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六
アミューズメント施設から出れば、空は紺色に変わっている。外灯に照らされる白い息。風が吹いて前髪が上がり、毛穴を縮み上がらせるその冷たさに思わず顔が歪む。無料送迎バスの停留所には、寒そうに猫背になって震えるカップルが三十分後に来るバスを待っている。俺はジャンバーのチャックを首元まできっちりと閉めて路線バスが停まるバス停へと向かった。
バスに乗り込み、一番奥から二列目に腰を下ろす。俺は上着のポケットから携帯を取り出して通知を確認すれば、梅ヶ谷から連絡が一本、着信履歴に残っていた。
「あ〜、もしもし、久しぶり。元気してるかい? ……て、してるわけないか」
バスから降りて、徒歩での帰路の途中。電話を掛け直すと、彼女は変わらず飄々としていた。
「連絡が遅くなったね。いや〜、すっかり忘れ……いや、手こずってね」
「……それで、結局どうだったんだ」
「あれ、突っ込んでくれないんだ」
わざとらしく悲しがる梅ヶ谷を無視し、俺は結果を催促する。
「まあ、結果だけ言えば彼女と話す事は成功したよ」
当たり前だと言わんげにあっさりと告げる。
「俺が聞きたいのはそこじゃねぇ! あいつが話した内容だわ」
「ああ、そういうこと……」
梅ヶ谷は淡白に理解し、
「なんでも彼氏は教師で、その男に半ば強制的に性行為を持ちかけられたらしいよ」
淡々とそう告げる。
携帯を握る手に力が入る。胸が一層寒くなって痛く、左手で胸元を抑えた。
「出会い系で知り合ったらしい」
「……な」
「なんでも初めて出会ったその日にやられたんだってさ」
「……そ……ねぇ」
「なんでも、ベビードールを着せられたってさ。知ってる? ベビードール。検索してみたら結構可愛いのがあってーー」
「ーーそんなわけねぇ! そんなわけあるか!」
閑静な住宅街に俺の怒鳴り声が響く。それがあまりにも滑稽で俺は悔しくなった。
「あいつが出会い系なんてするはずねぇ!」
電話越しでも分かる彼女の呆れた溜息。
「あのね、君が知らないだけで、今じゃあ出会い系アプリなんて当たり前だ。……たとえ、その中身が見るに堪えない奴で犇めき合っていたとしても、だよ」
「……それでも、あいつはそんな、変な奴に……」
俺はその続きが言い切れずにいた。『騙されるはずない』と言えるほど、彼女は、日隠は自身に対し甘く見ていたことを他の誰でもない、俺が一番よく分かっていたからだ。
胸元を握り締める。痛みに痛みで堪えるように、ジャンバー越しに爪を立てた。
「まあ、とにかく、そういうことらしいから」
「ちょっとまて! なに勝手に終わらそうとしてんだテメー」
「え、だって、私は話を聞くと言っただけで、その後なんて知らないよ」
薄情に言いのける。
「お前悔しくないのかよ!」
さっきから胸中が苦しく、俺は泣きそうになるのを必死に堪えていた。そんな俺の気持ちに茶々を入れるように、ハハと彼女はお得意の愛想笑いを浮かべるのだ。
「なんで私が、同情はしても私にどうにか出来るわけないだろ」
「それでも……」
「あのねぇ君……」
半分呆れ気味に俺へと諭すような声色で彼女は言う。
「悔しいなんて感情、捨てた方が楽になるぞ。……泣かされる女を見て一々傷ついていたら、自信がいくつあっても足らなくなるんだよ。劣等感半端なくなるぞ」
なにも言わない俺に対し、言葉を詰まらせていると勘違いした梅ヶ谷はなおも話し続ける。
「彼女さんについては、彼女の意思に従って警察に行くべきだと思うよ。証拠がないからなんとも言えないけど、……少なくとも、君にできることは多くないのは確かだよ」
