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1 一枝の恩
長き安寧を願って「長安」と名付けられたこの地が都ではなくなって十年にもなるだろうか。
それでも、たまに砂の舞う古都長安は、西域への入り口として、本朝の副都の一つとしてそれなりに重きをなした。副名は「西都」である。
中原の城市は、それぞれが城壁を持ちその中に人々が住まう。城市の中でも田畑があり、家畜が飼われているが、その多くは郊外の田園地帯で作られて運び込まれる。城門は朝の決まった時間に開けられ、夜も決まった時間に閉められる。
朝の早い時間に商品を並べたい商人は、開門と同時に物資が運び込まれることを望む。そのため、遠方から来た者のみならず、郊外の百姓もまた、夜明け前、城門が開く前に城門の前に並ぶのである。そこで物々交換や情報交換もされる。
師走のある日である。このあたりで雪はあまり積もるものではないが、地面が凍りつくほど寒い。誰かが焚き火を始めた。それぞれ手にした枝を火にくべてその火に当たり始める。そんな人の集団が城門の前にいくつかできた。
その中に一際若い男がいた。
男、というよりも声変わりの始まったばかりの少年と言っていい。
北方の人間らしく、まだ少年に過ぎないのに、十分に身長も高い。
少年は、近くに背が低くて目のくりくりとした書生風の男を見た。よそ者と見て、自分の枝を折って渡した。
「あんた、くべる枝をもってないだろ。火にあたるためには何か燃やせるものがねえとな。持ってねえ奴には火にあたらせてくれねえよ」
少年の名前は、周江と言う。ニコッと笑った顔がまだあどけない。
書生は驚いた顔をしたが、ありがたく受け取り、周江に続いて火に枝をくべた。
ー竹の枝か
背中には一本の大剣を背負っているのだが、まだ成長期の少年が持っているとまるで剣が少年を抱いているようでもある。
周江は、母と二人で暮らしている。父親はもういない。
二人でようやく食えるような田畑だけが残り、衣を新たに買う金すらない。
村は、長安落城から男たちが帰らず、残ったのは老人と子どもだけという家ばかりだ。どこの家も、作り手を失い、ようやく食えるような田畑が残るばかりである。余ったものを融通しあって、生きていくようなものである。
そこで周江は一つ思い立った。各家から余ったものを少しずつ集めて、長安で売ってみよう。
一度目は、騙された。
二度目は、少し売れた。
三度目は、もう少し売れた。
四度目は、また騙された。
夜が白み始める頃、ある男が言った。
「もう火には何もくべるんじゃねえよ」
もうすぐ城門が開く。
周囲を見れば、小さくなった火に、小便をかけて火を消したところもある。
ーさあ、吉と出るか、凶と出るか
周江は自分の荷車を探した。
ーあそこに止めたはずだが
他の荷車が動き始め、周江の小さな荷車は取り残されるようにある。
自分の荷車に手をかけたところで、大男にその手を掴まれた。
「このガキ。これは俺の荷車だぞ」
まさか。明らかに自分の荷車だ。
「何言ってやがる。これは俺のものだ」
「証明してみろ」
男は腕まくりをした。
そっちがそう来るならば、こうだ。
周江は背中の剣を抜いた。
「これは俺が碑林村から運んできたものだぞ」
剣で、ポンと荷台に焼き付けた「林」という字を指した。
本朝には文盲は多い。この周江本人も、たくさんの文字を読めるわけではない。しかし「林」という字は、木を二本並べるだけだし、林姓の者は少なくないので、読める者は多い。
「さっき焼き付けたに違いねえ」
男が難癖をつけた。
「河の兄貴、それよりあのガキの剣を見なって」
剣が向けられたのが恐ろしいのではない。剣本体の価値である。
男は舌なめずりをして、周江に言った。
「その剣を俺によこせ。宝の持ち腐れだろう。それで見逃してやらあ」
「絶対に、嫌だね」
周江から見れば、剣は護身用ではあるが、形見なのである。顔も知らない、実の母の形見である。
母は女剣士だった。女ながら、こんな大剣をふるったというのだからどんな人なのだろうか。母はこの剣一本を残して父を捨てたと聞かされている。赤ん坊を抱えた男が後妻に迎えたのが、周江の育ての母である。その父も戦火で死んだ。子のいない周江の育ての母は、貧しい中で周江を育て、二人で暮らしている。
