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 ずっと未読のままだったラインのメッセージが一気に既読になっている。携帯の画面を親指でスワイプして顔を上げれば、黄ばんだクリーム色のアパートに向かうのを躊躇う俺は立ち尽くす。このままでは駄目だ。今更のような、気まずい心中を打ち払い、意を決し彼女の部屋がある二階の突き当たりをめざした。階段を上っていると、土産の一つでも持って来ればよかったと後悔して顔を歪めた。  部屋の前に着いてチャイムを鳴らすも反応はない。 「さっちゃん、さっちゃんいるんだろ。なあ」  何度もドアをノックしても返事は返ってこない。仕方なく携帯を取り出して電話を掛けると、数回コールが鳴った後、不承不承といった風に繋がった。 「やめてよ」  彼女の第一声がそれだった。その冷たい、気怠げな声色に戸惑う。 「ドンドンうるさい。近所迷惑じゃん」 「やっぱいんじゃねーか。……つか、なんだよ、さっきのライン。休学するってどういうことだよ」  俺へのメッセージに未読のままだった彼女からやっと返事が返ってきたと思ったら『休学するから、あとしつこい』の一行のみ。  俺の尋ねに日隠はムキになったように言葉を尖らせる。 「もう決めたの。あと何度も連絡しないで! ……今、みおちゃんと会いたくないの」 「は? なんで」 「……こわいから」 「なにが?」 「……うるさい! 今はほっておいて」  電話は切られ、諦めきれず再び掛けるが繋がらない。意固地になった彼女は梃子でも言うことを聞かない。仕方なく俺はその場を後にした。  額に冷たい雫が垂れ、反射的に目を瞑る。天気予報通りポツポツと小雨が降ってきて、俺は持ってきていた傘を差して冷静に対処する。持ち手を握る手が悴み、せめてもと手持ち無沙汰の左手をジャケットのポケットに突っ込んだ。  たく、どうしたものか。白い息を吐くと、遠くから痴話喧嘩だろうか、女の切羽詰まった涙声が此方にまで聞こえてきて、俺は公園の方に視線を向ける。  外灯に照らされる二人の影。片方は髪が長く、後ろ姿で顔は見えないが、前のめりになって目前の奴に何か訴えている。 「……やめてよ、なんで……、なんでなの……」 「しつこいよ。話ってそれだけ?」  男の割には声が高い。しかし語気は優男のように落ち着きがあり、冷たく。言われた当人でなくとも、冬に堪える語気をしていた。 「急に話があると言われて来てみれば、やっぱりか。……こんなことなら、会わなければよかったよ」  その言葉に女は声にならない叫び声を上げ、目前の男を突き飛ばす。男はあっけなく後ろに突き飛ばされ、尻餅をつくと身を守ろうと両手を交差させて頭上に持ってくる。  なんどもなんども、女は慣れない不恰好なパンチを男の頭上、肩にお見舞いしている。 「ちょっと、ちょっとまってくれないかな。は、話し合いましょ、ねえ……」  息つく暇もなく殴られることで口調にボロがでた男は情けなく、関西弁混じりで女を止めようとする。彼女の振り下ろす手を掴もうと試みるが、あっけなく振り払われて殴られる。 「ちょっ、ちょっとまって……、待っ……まっ」 「しね! しね! ……このグズ! ふざけんな!」  俺はだんだん男が気の毒になって女を止めようと公園へと入り、振り上げた女の手を掴む。 「あんた、そろそろやめてやれ。……死にそうだぞ」  ライトに照らされた男の白い腕はしっぺ返しされたように真っ赤に腫れていた。 「……アンタ誰」  俺を睨む女の形相は蔑視に近かったが、雨か涙か、濡れそぼった睫毛を見て 俺は止めたことを少し後悔しかけた。 「いや、その、……あまりにも可哀想だったもので」 「はあ? アンタに関係ないでしょ! ……離して!」  彼女は掴まれた手を振りほどこうとするが、うんともすんともいわず。固定されたように握る俺の握力に徐々に気圧され、 「あの、……本当に離してください。……ごめんなさい」  怯え、もとい冷静を取り戻した。 「あ、すいません」 「いえいえ」  女は俺に目を合わそうとせず、何度も頭を下げると尻餅ついた男へ向き直り、 「……私、認めませんから」  一言、語気を強めてそう言い放つ。女は再び俺に頭を下げて小走りで去っていった。 雨に打たれる女の後ろ姿を眺め、なんだかそれが彼女の精一杯の強がりのように俺は思えた。 「いや、……助かったよ」  先ほどの情けない声は何処へやら、男は飄々とした胡散臭い優男のような声色で礼を述べる。そのなんだか演技臭い、浪漫めいた口調が引っかかり俺は男へと振り向けば、ライトに照らされたチェーンピアスに目が剥いた。  奴はイテテと呟きながら、重たい腰を上げて立ち上がる。 「いや〜、助かったよ、小野坂君。