堪えられず瞼に生ぬるい涙が溜まる。外の冷気に冷やされ、頰を伝う前にジャンバーの袖口で拭った。
「あいつをぶんなぐる」
不愛想な声色は震えている。
「バカか君は、そんなことしたって君が捕まるだけだぞ。せめて、襲われた証拠を学校側に突きつければ懲戒処分になるが、……それだけだよ。奴にはトラウマなんて残らないんだ。……あ」
最後、彼女が何やら思いついたように口を開けかけたが、俺は彼女の話を遮り、気持ちをぶつけてしまう。
「バカはお前だ! ああいう奴らは女だからって舐めてかかってくる。もううんざりなんだよ俺は! どいつもこいつもバカにしやがって、ぜってーゆるさねぇ……!」
ある日、いつも通り学生ホールに行けば、友達だった奴らが囁いていた。
『あいつ、口悪いよな』『態度もデケーしよ、なんか偉そうなんだよ』『……少しは女みたいにしおらしかったら、可愛げあるのにな』せせら笑う彼奴らに腹が立った俺は手元に持っていた飲みかけのペットボトルを奴らの頭上にぶち撒けて帰っていった。
それに関して後悔なんてない。それでもいい、ぶんなぐる。
「なら、君が女装して彼奴を掘ってやればいい」
トラウマにはなるかもね。梅ヶ谷が鼻で笑う。
「ぶっころすぞ、ゲス野郎」
悔しい。だからこそ、梅ヶ谷のその反応が許せなかった。
「ハハ、冗談だよ。……でも、いい考えだろ、証拠に君がなる。殴っても誰も君がやったなんて疑わないだろうね」
「誰が、死んでも女装なんて……」
どうも、奴が言う『女装』という言葉がやけに耳にこびりつく。その度に俺は激しい流水の流れに逆らうような、少しでも足をもたつかせると溺れてしまいそうな、恐怖心が沸き起こるのだ。
「……でも、彼女を助けたいんだろ」
落ち着いた梅ヶ谷の声色が、流水に逆らう俺の背後で楽になれよと囁いてくるようで、俺は頭を振るう。
「だから、それは俺が男をぶん殴って……」
「君が捕まったら、彼女はさらに傷つくんじゃないのか」
やけに真面目くさって梅ヶ谷は俺へと冷静に諭してくる。
「君が想っているあの子は、君のことバカにするのか。君を大切に想っている彼女は、君のことを悪く言うのか」
……少なくとも、私はそうは見えなかったが。その声色は悲しく、妬心を含んでいた。
「ま、私には関係ないことだね」
「おい……!」
そこで梅ヶ谷との通話は途切れた。
そんな一昨日の梅ヶ谷との通話を思い出し、俺はパンと牛乳をレジに持っていく。
「あ」
「あ?」
レジの店員が俺の顔を見て驚くので、訝しげに台から顔を上げると女と目が合った。
「……あの、この前は、どうも……」
女の店員は気まずく俺から目線を逸らして会釈する。パンのバーコード
を読み取る彼女に、俺は全く心当たりがない。
「あの、俺、どこかであんたと会いましたかね」
途端、女は掴んだ牛乳パックから顔を上げた。
「覚えて……ないですか」
「はあ……」
「……夜の公園で、その、……口論してた」
言いにくそうに頰を赤らめ、顔を背ける女。その際、後ろで一つに束ねた髪が肩に垂れる。揺れる黒い長髪。
「あー、……ああ! 梅ヶ谷の!」
夜の公園で梅ヶ谷と口論していた女だ。
「やっぱり、あの人とお知り合いでしたか」
こちらを窺う女は、さすが梅ヶ谷が選んだだけあって、唇が薄く、目元が涼しい美人であった。
「知ってたのかよ」
「ええ、彼女と話していたでしょう」
「いっとくけど、別に付き合ってねーぞ」
「ええ、存知ています」
女は笑うのが苦手なのだろう。苦しそうに口端がへの字になっている。
「あの時は、ありがとうございます」
牛乳を台に置いた女は深々と頭を下げる。
「いや、むしろ、急に俺なんかが現れてビビったろ」
顔を上げた女は客がいないのをいいことに、口元を一文字にして、何か堪えるような声色で口を開く。
