かげろう茶屋

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 向かう先に見える山、その(いただき)付近に雲がかかっているのがわかる。  青空にかかる白雲に墨を一滴混ぜたような色合いのそれは、みるみるうちにこちらへと流れてきた。厳しかった日射しは鳴りを潜め、ようやっと眩しさと別離した男は、わずかに頬を緩ませる。  これから峠を越えるところだ。陰りがあるのは、ありがたい。  流れる汗を拭い、少し元気を取り戻した男であったが、その心は瞬く間に反転する。  耳に響く遠雷。  この曇天は、雨を連れてくるのだ。  そして、その場所はすぐそこに迫っており、男はこれからその一帯へ足を踏み込む。  向かう先に見える峠道の脇には木立が並ぶが、ただの雨ならいざ知らず、雷が響く中で大木の下に避難するのは危険であろう。男の持つ知識がそう告げる。  ――やはり、さっきの町へ留まるべきだった。  苦い思いを抱えながらも、男ができることは少しでも早く先へ進むこと。灰色の雲はすでに頭上に広がりつつあるが、山の端はすでに明るい。  ならば、この雲もいずれはうしろへ流れてゆくだろう。いっときの雨さえ(しの)げば、どうにかなるかもしれない。  峠に差し掛かったころ、男の頬を汗とは異なるものが濡らした。  ひとたび自覚すれば見る間に数を増し、やがて大粒の雨となって地面へ突き刺さり始める。  ついさきほどまでは、熱による揺らぎで視界が遮られたものだが、今度は雨によって奪われてしまった。なんともついていない。  懐に忍ばせてある(ふみ)を濡らさぬよう右手で襟元を抑えながら、峠道を小走りに駆ける。緩やかな坂道をひとつ超えた先、ほんのすこし開けた場所に赤い色が見えて、目を()らした。  小屋がある。軒先にかかる藍色の暖簾(のれん)、扉は開いていて、その奥には赤い布地が映える縁台がひとつ。  茶屋というにはささやかな店構えだが、雨に打たれているこのときばかりは、天の助けのように感じられた。  ぐっと足を踏み込み、勢いのまま坂を駆けあがると、茶屋へ飛びこむ。  薄暗い店内は無人。まるで人の気配がなく、思わず一歩後ずさる。  もしやここは空き家なのか。  人通りの少ない峠で、商いを長く続けるのは困難だ。とうの昔に立ち退いているのかもしれない。  うすら寂しい気持ちになったとき、男の耳が物音を捉えた。店の奥から聞こえたそれは徐々に近づき、やがて人の声がした。
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