君は命の恩人だ」  奴は、……梅ヶ谷はそう礼を述べると、ハハと愛想笑いを浮かべ、 「悪いけど、傘の中に入れてくれないか。寒い寒い」  ハハ、悪いね、どうも。梅ヶ谷は俺の了承を得ずに傘の中へ入ってくる。 「とりあえず、駅まで頼む」  ひょんなことから梅ヶ谷と相合傘で歩いている。彼女の方が俺より頭一つ、いや、そこいらを歩く平均的な男よりも背が高い。傘を持ってくれるが、その得意げで無駄な優しさが癪に障った。そのせいか、お互い無言。 「さっきの、本当に人の男取ってるんだな」  これじゃいかんと、俺が気を利かせて梅ヶ谷に話しかけると、彼女はハハ、と愛想笑いを返す。その笑い声が心なしか冷たかった。 「君、顔はいいけどデリカシーないからモテないでしょ」 「うるせえ、大きなお世話だ!」  ハハのハ、も一つおまけに笑ってやろう。そんな考えが伺える笑い声。  梅ヶ谷という女について、俺は良くない噂を友人から耳にしていた。 『梅ヶ谷は裏で人の男を寝取る最低な女だ』  日隠が夏休み明けから大学に来なくなった辺りだろうか、時を同じくしてそんな噂が学科内で広まっていた。 『昨日、学内で女と口論している梅ヶ谷を見た』 『喫茶店で梅ヶ谷が女を泣かしていた』 『今日は頰に絆創膏をしていた、きっと女に殴られたに違いない』  正直、これらの噂を聞いた当初は、彼女がこんなことするなんて意外だと思った。同じゼミというだけで、深く接点はなかったにせよ、独特な雰囲気とウィットに含んだユーモアで絶えず周りに女がいた印象があったからだ。逆に男と連れ立つ姿など、今まで学内で見たことない。 「……そうだな、今日のお礼にいいことを教えたげよう」 「いいことって」  やけに機嫌よく梅ヶ谷が話すので、俺は相合傘をしてから初めて彼女へ目を遣った。 「君は一つ勘違いしている。……まあ、君以外もそうだけど。私は別に人の男を取ったりしてない」  彼女は得意げに話を続ける。 「美人な女と複数付き合っていただけだ」 「……あっそ」  俺は呆れ、視線を前方に戻す。 「引かないの?」 「どうでもいいわ」  ぶっきらぼうに答えると、梅ヶ谷はまたハハと愛想笑いした。 「まあ、中には訴えると怒鳴り込んできた男もいたけどね。……そう言うことなら、私は人の女を寝取る女だね」 「お前、そのうち刺されるぞ」 「だから刺されないうちにこうして、みんなと縁を切っているってことだよ」 「それで今度は女にボコボコにされてりゃ世話ねーな」  タクシー乗り場が見えてくると、無意識に歩幅が早くなる。街灯に照らされたアスファルトがてらてらとし、車のヘッドライトが眩しく俺は苦々しく目を瞑る。 「もう一つ、おまけ。君にお礼をしても?」  梅ヶ谷は俺を見下ろす、俺は眩しいのを引きずったまま、梅ヶ谷を睨み上げ る。 「おまけって、なんだよ」 「君の愚痴を聞いてあげるよ」  顔色が悪そうだからね。梅ヶ谷は自信たっぷりに鼻で笑う。 「……ただの風邪だ」 「うそつくな。ただの風邪のやつが雨の中、知らない住宅街を散歩するかね」  君は反対路線か。俺のリュックに掛けていたパスケースを一瞥してそう呟く梅ヶ谷。 「女の悩みならまかせてくれ」  適当か、推測か、心中読み取ったように切れ長の瞳が俺をじっと見つめてくる。その人間を見下したような悟った瞳が気に食わなかったが、暫し考え、俺は観念するように白い息を吐いて、 「……友達が、休学するらしくて」  女の扱いに慣れている彼女へ、日隠のことを相談することにした。 「……なるほど、彼女に恋人は?」 「いねぇ……、と、思う」 「そうか……」  梅ヶ谷は黙り込む。舗道を通り駅の出入り口で傘を畳み、俺に差し出す。 「まるで相談になりゃしねえ」  半ば八つ当たりで傘を引っ手繰る。 「ハハ、私は愚痴を聞くといったまでで、解決するとは言っていないもの」  勘違いしないでよね。彼女はお手上げだと両手を上げて皿にする。わざとら しいつっけんどんな口調。 「じゃあ」  改札を通り、プラッロフォームに向かうため彼女は左の階段へと歩いていく。俺も右方向へ歩き出す。 「小野坂君!」  階段を下りようと段差を踏んだタイミングで、梅ヶ谷が俺を呼び止める。  段差から足を戻して振り返ると、改札口まで戻ってきた彼女は俺に手を振って、 「会いたくないって言われているなら、いっそ女装でもしてみたらどう!」  似合うと思うよ。ハハ、彼女は最後、適当なアドバイスをして愛想笑いを浮かべ、階段を降りていった。  まるで相談にならないアドバイス。その筈なのに、俺は電車に乗ってからも、家に帰ってからも彼女のそんな無責任なアドバイスを忘れられず。彼女の愛想笑いと共に、耳にこびりついて離れなかった。
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