「あの後、私、冷静になって。……とんでもないことをしたと、彼女に謝りました。……よく、あるんです。ついカッとなって相手を傷つけてしまう」
段々身の上話をし始めた女はどこか陰気臭く、先ほどの凛としていた姿と打って変わって、どこにでもいる女のように思えてしまった。
「いやいや、あれはあいつが悪いだろ。さんざん遊んだ挙句アンタを捨てたんだから……!」
「ちがいます!」
店内に響く女の声。真っ直ぐと俺を見つめる瞳は意志が堅そうだ。
「ちがいます。彼女は噂のようなひどい女性ではありません。とても、優しい子なんです」
「お、おお……」
台に手を掛け、前のめりに訴える女に俺は怖気付き、一歩後退る。
「噂じゃあ、複数人と遊んでるっていいますけど、ちがいます! 彼女は私としか付き合ってません! 本当です!」
「はあ……、そうなの」
頑として曲げない細長い眉は、眉間に皺が寄っている。
「でも、あのあいつがねぇ……」
一昨日の彼女との会話を思い出し、俺は嫌になって女の目前で苦々しい顔を浮かべてしまった。
「あれは演技です。本当の彼女は正義感がある優しい子なんです。……この前なんて、別れるから会わないって言っていたのに、同級生から守ってくれました。……そのせいで、頰に傷ができちゃって」
「想像できねぇな」
「私の意見は全部聞いてくれるし、愚痴も聞いてくれて、……優しく慰めてくれる。……私には勿体ないくらい良い子なんです。……だから私、納得いかなくてあんなこと……」
「あんたに疲れたんだろ。……あ」
余計なことを言ってしまった。思わず口から心太のように本音が飛び出て、俺はしまったと彼女の表情を窺うが、別段女は怒ってなく。むしろ核心を突かれたように心悲しく目を伏せ、顔を項垂れる。
「……確かに、そうかもしれません。彼女、他に好きな人がいたらしいから……」
彼女の瞳は決して、牛乳パックを見つめてなんかいない。暫し物想いに耽っていた彼女はハッと顔を上げ、不愛想に口元を一文字にしたまま牛乳パックを掴んでバーコードを読み取った。
「すいません。こちらお会計……になります」
俺は会計を済ませ、コンビニから出る。真っ暗闇の扉が開いた途端、頰に吹いた冷風で帰るのが億劫になる。俺は小走りでアパートへと帰った。
部屋に戻り、牛乳パックにストローを刺して左手に持つと、右手で携帯を弄りあいつに電話した。
「……なんだい」
三コール目でやっと出たあいつは、先ほどまで寝ていたのか気怠げに一あくびする。
「こんな夜更けに大迷惑なやつだな」
「……女装、してやるよ」
「ええ? なんて」
寝起きで頭が働いていない梅ヶ谷に、俺は声を荒げて言ってやる。
「だから、女装してやるつってんだよ!」
「あー……」
早い電波に寝起きの頭は追いつかず、処理に詰まった彼女は暫く唸り、
「勝手にやれば」
「はあ、なんだそれ! 俺がやるつってんだぞ!」
「……だから、やればいいだろ。あとうるさいぞ君、近所迷惑だ」
「女のことなら詳しいんだろが、教えろ」
「君ねぇ……、それが人に物を頼む態度かい」
俺はぐぬぬと歯ぎしりし、唇を震わせて一言、口を開く。
「お、……お願い、シマス」
「五万」
「クソッ、正義感のせの字もねえじゃねーか!」
「いつ私に正義感があると言ったんだい……」
やれやれ、電話越しに溜息を吐かれた。ガチャン、と冷蔵庫だろうか、遠くで瓶がこすれ合う。
「……わかった。俺も漢だ。払ってやる!」
「へへ、そうこなくっちゃね」
梅ヶ谷は現金なやつで、俺のその一言で目が覚めたあいつは、気怠い声色から一変、素の下品な笑い声で嬉しそうに笑うのだった。
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