と比較しての判断で、実際にはほんの数センチの違いしかなかったように思う。
それにしても子どもの頃は「そういうこともあるのか」と大して疑問に思わなかったけれど、名前がわからないというのも幼少期のあだ名しか名前がないというのもおかしな話だ。
思い返せばちーちゃんは(当時の自分の尺度で考えると)ちょっと不思議な子だった。汗をたくさんかいた後に飲む麦茶のおいしさも、ダンゴムシをひっくり返すとちょっと気持ち悪いことも、剣みたいでかっこいい枝の見つけ方も知らなかった。だけどそういう、俺が教える数々の素晴らしい発見を、いつもちーちゃんは「すごい」、「おもしろい」、「楽しい」などと俺を褒め称えて喜んでくれた。それに気を良くした俺はまるでヒーローになった気分で毎日ちーちゃんを楽しませることに奮闘していたんだったな。
……おそらくちーちゃんには、何か尋常ではない事情があるのだろう。だけど先ほど悲しそうな顔をさせてしまったので、これ以上深入りするつもりはなかった。そんなことを知らなくても俺たちは仲が良かったし、これからも仲良く出来ると思うのだ。俺は気を取り直して、彼に話しかけた。
「ねえ、今時間ある? せっかくだから少し話そうよ」
「ああ。ワタシも君と話したい」
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