男たちが襲ってきた。
体の軽い周江はひょいっと飛び上がった。しかし剣は重い、はずであった。
剣を支点にして、蹴り飛ばそうと思っていたのに、反対に剣に振り回される始末である。
足をつけてみれば、両腕が剣に導かれるように動く。
ーどうなってやがる
周江は剣に導かれるままに、男たちをなぎ倒した。
剣が河と呼ばれた男の太い腕に当たった。峰打ちである。妙に軽い妙な音がした。その途端に、腕の関節ではないところが曲がった。叩き折ったのだ。もう片方の腕、そして両足二本ともが、関節ではないところが曲がった。
次に剣は河の頭に当たった。峰打ちである。これは衝撃が軽く感じた。
楊江はついつい目を閉じてしまう。頭を叩き潰したかと思ったのだ。
ドーンという音がした。河の重たい胴体が地に倒れた。
ー人を殺しちまったか
恐る恐る周江は目を開けた。
脳漿が飛び散っているわけではない。試しに足で蹴ってみると、男は歯をガタガタさせて体を震わせている。
両足を叩き折って、平衡を失ったところを、剣が最後に倒したということであろうか。
城門から屈強な体の兵士たちがやってきた。
「…上から見ていたが」
兵士が怯えた顔をしながら楊江と周囲の人を見ながら言った。
鎧で体を守っているとはいえ、少年がはるかに体の大きな男を叩きのめしたのである。
それも、動けぬまでに。
相手は名うてのワルである。
ただの乱暴者ではない。
地主の息子で、お役人とつながっている。何度も何度も捕まっているが、大した罰を受けぬままに出てくることを繰り返している。
勝手に剣が動き始めたと聞いて、誰が信じるだろうか。
後ろの方から咳払いが聞こえた。
「説明しよう」
そこにいたのは、細い書生風の男である。
「この少年の荷車と剣を、この男が力づくで奪おうとしたのである。この少年は、身と財産を守ろうとしたまで。正当防衛である」
書生は続けた。
「昨晩、私はこの少年の後ろについて城門までやってきた。この少年がここに荷車を止めたのを見ていた」
言いながら書生は懐から玉佩を出して兵士たちにだけ見えるようにし、首を振った。
兵士たちは顔を見合わせ、言った。
「…わ、公子がご覧になっておられたならば、正当、防衛で、しょう」
兵士たちが去り、河が仲間に引きずられるように連れられたあと、遠巻きに見ていた中にいた中年女が、周江と書生に警告した。
「あんたたち、気をつけな。特に碑林村から来たって言ったのはみんな聞いてるんだ。村中が報復されないと良いが」
書生はそのまま如才なく礼を言った。
「確かにその可能性はあるな。あの男は、何か報復するようなことができるのか」
「河大人の息子だよ。知らないのかい?」
書生は思案して見せた。
「…河大人。聞いたことがないが、お女中、その者の役職はご存知か」
変な言い方をするお人だと女は怪訝そうな顔をして書生を見た。
「役職も何も、なんでも持ってる金持ちだよ。みんな知ってるよ。あんたはどこの公子かい。このあたりの人じゃないね」
女は頭を振りながら、私も忙しいんだよ、と去っていった。
残されたのは書生と周江だけであった。
周江は深々と書生に礼をしたが、どんな報復があるかと頭を捻る。
ー村に火をつけ、焦土にする
ここひと月ばかり雨も降らない。もともと雨の少ない土地柄で、恐れるものは火である。
「その剣だが、」
書生は周江の剣をしげしげと見た。
「…剣が勝手に動いたんですよ。信じられねえかもしれませんが、本当のことです」
書生は真面目くさった顔で答えた。
「それは信じる。信じるも何も、私が術をかけたのだもの」
書生は周江の背から一枚の札を剥がした。
「…つまり?」
「私が、この札を君の背に貼り付けて、念じて、剣を動かした」
書生は表情一つ変えない。
「…どうして」
書生は答えた。
「実際に私は君の後ろについて来たのだし、私のために枝を折ってくれたではないか」
周江は相手があの書生かと気づいた。
「しかし…公子。やりすぎというものではありませんか」
「…その剣は、動かしやすいどころか、動きすぎるほどであった」
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