オレンジに溺れたい

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 作は男の用意したちゃぶ台に氷を入れたコップと麦茶のポットを置く。男は自分で麦茶を注ぐと、勢いよくそれを飲み干した。それから男は、今日これまでにあったことを、作が尋ねてもいないのにつらつらと喋り出す。  作の一日は、いつもこうして始まるのだ。作は男の話を背中に聞きながら、小さな台所で、男にとっての昼食、自分にとっての朝食を作るのが日課だった。  今日作るのは、ナスとオクラの味噌汁だ。魚は一尾しか焼かない。男は物足りないと文句を言うだろうが、作にしてみれば半分で充分だから。それから、冷蔵庫に残っていた昨日の煮物を温める。納豆には卵の黄身を混ぜ込んだ。男は納豆は食べないから、これは作の分だけでいい。煮物が温まったら、今度は茶碗一杯分ずつラップで包んで冷凍庫で保存していた白飯をふたつ、電子レンジで温める。  寝起きの怠慢さが嘘のように作はてきぱきと動き、それらをちゃぶ台に並べていった。その間も、男は相変わらずぺちゃくちゃと喋り続けている。そうしながら、食事を待っている。 「それでな、」  そうしてやっとすべてを並べ終えたときにもまだ、男は喋り続けていた。よくもまあそんなに話すことがあるものだ、と作は思う。けれど男の朝は早くて、しかも毎日違う仕事をしているから、話すこともたくさんあるのだろう。  男の仕事は、言うなれば『何でも屋』である。隣の家の屋根を直しただの、脱走した鶏を探しに行っただの、そういうことを細々とやっているのだ。 「でな、昼飯食ったら、今度は川の向こうの……お、今日も美味そうだな。相変わらず焼き魚がひとつしかないのが減点ポイントだけどな。いただきます。んでな、なんだっけ、そう、川の向こうの村田さんのところに行ってくる。親父さんが風邪を引いたとかで畑仕事が回んないんだって。具合がよくなるまでは、しばらくそっちの手伝いが増えるだろうな」  そんな話を、「へえ」とか「ふうん」とか、作は適当な相槌を打ちながら聞く。  作にとって、この村に来てからの生活はあまりにも甘ったるくて、優しいものだった。都会にいた頃には考えられないような日々だ。あの頃は日々の生活に心を擦り減らし、それでも、作は縋りつくように都会で生きていたから。  今となってみれば、なぜそんなにも都会にこだわっていたのかわからない。ただこうして離れてしまえば、都会での時間の流れ方も、空気も、喧騒も、そしてその生き方も、おそらくはなにもかもが作には合っていなかった。そう思う。  この村での生活は、都会で擦り減らした分を取り戻す勢いで、いや、それ以上の速度で作の心を満たしていった。いっそ持て余しているくらいだ。持て余したものが心から溢れ出して、その中に心がぷかぷかと浮いているような気さえする。そのくらい、作は今、いっぱいいっぱいだった。 (そして、この人も)  作は目の前の男を見やる。肌を焦がして生き生きと笑うこの男もまた、作と同じなのだ。  にゃーん。  ふいに、窓の外で猫が鳴く。それからすぐに、ひょいと窓を越えて黒猫が一匹、軽々と部屋に入ってきた。作に擦り寄って甘く鳴く猫の首には赤いリボンが結ばれている。この猫もまた、作と同じように都会でなにかを擦り減らし、そんな心を満たそうとしているうちのひとり、いや、一匹だ。 「メシだってよ」 「はいはい」  男にそう促されて作は立ち上がり、もう一尾魚を焼いた。と、それを見ていた男がうしろで文句を言う。 「おいおい、猫には魚一匹で、俺たちは二分の一匹け?」 「だから、その似非訛りやめてってば」  へへっと男が笑う。それから、にゃーん、と催促するようにまた猫が鳴いた。
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