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まず、鼻腔が強烈なその香りを感知した。微かでも主張してくる、僕に向けられた強者の香り。爽やかな義兄のそれとは違うと思った時にはもう遅く、遠慮のない足音が徐々に聞こえて息を飲む。
今日は夜まで人が来ないはずだ。入り組んだこの渡り廊下を迷う事なくこちらに近付く気配に、混乱と緊張が走る。
義兄なのかと淡い期待もした。けど何処か現実的な脳が真っ先に否定した。この無遠慮な歩き方は、義兄と似ても似つかない。
明らかなαの香りが、怖い。心臓がヒートと違った意味で早鐘を打って、本音を言うなら部屋を飛び出して逃げてしまいたかった。だけどヒートでまともに走れない上に、金縛りを受けたように強張ってしまって、身体が全く動いてくれない。
そうこうしているうちにとうとう部屋の前に来たようで、香りも存在感も間近に感じられた。襖を挟んだ先に、いる。この時ばかりは呼吸を止めて、どうかこのままこの部屋を素通りしてくれと拳を握って強く願った。
「こんなとこに隠れてたのか」
だけどそんな願いも虚しく、無情にも襖が開かれた。訪問者からソファは丸見えで、猫のように丸まって、醜態を晒している僕の姿も直ぐに見つかった。
「……は、これはクるな。イヤに匂うと思ったらヒートかよ」
低い、知らない声だ。それだけで身体の熱が上がって跳ねてしまう。踏み込まれる床の音。顔はとてもじゃないけど上げられない。
その人を認めてはいけないと、なけなしの理性が叫んでいた。この家に来てから何人ものαを見てきた僕だから分かる。この人は、普通のαじゃない。
「おい、分かってんだろ?とっととコッチ向けよ」
「……っ、ゃ」
「は?」
「ゃだ……来ない、でぇ……っ」
僕のフェロモンに充てられたのか、熱の篭ったαの声が、僕の情けない制止で一気に冷え込む。
身体がヒート以外の理由で震え、Ωとしての本能が身体の中で暴れて苦しい。呼吸のリズムも乱れ、自分を保てなくなりそうだ。
「来ないで、か。酷いこと言うもんだ。こんなに誘う匂いさせておきながらよ」
「……っ僕、が……好きでしてると、言うのですか……っ」
男が言った言葉は、煽り文句でも捨て置けなかった。頭が真っ白になって思わず反論を口にした。
目を開けて床を映す視界に、自分のものではない男の足が入る。緩慢な動きだけど、すぐ傍まで来ていた男を睨み上げた。
「おかえりください、僕は……っここを出るつもりは、ありません」
義兄との関係をこの人に踏みにじられる。そう思うと酷く悔しかった。
ヒートの疼きを押さえ込んで張りあげた声に、男は目を見開いた。明らかに初対面と分かる、見たことのない金の髪が外からの照明に照らされて眩しい。萎縮しそうだったけど、意地でも顔を下げたりはしたくなかった。
虚勢を張って威嚇する僕を男はどう捉えたのか、暫くするとゆるりと口が笑みを作った。
「──へえ。お前の言い分はそれだけ?」
「っそう、ですね」
「じゃあ俺からも言わせてもらうわ」
え、と僕が身構えるよりも先に、男はずいと屈んで僕との距離を詰めてきた。
頭上の背もたれが軋んだ途端に香りがブワッと降り注がれる。明らかに僕に対して発している、αの強烈なフェロモンに煽られるように血流が加速する。腰から下の部分がジワリと湿る気配がして、危険信号が脳裏で点滅する。これ以上接近されたら抗え切れないと感じて、突っ張って間を作ろうと腕を伸ばした。覆いかぶさる勢いの男の胸元に触れた手から激しい脈動と熱が伝わる。それに怯んだ僕を嘲笑うように、男は僕の腕を掴んでそのまま男の首の後ろに誘導していった。
完全に悪手だった。もう僕と彼を隔てているのは潰れるクッションのみで、鼻腔を通る相手の匂いが理性を焼き切っていく。ギラギラと欲を持った目とかち合う。それだけで伝播したかのように背筋に快感が畝って全身を駆け巡った。
義兄とは経験したことのない、でもいつかはと夢見ていた初めての衝動。そんな快感に耐性のない屹立が耐えられるはずもなかった。我慢できずに精を吐き出す感覚に、僕は喉を仰け反らせて戦慄いた。
「や、ぁあ……っ! く、ん、んぅ……っ」
「ハハ! 身体はイイ子だな。素直に歓迎してくれて安心したわ」
男の笑いに返す言葉も出ない。
イイ子と言われて胸の奥が揺れたなんて。 無理矢理回されて抵抗していたはずの腕が、今や縋るように相手の肩にしがみついて離そうとしないなんて。信じたくない現実が多すぎて目を閉ざしてしまう。
痙攣しながら達した身体は、ヒートとこの男のフェロモンに耐えた分もあってか、いつになく気怠い。まだ燻る熱の存在を感じながら、僕は抗えない意識の外へ落ちていった。
「四の五の言わずに来い。運命の番だろうが」
微睡む中で耳にした、ぶっきらぼうな事実なんて、僕は聞いていなかった。
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