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そんなふうに言われると、心を羽根でくすぐられたかのように気恥ずかしくなる。この人は、私が信じている世界を否定しない。それが嬉しくて心がフアッとまろやかになる。
「あの、君の名前を聞いてもいいかな?」
「アイリスです。アイリス・リプトンです」
「素晴らしい偶然だなぁ。オレが好きな花の妖精のアイリスと同じ名前なんだね」
「えっ? 花の妖精?」
訝しげに見上げるとバツか悪そうに顎の辺りを擦りながら呟いた。
「えーっと、説明させてくれないかな。アイリスというのはね、児童文学の主人公の名前なんだよ。大人気の作品なんだけど、知らないのかい?」
「……すみません。知りません」
我が家の書斎に本はたくさんあるけれど、子供向けの児童書は数冊しかなかった。
「残念だな。今度、ここに赴任したら見せてあげるよ。それじゃ、またね」
彼は、左膝をついて前屈みになると草の匂いのする私の指先にキスを落とした。
えっ。私は、次の瞬間、火傷をした時のように慌てて手を引っ込めた。カッと熱が胸の中で何かが溢れてしまいそうになる。固まったように棒立ちしていると、彼はフッと口許を緩めた。
「フランドラ式の挨拶だよ。ごめん、驚かせたのかな」
彼は、少しばかり困ったような顔をしている。そうなのかと気付いた。私は、一度も、そういう挨拶をされたことがなかったけれど、指先のキスは母の母国の形式を倣ったものなのだ。
「いえ、大丈夫です」
ザワワッ、ザワワツ。
海風が周囲の梢を細やかに揺らしている。私の黒い髪も後方へとサラサラと大きくなびいている。ザーッと風が二人の間を充分に通り抜けると、ふっと夢から醒めたかのように瞬きをしてから、彼は動き出した。
「それじゃ、さよなら、アイリスちゃん。また来るよ」
彼は、繋いでいた立派な馬の鞍に跨りると木々に囲まれた小路を下っていった。立ち上がる土煙は、すぐに綺麗な木々や空と溶け込むようにして消えて行く。彼は、馬上で美しい姿勢を保ったまま去っていく。
もう少し、顔を見ていたかった。こんなふうに、初対面の人に心を揺さぶられたのは始めてた。その日の夕刻、私は訪問者が来た事を叔母に報告していた。
「叔母様、ユリウス・ボーナムという方がいらっしゃったわ。どういう方なのですか?」
「コレットの婚約者よ」
その時、頭の奥が沈むような気持ちになった。何だろう。この妙な息苦しい感覚は……。私は、何となくしょんぼりしていたのだが、叔母は誇らしげに語っている。
「彼は、私の夫にとって恩人なの。ユリウスと夫との出会いはドラマチックなものだったのよ」
我が国アルスラ帝国は多数の殖民地を持っている。我が国が最初に目をつけたのが、綿花や香辛料や紅茶の栽培に適したムスタール国だ。傀儡の王を温存させたまま、我が国はそこを統治するようになる。
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