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二
小さい頃の俺は、いや、今もそうだが、女のように背が低く目が大きいこのギョロ目がコンプレックスだった。名前も相まってよく女の子に間違えられていた。
そのせいだろうか、生来持っていた負けず嫌いに拍車が掛かり、スポーツは手当たり次第手をつけ足をつけ、実家の居間にはその時のトロフィーが飾ってある。特に俺が好きだったのは柔道だ。所詮体落が関の山だろうと舐めてかかってきた毬栗坊主どもを一本背負いで投げ飛ばすあの瞬間、不思議と心が軽くなった。嫌な自分を肯定できた気がした。
そんな小学三年の頃だったと思う。日隠と初めて話をしたのは。
たまたま席が隣になったことがきっかけだった。
「みおちゃん、消しゴム貸して」
「……」
「ねえ、みおちゃん。ねえったら!」
「……」
「なんで無視するの!」
彼女の尋ねに俺が無視し、授業中、切れた彼女が目に涙を溜めて俺の胸ぐらを掴んで揺すぶったのが出会いだった。
先ほど無視と言ったが勘違いしないでほしい。俺は別に彼女を無視したわけでなく、彼女が俺を呼んでいると思っていなかったのだ。
俺の名前は『澪』と書いて『れい』と呼んだから。当時の俺は格好つけて拙い漢字で名前を書いていた。その漢字を見て親御さんが勘違いしたのか、それか彼女自身が漫画か小説で覚えた読み方をそのまま使ったのだと思う。
それ以来、俺のことをか弱い美少年とでも勘違いしたのか、日隠は何かにつけて俺の世話を焼くようになった。それについて当時の俺は、いや、今でもそうだが疎ましいと思い、彼女のことを正真正銘、徹底的に無視していた。
垂れ目の瞳でまじまじと俺を見つめ、わかってない癖に聞きかじった知識を得意げに話す彼女が煩わしかった。
「みおちゃんってスポーツ得意なの?」
「れいだって言ってんだろ! いい加減覚えろよ」
何度も名前を訂正しても何がそんなに可笑しいのか、彼女は笑窪を作った顔で顎を軽く突き出して笑う。俺は正直この女が苦手だった。
「ねえ、スポーツできるの?」
「……」
「ねえ、どうなの?」
「……」
「耳が悪いの?」
「……」
「ねえ、ねえ、ねえったら!」
「……」
「知ってる? みおちゃんみたいな人、ツンボって言うんだよ」
「だから俺の名前はれいだよ!」
あまりにむかついて時には彼女よりもひどい、ここには書けないような人格否定的な、野蛮で残酷な言葉を口汚く罵ったことさえあった。
「なんだ、やっぱり聞こえてるじゃん。次の授業、理科室だよ。早く行くよ」
それでも彼女は意味を理解していないのか気にもとめていないのか、ケラケラと鈴を振りまくったように笑い、頼んでもいないのにポロシャツの襟首を掴んで引っ張り誘導してくる。その姿を他の者に見られた日にはあまりにみじめで、自分に追い討ちを掛けてくる。
もういっそ、その真っ赤な頰をぶん殴って唾でも掛けてやろうかと思ったが、思うだけ。どれだけ彼女に口汚い言葉を吐きかけようとも、それだけは躊躇った。女を殴ると自分が痛いと思ったからだ。自分に返ってきそうで怖かったのだ。それに、小学生の時点で中学生ほど力があった為、単純にひどい怪我を負わせて親や先生と揉めたくなかったからだ。
「みおちゃん、このペットボトル開けて」
中学生になっても顎周りに髭が生えることはなく、女みたいな顔だとよく舐められた。唯一、俺が怪力だと知っている彼女だけが、よく力仕事頼んできたものだ。
「……ほら」
この頃になると、彼女の名前の間違いについて訂正するのが面倒になり、彼女だけにその呼び名を許す形となってしまった。
「ありがとう、みおちゃん」
