かげろう茶屋

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 激しい雨の名残がそこかしこに残る道。  水たまりを避けながら、男は考えた。  どうして別離のようなことを言うのだろう。  そういえば、いつも営業しているわけではないと言っていたか。  ならば、開いている日を聞いておいて、そこに合わせて峠に差し掛かればよいのではないか。  立ち止まり、身体を反転させる。  そして目を見張った。  店がない。  まだ十数歩ほどしか進んでいないにもかかわらず、いましがた出てきたばかりの茶屋の姿が、どこにもないのだ。  瞬きをする。  目をこする。  幾度見返したところで、状況は変わらない。  まるで狸か狐にでも化かされたような事態に、茫然と立ち尽くす。  頭上からは再び陽射しが降り注ぎ始め、暑気が立ち上がる。地面の湿り気を吸い上げた空気がむわりと漂い、ゆらゆらと揺れる。  そのとき、峠の向こうから男が歩いてきた。立ち尽くすこちらに気づいたか、心配げに近づいてくる。 「どうしたおまえさん、平気か? こんなところに突っ立って、まるで白昼夢でも見たような顔つきじゃないか」 「たしかにあれは夢のようなものかも知れない」 「おや、ひょっとして、茶屋にでも入ったか?」 「知っているのか!」 「いやあ、俺も噂でしか知らねえよ。だがな、なんでも妖艶な美人が手厚くもてなしてくれる店があるんだとか。けど、場所が定かじゃねえんだ。幽霊か妖怪のたぐいじゃねえかって話だが、行けるものなら行ってみてえもんだよ」  旅をする者たちの間では、よく知られた話だという。  一定の条件下でのみ出現する不思議な店。  いつ現れるとも知れないし、店を出た途端、跡形もなく消えてしまう。幽玄のような世界。  付いた呼び名が、かげろう茶屋。
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