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一
梅ヶ谷という人間ときちんと話をしたのは三回生の冬、そろそろ四年生の卒論発表が差し迫ったそんな時期だった。
暖房をつけたばかりのゼミ室で、俺はジャンバーを羽織ったままスチール棚に近い窓際の席に腰を下ろして文庫本を読んでいると、梅ヶ谷が部屋に入ってきた。
「あ、おつかれ〜」
梅ヶ谷の声色には浪漫的な軽さがあった。飄々とし、のらりくらりと世間を躱すような、何処か掴めない女だった。
俺は珍しいこともあるもんだと、活字から梅ヶ谷へと一瞥し会釈した。普段の彼女なら、講義ぎりぎり。ゼミ担の腕時計次第で決まるような時間に現れることが日常茶飯事だったからだ。
彼女は真っ直ぐに私の後ろを横切りスチール棚へと向かう。向かう途中、肩から掛けたショルダーバックから三角に折り畳んだレジ袋を取り出して広げ、棚のファイルケースの中から分厚く束となったプリント類を持ってその袋に入れた。ゼミ室の中で一際邪険に思われていたファイルケースだった。
書類の重みでポリエチレンの表面は地面へと引っ張られている。手提げを持った彼女が棚から去り際、振り返った際に俺の文庫本に目をつけた。
「……『グッド・バイ』か」
いきなり耳元で声がして俺は飛び上がる。その驚きように彼女はハハと愛想笑いのような笑いを浮かべた。微かだが、彼女が近づいた際に季節外れの花の匂いがした。
「知ってるのか? この本」
「まあ、有名だからね。一応」
「ああ、……そう」
「何処まで読んだの」
梅ヶ谷は机上に手をついて俺の顔を覗いてくる。彼女の耳朶に垂れたチェーンピアスが揺れた。
「もう、全部よんだよ」
「へえ、そんなに気に入ったんだ」
「別に、……そんなんじゃねーよ」
「ハハ、そうかいそうかい」
梅ヶ谷はまた、愛想笑いを浮かべて適当に流した。
「……君は最後」
「なに?」
梅ヶ谷はぽつりと呟いた。
「君は最後、田島は幸せになれたと思うか?」
「……田島って、だれ?」
「『グッド・バイ』の主人公だよ」
「『グッド・バイ』……、ああ、最後の短編か、途中で終わったやつ。それがなんだよ」
梅ヶ谷は切れ長の目をさらに細め、若干訝しげに俺を見てきたが、すぐに話を戻し。
「最後、田島周二は愛人たちと別れられて、妻子と幸せに暮らせたと思うかって話」
「ああ、確かそんな話だったな。うん、……普通に無理だろ。背中刺されて終わりじゃね」
梅ヶ谷は一回り大きい愛想笑いを吹き出した。
「やっぱり君もそう思うか……」
彼女の切れ長の目元が弧を描いているが、声色ががっかりしている風だった。
「あーあ、どっかにキヌ子がいてくれたらな」
じゃあね、梅ヶ谷は机上についていた手を離し俺に手を振るとゼミ室から去っていった。彼女と行き違いのようにその後すぐに先輩がゼミ室へと入ってくる。
昼休みが終わるチャイムが鳴り終わった頃に、これまた珍しく、遅れて先生がゼミ室へ来た。そこからいつも通り、先輩方の卒論状況や俺たち三回生の先行研究の発表など滞りなく進み、その癖いやに遅く感じられる二時間がやっと終わった。
ゼミ最中だろうか、マナーモードにしておいた携帯からラインが来ていた。
送り主を見て、俺は息が止まる。嬉しいというよりも不安になった。
なんせ相手は夏休みから学校に来ていない幼馴染だったからだ。
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