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 スーツ姿のままスバルが繰り出したのは、馴染みのバーだった。そこでは一夜限りの相手を探したこともなく、顔を合わせたことのある客同士で軽く飲み交わす憩いの場所だ。此処ならば侑二も文句はないだろうと手持ちのワックスで前髪をかきあげた。野暮ったい前髪が後ろに留まりスバルの視界が一気に広がる。夜独特の雰囲気を受け止めて迷わずに突き進んでいった。  店内にはまばらだが客が既にいた。カウンターのマスターと目が合って会釈すると、視線と手のひらで席を案内された。隣にはラフな格好をした男の背中がある。何度か会話した相手だろうかと近づいてみれば案の定で、スバルの口元が弧を描いた。 「久しぶり。元気してた?」 「は? ……っスバル!?」  しかし男は、スバルの顔を認識するとカウンターに足をぶつけるほどに飛び上がった。その驚きようにスバルも半歩たじろいだ。 「そんなに驚く? こっちがビックリしたわ。二ヶ月ぶりぐらいだろ」 「いや……そうだけどさ……!」  男はスバルの頭から足まで視線を変えていく。何往復も繰り返されて正直居心地悪い。 (安否確認かよ)  そう内心毒づいたスバルだったが、男の呟きに目を剥く羽目になる。 「……無事だったのか」 「いや俺どこに行ったと思われてんの」  いやいや、と首を振ってスバルは男の隣に座った。男は身じろいで間隔を空ける。その動きにも違和感が拭え切れない。  不快に思わせるようなことをこの男にしただろうかとスバルは思い返したが、そんな記憶も特にない。この男とは浅い付き合いだったはずだ。起業家の既婚者で、奥さんが実家に行く時だけ顔を出すノンケの飲み屋好き。そんな彼はスバルとは関わりを持たない故に、当たり障りのない会話を楽しめられる貴重な飲み友達だった。  それが会って早々に驚き引かれ、触れるのを恐れているような目を向けられて。不明瞭なそれを追求しなきゃ美味しい酒も飲めないだろうとスバルは笑顔を作った。 「なに避けてんだよ。俺何かした?」 「あー……したというより、されてるからな」 (俺がしたわけでなく、何かされてるから避けた?)  返された言葉も意味が分からない。わざと尖らせた口をそのままに小首をかしげる。そんなあざとさに目もくれず、男は口を開いた。 「仕事してたのか」 「まぁここの所ずっと缶詰めだったよ。やっと飲みに来れたってとこ。マスター、今日はカンパリソーダで」 「そうか……マスターこいつのはキャンセルで」 「はぁ?」  身を乗り出して勝手にオーダーを取り消した男の肩を掴んだ。腹が立つ。先程から言う事やる事全てが思い通りにいかなくて、考えるより先に行動してしまった。 「何勝手なコト……!」  声を荒げようとしたスバルだが、男との間に人差し指を立てられたことで反射的に口を噤んだ。男は真剣なまなざしで携帯をスバルに見せる。手描きアプリのようで、シンプルな画面に黒い字が書かれていた。  ────口裏合わせろ 「……ここずっと見かけなかったもんな。顔色悪いぞ?」 (は? どういうこと?)  軽く心配する口調に反して、携帯をカウンターに置いて指示に従えと言わんばかりに画面を指で指し示す顔は切羽詰まっているように見えた。指示に沿うべきか迷うスバルの肩にポンと叩かれて振り返ると、寡黙なマスターが男の指し示す先を確認していた。男と無言でアイコンタクトした後、視線をスバルに移して頷く。  これはマスターもそうしろと勧めているのだろうか。スバルは口の中の僅かな唾液を飲み込む。腰のポケットから自分のスマホを出してメモアプリに起動させた。男と違って手書きのものは取っていない。プリセットされていたアプリは使い勝手が悪そうだった。 「そ……う、かも。久しぶりにお酒飲みたかったんだけどな」  その上、操作しながらの会話は苦手だ。つっかえながらも何とか返事をしたスバルは、これで良いのかと相手をチラッと見る。視線が合った男はまずまずの回答だったようでゆっくりと頷いた。 「そこまで疲れてる時は飲むなよ。昔痛い目みてんだ……吐くわ頭いてーわ最悪だったわ」  ​───────なんでこんな  手間取りながらフリックして文字を入れていくスバルに対し、男の手書きのレスポンスは早かった。  ​───────お前、多分盗聴か何かされてるぞ 「……はっ?」  相手の携帯電話に目を剥いて、思わず声が漏れた。ハッと咄嗟に口に手を当てるが、相手の男は同情しているような視線をスバルに向けた。  ​───────相槌だけでいい。とりあえず読むのに集中してくれ。  コクコクと頷くスバルに、マスターはレモンを浮かせた水を差し出した。酒をキャンセルしたスバルの気を落ち着させるために用意してくれたのだろう。当然アルコールは含まれていないそれを有り難く受け取り、乾いた口内を潤す。冷えた水がスバルの喉から胸元まで広がり、レモンの酸味が蟠っていた情緒を爽やかに押し流していく。半分ほど飲んだ時には、盗聴されているという戸惑いは残るものの、冷静に話を聞いてみようと姿勢を正せるようになった。  スバルが気を落ち着かせている間にも、男は器用に話しながら携帯の画面に言葉を埋めていく。話す内容は相槌だけで済むような、妻への愚痴ばかりだった。 「またあいつ実家に帰ったんだけど、帳簿も持って帰っちゃってさあ。いい加減仕事用と鞄分けろっての。おかげで今日は朝から県を跨いでたんだよね~」  ──確か先週だったか、この界隈でお前のことを話す奴が出て来てな。  お前は「遊び」で有名人だからな。酒のアテにするなんてのは良くある話だ。 (……ちょっと待て。話のネタにされてんのかよ)  思わず別の問題が浮上した気がする。いや、これは身から出た錆だ。今それをツッコむ時ではない。  ──だけど、そいつはやけにスバルの事を知ってた。お前は聞き上手だけど、どこで何しているかとか言わないだろ?  そいつ、お前の勤めている会社名とか言ってたらしくてな。    ヒュ、と空気を吸った後、スバルはその吐き方を見失った。
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