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五
ゼミ室が大分暖かくなってきた。無色透明のあくびが出て、俺は文庫本を閉じて手を枕代わりに机上へ顔を埋める。
途端、ゼミ室のドアが開いた。
「いや〜、生き返るな」
「……来んじゃねーよ」
「ハハ、ごめんごめん。今から寝るところだったかい」
演技臭い愛想笑いを浮かべて奴は、梅ヶ谷がゼミ室へ入ってきた。
「今日はまた、どうして君が……。もう後期の授業は終わったはずだろ」
「……まだ終わってねえよ」
またあくびをし、野太い声になりながら梅ヶ谷へと答える。
「四限にテストがあんだよ」
「はー、頑張って」
どうでもいいと言う風に、梅ヶ谷は棒読みで答えながらスチール棚へと向かう。
「おまえこそ、やめた割にはよく会うな」
俺は視界の端に置いていた文庫本を一瞥する。初めて梅ヶ谷が『グッド・バイ』に触れたあの日から一週間、昨日の卒論発表の終わりにゼミ担から梅ヶ谷が家庭の事情で学校を退学したと告げられた。
「言ったろ、別れ話をしに来てるって。……まあ、今日来た目的はそれじゃないんだけどね」
……あった。梅ヶ谷はスチール棚から埃をかぶったノートパソコンを取り出す。
「それお前のかよ」
気がつけばスチール棚の最上段にぽつんと置かれていたノートパソコン。俺はてっきり、卒業生か先生の私物だと思っていた。
「いや〜、壊れたまま持って帰るのを忘れていたんだよ」
「そんなもん、わすれんなよ」
梅ヶ谷は持ち帰ろうと埃をかぶったままのパソコンを脇に抱く。そのせいでニットコートがパソコンの表面を擦り埃が服に付いて汚れていく。
「きったねぇ、拭けよ!」
「別に、洗濯すればいいだけの話だろ、潔癖だな」
この女は綺麗好きのように見えて存外ガサツらしい。埃を許容できる彼女の神経が理解できない。埃が溜まるまで堪えられない俺にとって、そのままにして置くことが理解できなかった。
「普通だわ。あとニットは気をつけないと縮むぞ」
「そうか、……ならいい機会だ、新しいコートを買うよ」
「お前とは仲良くできない気がする」
ハハハハハ、梅ヶ谷は肩を揺らして愛想笑い。
「私も、性格ガサツ君とは仲良くなる気はないよ」
「さっさと早く帰れ、グズ」
梅ヶ谷から視線を逸らし、携帯を取り出して時間を見る。
「あれ、珍しい。君、確か良い時計持ってたよね」
そう尋ねれば、梅ヶ谷は脇に抱いていたノートバソコンを机上に置く。隣の
パイプ椅子を引いて腰を下ろす梅ヶ谷。女のチェーンピアスが揺れる。
「あ、別に良くねーよ。ホームセンターで、二千円で売ってたヤツだぞ」
「別に、誰も値段の話をしてないよ。デザインだよ。……ずっとシンプルな黒の時計をしてたじゃないか」
「……つけてくんの忘れたんだよ」
俺の返事に梅ヶ谷は途端、吹き出すように笑い声を上げる。
「まだ彼女と仲直りできてないのかよ」
「うるせえな! 早く帰れつってんだろ、このグズ!」
その乾いて下品な笑い声が小馬鹿にされたみたいで悔しく、ムキになって机上を拳で叩き、声を荒らげる。
梅ヶ谷は驚いて萎縮し、反射的に顔元に両手を持ってきて守る。
「ごめんごめん、悪気はないんだ。素の笑いだと、どうもこうなってしまって……」
気分を害したなら悪いことをした。調子を取り戻した梅ヶ谷は、元の浪漫的で飄々とした愛想笑いを浮かべて謝る。その根っこは悪いと思っていなそうな彼女の態度に舌打ちする。
「……なんなら私が彼氏から奪ってやろうか」
俺は目を剥いて梅ヶ谷へと顔を上げた。
「彼女の隣に絶世の美女ならぬ美少年がいれば、相手も引き下がるかもよ」
「ふざけんじゃねぇ! あいつじゃなくて野郎に色目使えばいいだろうが」
「それは無理、どうもこの顔は男受けが悪くてね」
自身の顔を指差し、俺へとにじり寄る。やっつけのような笑顔は、弧を描いた目端と口端が微かに震えている。
「確かに、キメェ……」
「直球だね、傷つくな……」
微塵も傷ついていない棒読みで呟いた梅ヶ谷は、今度はやたら真面目くさって、
「まあ、彼女さんに何があったのか、話くらいは聞けるかもよ。同性でしか理解できないこともあるだろうし……」
どうする? と切れ長の瞳は口説き文句を吐く優男のように、鋭く俺を捉えていた。
「……あいつに変なことしたら殺す」
梅ヶ谷の力を借りるのが癪で、少しの間言い渋っていた俺のやっとの言葉に彼女はまた吹き出し、
「お前が言うと本当にやりかねないよな」
と牛乳のように白い歯を見せ、下品に笑うのだ。
それからまた一週間が経った。春休みになって、もぎりとして働いている映画館は親子ずれやカップルが多く見える。もぎりと言っても名ばかりで、多くは客が見せるチケットや学生証を目視するだけ。それでも後ろに並んでいる客の圧が凄くスピードを求められる。当初は冷や汗を掻きながら業務を行っていた。
梅ヶ谷の連絡を待ちながら、今日もシフト通りバイトに励んでいると、とある二人連れの客が来た。三十代ほどの長身痩躯のヘラヘラした男が、中学生、高校生だろうか、化粧っ気がない艶がある黒髪が特徴的な女を連れていた。男の方は大人料金で、女の方は学生割引だったので、学生証を見せてもらうと高校三年生、十八の女だった。
「ありがとうございます。こちら8番シアターとなっております」
親子連れだろうか、その割に男は彼女に対してよそよそしい。機嫌の窺い方が父親のような愛らしさがなく、女を見る目に色情がある気がした。女の方もよそよそしく、緊張している風で、笑顔が堅い。すると、男は女の手を握り出した。女のダッフルコートの袖へ、男はアスパラガスみたいに細い指先を滑らせ、ゆっくりと指と指を絡ませる。五本の細い指はまるで蛇が巻き付いたようにねちっこく動き、何度も女の、少女の小さな手の感触を確かめる。
俺はヒュッっと息を呑み、一瞬固まる。あの……、と次の客に急かされ俺はハッとし、目前のもぎりの作業へと戻った。
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