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「こっちがシャツです、そしてこっちがズボン」
叔父はズボンの一部を見て泣き崩れました。
「あんちゃん、二郎あんちゃん」
「お兄さんのものですか?」
「膝のあてもの、あれは母が縫い足したものです」
担当と私は顔を見合わせました。担当は首を振って否定しています。信じろと言っても無理でしょう。ですがもし、叔父の言うようにこの遺体が四十年前に空襲で亡くなった叔父の兄であるならば誠はどこかにいることになる。私は署に連絡して周辺の捜索を願いでました。地元や隣町の消防団も加わり辺り一帯、溜池の攫いまで行いました。しかし発見することは出来ませんでした。もしかしたら本当に誘拐されているのかもしれない。萬屋の主人に電話には注意するよう伝えました。悲しみに暮れていた夫人に希望を与えたことは逆に罪深いことだったかもしれません。夕方になりました。今日の捜索は終了し明日早朝から再開することが決まりベンチの前で叔父と別れました。
「雨のようだな」
東の空は明るい。
「降りますか?」
「雨の臭いがする」
すると西の空から夕立が真っ黒い壁を立ててやってきました。
「来た、刑事さんも中に入りなさい」
「これ借ります」
店先にあった金盥を被り夕立が来るのを待ちました。
「刑事さん、刑事さん」
叔父の声は雨に消されました。金盥を叩く雨音は戦場の機関銃のように耳を劈きます。ベンチまで来た黒い壁、身体の後ろ半分を夕立の中に、前半分を晴れの中に、私は走りました。夕立の速さに合わせて畔を走りました。すると溜池から取水栓で繋がれた畔に少年が立っています。ずっと先のアパートの二階から男が叫んでいます。私は少年を脇に抱えて走りました。畔が泥濘、足が滑りました。少年が『魚籠』と声を上げました。
「魚籠はもういいんだ、あの魚籠はもういい」
気が付いたときには私は病院に搬送されていました。目が覚めると富岡が立っていました。
「あの少年はどうしました?」
「ああ、見つかった。やっぱり待田だ。町の女に預けていた」
私は午後病院を出ました。そして萬屋に行くと何もなかったかのように店を営んでいました。叔父が出て来ました。
「これから兄の供養に行きます。良かったらお付き合いください」
私は曖昧に頷いて畔に向かいました。あの子が取りに戻ろうとした魚籠が沈んでいました。棒切れに引っ掛けて畔に上げました。大きな真っ赤ちんが鋏を持ち上げて威嚇しています。私はそのまま元の位置に沈めました。沈殿した土が煙幕のように土色になって上がって来ます。雨の臭いが西風に乗って流れて来ました。
了
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