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「おい三谷、お前やったな?」 「何がですかその言い方。俺悪いことしてませんけど」  出社してからのメールチェック。必要な案件はピックアップして今日の仕事内容を脳内で整理していく。緊急性のあるものは今のところはなし。納期が差し迫ってきた後輩に預けた案件は観察しないといけない。手に余るようなら一部請け負う。それは直ぐに取り掛かるとしよう。  ルーチンワークを黙々とこなすスバルに影が差した上でこの第一声がかかった。会社内ではオフィスライクを心掛けているスバルは誰でも敬語で話すが、今難癖付けてきたのは同期の侑二だ。邪魔ではないが棘のある台詞に、つい返す言葉も雲行きが怪しくなった。 「……そのつもりがなくても分かんだよ。スッキリした顔しやがって」 「あ、バレました? でも仕事場でする話じゃありませんよね」 「あるんだよなぁこれがっ! 生産性ブーストかけやがると周りのチームにも影響が出るんだよ!」  俺の仕事量が倍増するんだよ! と吠えられてもディスプレイから視線を逸らさない。いつもなら少しは会話する姿勢を見せていたが、今日はとことん案件を片づけたい気分なのだ。時間が惜しい。最近後輩への指導が行き届いていないのも気掛かりだ。  性欲を一気に解消した翌日から、スバルの作業効率がすこぶる円滑になる。頭の回転は勿論、痒い所に手が届く気配りも発揮されて、悪癖の産物は仕事においては有能であった。おかげで評価も入社当初から好感触で、その分任される仕事量も比例してしまった。通常は人並みでしかないので、息が詰まったら夜の街に繰り出して発散し、会社の望む稼働をこなす。結果的に自分の首を締めている自覚はある。だが配分の加減ができない上に、スバル自身性に合っていると思っていた。持て余していた性欲への解消が出来て収入も増えるのであれば願ったりかなったりだ。 「その内来るはずだった仕事が入っただけですよ」 「コンスタントに行きたいんだよ俺はよ」  同僚の言い分も理解している。スバルが一人独走してしまえば、後に控える業務が圧迫してしまうのだ。納期は十分開きがあるものの、見た目の量に萎縮してしまうのはよくある事だ。こればっかりは慣れてもらう他ないので、後でお菓子の詰め合わせを差し入れたりして労ろうと脳内のタスクを更新していった。 「落ち着いたら今度飲みに行きましょう」 「お前とはやだね。目を離した隙にワンナイト決めてくる奴と飲み行くかよ」 「あれ、こないだは侑二さんも朝帰りしてませんでした?」 「黙れビッチ」  ピキピキと米神に血管を浮かばせて毒つく侑二の指が強めにキーボードを弾く。スバルは口を閉じたが記憶を遡ってあぁ、と納得する。確か朝帰り時に同居している彼女に酷く詰られたのではなかったか。まだ双方風化できないのだろう。この件は彼にとって禁句だったらしい。  肩を竦めたスバルは部下のトークページに割り振った作業の進捗状況を報告するようメッセージを投げた。即既読が表示され、遠くで「あっ」と声が上がる。スバルの脳裏にまさかな、と不穏に掠めるものがあった。しかし大概そういうものはよく当たる。 「三谷さんすみません~!」  発信先はやはりスバルがメッセージを送った相手だった。返信しようともせずに慌ててこちらに向かう姿でおおよその察しがついた。先程まで悪態を付いていた侑二も打って変わってニヤニヤと笑みを浮かべ出す。 「あれは白紙のまま持ってくるパターンだなぁ?」  神経を擽るその声に思わず米神を揉む。裁量を誤ったスバルが良くなかったのだ。後輩の反省する姿を見極めて叱らず諭し、恐らく手づかずの案件を先ずは処理しなければ。  頭は巡るまじく回転している。それでも出鼻をくじかれて気分は萎えてしまいそうだ。 「折角のやる気が削がれそうです」 「いいぞいいぞ、俺のためにも抉られてしまえ」 「慰めて下さいよ侑二さん」 「やぁだね、昨日楽しんだ相手にでも慰めてもらえばいいじゃねぇか……おいなんだその顔」  いつもならば「まぁそうですね」とでも返してくると思っていたが、今日のスバルは眉をキュッと顰め、口許は引き攣って何も言わなかった。苦虫を嚙み潰したようなその様子に思わず尋ねたが「別に」と顔を逸らされる。  いやいやその動きは「別に」ではないだろう。 スバルにしては珍しい苦い表情に、追求したい欲求が浮上していく。なんかあったなこれは。 「三谷クンや、昨日何が」 「あの案件は難しかったですかね。え、やってない?しょうがないなぁ君のデスクに行きましょう!」 「おい待てこら無視すんな。上司が一人の部下に付きっきりになるなよ」 「あーこれ〆が近いんですよねー俺のところはうるっさい人がいるから集中できませんねーしょうがないですねーさあ行きましょうか」 「誤魔化し方下手くそか!」  矢継ぎ早に向かってきた腰の低い後輩を言いくるめて、回れ右させ席を離れたスバルは侑二の「後で吐いてもらうからな」という声にゲンナリした。 (失敗を思い出させるなよ馬鹿)  実のところスバルは機嫌が悪かった。本当に今日は朝から運が悪い。それでも目覚めの景色といい目の前の差し迫った仕事といい、嫌な事柄は簡単には消えてくれない。結局は消化するしかないのだと、侑二とスバルの剣幕に怯える後輩と共にパソコンに向かうのだった。
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