日隠もその頃になると汐らしさを覚え、柔和で暖かい笑みをつくれるようになっていた。
「数学の課題やったの?」
「あっ、……やってねえわ。みして」
「ダメ! ……教えてあげるからこっちきなさい」
しかしおっせかいだけは直らず、それこそ進路、受験勉強について親の次によく催促し、世話を焼いていた。この頃になると彼女の知ったかぶりの知識は本物に近くなり、俺よりも、クラスの中でも十位以内に入るほど賢く、変わらず本をよく読む女だった。
「みおちゃん、高校でも柔道するの?」
「いやしないよ」
「えっ、なんでよ! あんなにイキイキしてたじゃん」
「……めんどくさいんだよ。人間関係とか」
入部早々、先輩から舐められた俺は試合で恨みを晴らそうと正々堂々、思いっきり投げ技を使った結果、先輩に目をつけられ、顧問がソイツらを休部にさせるまで嫌味ったらしい小言や嫌がらせを言われ続けていたのだ。
「そんな……、高校でもみおちゃんの技見たかったのに」
「……」
「ま、一緒にいればまた見せてくれるしいいか」
「いつ俺が見せるつったよ」
「だって、この前見せてくれたじゃん。デパートで」
映画を観に二人でデパートに行った話を蒸し返す。俺がトイレに行っていた隙に知らないおじさん絡まれていたのを俺が助けた話だ。彼女も背が低く、童顔のせいか年不相応でよく舐められる。ただし、俺と違っていたのは舐められ
る相手の性質だった。俺と違って、典型的な亭主関白気質の男に舐められるのでなく、どこかジメリと湿った大人しい、良心の面を被ったフェミニスト、簡単に言えば変態に舐められる気質があった。
「本当、気を付けなよ。みおちゃん顔だけはいいんだから、ああいう勘違いした人がすぐ寄ってくるんだからね」
彼女が絡まれているのを発見した俺は、急いで戻って来るとオッサンに一喝いれた。すると男は一瞬怯み縮み上がるが、俺の姿を見た途端、急に高圧的な態度に豹変して襲い掛かってきた。
「ああいう奴、俺は慣れてるけど。問題はお前だろ、少しは危機感覚えろよ。あの時だってへらへらオッサンの話聞きやがって……」
「大丈夫だって、私のこと狙う物好きなんていないよ」
そして、このように珍しく俺が忠告してもてんでダメで。右から左へと聞き流し、真面目に聞き入れようと努力もしない。
「バカ、真面目に聞け。そういうのが好きな奴もいんだよ」
「いやいや、いないって。だって私こんな見た目だよ。未だに子供料金でバスに乗れるし。……こんな貧乳ちんちくりん好む大人なんていないよ」
馬耳東風だけならまだしも、謙遜とはいいがたい自虐めいたことを笑って言う彼女を俺は内心、殴ってやりたいと躊躇いを忘れそうになる。
「……それに、なんかあった時はみおちゃんがケチョンケチョンのボッコボコにしてくれたらいいんだよ」
ファイティングポーズをとって空を殴る日隠。こんな時だけ家柄がいいのに低学年のように擬音を交え、前みたいに得意げに笑うのだ。
「はあ? なんで俺が……、やだよ」
「なんでよ! 勉強教えてあげてるんだから、少しは私の力になりなよね」
「別に頼んでないし」
「いいからやるの、出ないと打つよ」
「やれるもんならやってみろよ、へなちょこボクサー」
「うるさい、ゴリラ! 遺伝子の暴力!」
「気持ち悪りぃ例えすんな」
そんなやりとりが高校、大学まで続き、そして大学三回生の夏休み、たわい無いメッセージのやりとりがパタリと止まり、ある日を境に彼女と音信不通になってしまった。
そして夏休みが明け、学内で彼女を見ることはなかった。
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